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 玄関を開けると、とたんに馥郁ふくいくとした香りが漂ってきた。

 ホールの隅に置かれたアンティークチェスト。その上に上品に活けられた旬の草花。香りの元に目を遣りながら、季節ごとにアレンジを加えるこまめな彼女に感心する。

 さらに視線を上へとずらせば、壁に掛かった大きな大きな風景画。青い空と碧い海を描写したこの油絵は、およそ三十年ほど前に描かれたものだ。五十号という巨大なキャンバスに、大胆かつ繊細に表現されたその『あお』には、体ごと吸い込まれそうなほどの魅力があった。これも、彼女の作品である。

 ゆったりとした足取りで廊下を進む。すると、先ほどとはまた違った芳しい香りが漂ってきた。香りの根元はキッチンだ。

 ドアを開け、彼女の姿を確認すると、セオドアはその背中に向かって声をかけた。

「ただいま」

「……あら、おかえりなさい」

 夫が帰宅を告げる声に反応し、アンジェラは腰を捻るようにして振り返った。思わず発した感動詞。いつもに比べ、帰宅時間が早かったことに少々驚いているようだった。

 ロイヤルブルーのコートを着用した夫に対し、「お疲れ様」という言葉とともに、麗しい笑みを投げかける。

「今日は早かったのね」

「ああ。とくに急ぐような案件もなかったんでな。早々に切り上げてきた」

「あら、よかったじゃない。……ごめんなさい。夕飯でき上がるまで、まだ少し時間かかるのよ」

「いや、ゆっくりでいい」

 妻にこう返事をすると、セオドアは片手で襟元のホックを外した。そこには、きつく縫いつけられた、自身の階級を示す五つ星。諸々の窮屈さから、ほんの少しだけ解放される瞬間だ。

 ひとつに束ねていた長髪をほどき、軽く手櫛でかき上げると、胸元や背中に白金の美髪がさらりと流れた。

「何か手伝うことはあるか?」

「え? いいわよ、そんな。せっかく早く帰ってこられたんだから、ゆっくりしてちょうだい」

 カウンターの周りを、右に左に忙しなく移動する妻。その様子を見て純粋に生じた疑問をぶつけてみたのだが、かぶりを振って断られてしまった。見事な即答ぶりである。

 ここは彼女の言葉に甘えさせてもらうとしよう。心の中でそう笑みを零すと、セオドアはいったんキッチンをあとにした。完全に自宅モードへと心を切り替えるべく、先に自室で着替えを済ませることに。

 階段を上がり、廊下を突き当たりまで進めば、そこがセオドアの書斎兼衣装部屋である。ダークオークの分厚いドアを押し開け、室内へと入ると、ロングコートをソファの上に脱ぎ捨てた。ついで、革手袋等いっさいの装具を取り払い、シャツをも脱ぎ捨てる。

 ふと、視界に入ってきたのは、姿見鏡に映った自身の躯体。長年にわたり鍛え上げられたそれは、とても五十四歳のものとは思えぬほどに引き締まっている。だが、肌に散りばめられた傷痕を目でなぞるたびに、軍人として歩んできた月日を回顧するのであった。

「一年、か……」

 元帥という、軍の最高司令官の座に就任すること、早一年。すなわち、親友が荼毘に付されてから、早一年が経過した。

 

 ——この国を……頼む。

 

 彼が最後に遺した言葉は、今なおセオドアの耳に、心に、深く刻まれている。

「……」

 いまだに信じることができない。ゼクスが死んだことも、自身が彼から現職を引き継いだことも。……信じたくない、のかもしれない。

 けれども、前に進むしかないのだと、この一年は自身を鼓舞して過ごしてきた。もちろん自分ひとりだけの力ではない。周囲が、とくに家族が支えてくれたおかげで、前に進むことができたのだ。

 なにより、彼のひとり息子であるジークが懸命に乗り越えようとしている姿を見れば、自分が哀惜に沈んでいる場合ではないと思った。ふつふつと湧き上がる、彼を——これからの時代を築いてゆく若い芽を、守るという使命感。

 服と同時に気持ちを刷新し、髪を緩く結い直すと、再度キッチンへと向かった。

 自室から階段までのその間には、娘の部屋があるのだが、今は不在のようだ。おそらく、まだ仕事から帰ってきていないのだろう。例の一件が決定して以来、ある意味これまで以上に慌ただしくしている様子がうかがえる。

 今回の件に関して、いろいろと思うことはあるが、とにかく体を大事にしてほしい。父としては、目下それが一番の願いである。


「あっ、もう少しで夕飯できるわよ」

 キッチンに戻ると、アンジェラの手により、すでに完成した何品かがプレートにつぎ分けられていた。季節の野菜を中心とした献立。味の良さは口に入れる前からわかっているが、なんといっても彩りが素晴らしかった。彼女の色彩感覚、そのセンスは、抜群だ。

「ユリアは夕飯に帰ってこられるのか?」

 娘は不在だが、用意された料理は三人分。

 セオドアが首を傾げると、アンジェラは鍋をかき混ぜながら頷いた。

「ええ。今さっき、『お母さん! 今日はお母さんのご飯食べたいから、わたし早く帰るね!』って、生きのいい連絡が入ったばかりよ」

「ははっ。あいつらしいな」

 娘の特徴をうまく捉えた母の物真似。顔はよく似ているが、声はあまり似ていないため、そっくりとまでは言えない。それでも、娘の表情を細部まで想像できた父は、声を上げて笑った。

 歌手という、自分には到底理解の及ばない世界で奮励する娘のことを、セオドアは純粋に尊敬している。娘は、「みんなが支えてくれるから頑張れるんだよー」と、とくに気負う素振りなど見せることなく、あの調子で言うけれど、その重圧たるや相当なものに違いない。これは、息子とも話していたことだった。

「あんなに小さかったのに……いつのまにか、あの子も二十歳よ」

「どこへ行っても、だいたいは、あいつが最年少だったからな。我々も年を取るはずだ」

「今じゃ歌姫ディーヴァですって。どんなに有名になっても、あの子全然変わらないから実感わかなかったのに……」

「建国祭で歌うほどの歌手になってしまったな」

 セオドアはそう言うと、十日後に迫った建国二千年祭のことを思い浮かべた。自身も公人として大きく関わっているゆえ、情報は逐一耳に入ってくる。

 当日、彼が率いる軍部は、国賓中心に警護を担当することになった。よって、娘の警護担当には帝室直属の護衛官が充てられることになったのだが、もちろん娘が『娘』であることは公言していない。軍部には、ジークやイーサンをはじめ、事情を知る者も何名か存在するが、言うまでもなく彼らの口は鋼級にかたい。

 内務大臣とも何度も協議を重ね、警備体制には万全を期している。その点に関して憂いはない。だが、今度の一件で、間違いなく新境地を開くことになる娘のことは、気にかけずにはいられなかったのだ。親として。

「大丈夫よ」

「……うん?」

 突然、何かを取りのぞくように、妻が言葉を発した。彼女の真意が瞬時にはわからず、疑問符を飛ばす。

 しかし、次の言葉で、自身の内心がすべて見透かされていたのだということに気がついた。

「八年前だって、あの子ちゃんと乗り越えたのよ。だから心配しないで、貴方は貴方のお仕事してちょうだい。……大丈夫。貴方と私の子だもの」

 柔らかく、それでいて力強い妻の語調に、セオドアの胸が震えた。甘く愛おしい感情と同時に湧き上がってきたのは、最上級の敬愛の念。

「……そうだな」

 そうだ。我が子を親が信じてやらなければ、誰が信じてやれるというのだ。

 軍人として、肉体的にも精神的にも鍛錬を積んできたとはいえ、やはり妻には——母には敵わない。

「そうよ。……よし、ビーフシチュー完成! ごめんなさい。今さらだけど、お願いしてもいいかしら? でき上がってる分、テーブルに運んでもらいたいんだけど」

「わかった。……ちょうど帰ってきたな」

「え? あの子帰ってきた?」

「ああ、庭に車が入ってきてすぐに出ていった」

「ミトさんの車ね、きっと。さすが貴方。耳いいわね」

 セオドアの言うとおり、その後まもなく「ただいまー」という朗らかな声が夫婦のもとに届いた。弾んだ足音が、しだいにこちらへと近づいてくる。

「ただいま。……あっ、お父さん今日早かったんだね」

 ダイニング側の扉を開けたとたん、父の姿を捉えたユリアの顔がぱっと明るくなった。ぐるぐる巻きにしたマフラーで顔半分が隠れているが、それでも嬉しそうな表情が容易に見て取れる。

「おかえり。今夜はお前の大好物ばかりだぞ」

「え、なになに?」

 マフラーを指に引っかけて下にずらし、すんすんと部屋の空気を吸い込む。その真剣な顔つきに、父は小さく吹き出した。

「この匂いは……ビーフシチューだ!」

 頭上でフィラメントがピカッと光った瞬間、ユリアのテンションはさらに急上昇した。キッチンにいる母に向かい、最大級の笑顔で賛辞を贈ると、その勢いのまま父になにやら四角い箱を差し出した。

 謝辞とともに受け取るも、きょとんとする父に、ユリアが告げる。

「これね、社長から。ケーキなんだけど、お父さんのはビターショコラにしてもらったから。あとで三人で食べようね」

 こう言い残し、ユリアは着替えるために自室へと上がっていった。帰宅してわずか数分。家の中の雰囲気が一気に明るくなった……というか、賑やかになった。さながら小さなハリケーンだ。

 そんな娘の動向に、夫婦は顔を見合わせ苦笑した。


 家族三人が揃ったことで、ようやく始まったシュトラス家の晩餐。

 母の料理を唯一の楽しみに、今日一日を乗り切ったのだというユリア。「お母さんのご飯が世界一おいしい!」と連呼しながら、次々に口へと運んでいった。

 これに対し、アンジェラは「そう? よかった」と微笑むも、「ちょっとゆっくり食べなさいよ」と軽くたしなめる。とはいえ、娘にこんなにも喜んでもらえるのならば、作った甲斐があるというものだ。

 母娘ははこのこのやり取りに、セオドアは終始柔和な眼差しを注いでいた。似ているがゆえに、たまに(……否、よく)言い合ったりもするけれど、その騒がしさすらも、彼にとっては心地好いものだった。

 セオドアは十代の頃、不慮の事故により、両親を一度に亡くしている。それが原因で、士官学校への入学が三年ほど遅れてしまった。幸か不幸か、それが原因で、3つ年下だったゼクスと同期になれたのだけれど。

 家族とは無縁だと、そう投げやりになっていた自分が、妻と結婚し、ふたりの子どもに恵まれた。大切な場所。守りたい場所。その想いが、彼の三十年以上にわたる軍人生活を支えてきたのである。

「おいしかったー。ごちそうさま。さっ、ケーキ食べよ、ケーキ」

「あんた、これだけ食べといて、よくそんなすぐ食べられるわね」

「余裕だよ、余裕。お母さん食べないの?」

「食べるわよ」

「食べれるんじゃん。 はい、お父さん。ケーキ」

 妻には、子どもたちには、いくら感謝をしてもし足りない。

「ああ。……ありがとう」

 濃藍色こいあいいろの波間に、優しくたゆたうように。

 家族の夜は、静かに更けていった。


 ◆


「あ、そうそう。今週末、お父さんが一時退院するんですって」

「おじいちゃんが? 体調良くなったの?」

「うーん……相変わらずだけどね。今はちょっと落ち着いてるって感じかしら。あんたに会いたがってたわ。セオドアさんは、休みが取れなくて行けないんだけど……どうする? 私と一緒に行く?」

「うん、行きたい」

「仕事は? 大丈夫なの?」

「事情が事情だし、社長に話したら、たぶん調整してくれると思う。社長もおじいちゃんのこと心配してたし、病院には、わたしお見舞いに行けないから」

「孫だってバレたら、娘だってこともバレちゃうものね」

「……うん。ちょっと社長に連絡してみるね」

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