engrams(2)

 蒼穹へと駆け上がる旋律に、ユリアは一瞬にして心を奪われた。

 ロイヤルブルーの制服を身に纏い、隊列を組み、一糸乱れぬ動きで演奏する軍楽隊。その中にいる、自身のよく知るヒトに視線を結びつける。

「おじいちゃん!」

 高らかに鳴り響くトランペットの音色。美しいその音色が、祖父の口から生み出されたものだとわかったとたん、ユリアの興奮は頂点に達した。彼らの真剣な、けれど、どこか楽しさを内包した姿に感動し、魅了された。

 ユリアの中に残る、最も古い記憶。

 ユリアが初めて『音楽』を識り、『音楽』に興味を持ち、『音楽』に憧れを抱いた日の出来事である。





 ◆ ◆ ◆





「よし、オッケー。……あっ! 忘れ物忘れ物」

 スタンドミラーで服装を確認し、大きく頷く。と、用意していたものを持っていないことに気づき、慌てて鏡の前から姿を消した。テーブルの上に置きっぱなしにしていた紙袋を手に取り、小走りでドアへと向かう。途中、再度横目で鏡をちらり。

 薄手のロングニットセーターにショートパンツ。脚はタイツで完全に防備をかためている。あとは、ショートブーツを履けば出来上がりだ。

「ユリアー、準備できたー?」

「できたー」

 母からの呼びかけに返事をすると、ユリアは階段を駆け降りた。そのまま減速することなく、玄関で待つ母のもとへ。

 小春日和の昼下がり。突き抜けるような青天の下、ふたりは車に乗り込んだ。車内は、汗ばむくらいに熱されている。

 ハンドルを握るのはアンジェラで、ユリアは助手席……ではなく、後部座席。なぜなら、窓がスモークガラスになっているから。セレブとは、なんとも難儀なものである。

 本日母娘おやこが向かうのは、アンジェラの実家。アンジェラの父、すなわち、ユリアの祖父にあたるエドガー・マクレーンが、入院先の病院から一時退院を許可されたためだ。

「じゃあ、出発するわよ」

「はーい」

 後部座席に座った娘に一声かけると、アンジェラはエンジンをかけ、アクセルをふかした。ガレージを出て、広大な自宅の庭から小路へと進む。そこから、今度は大通りを目指し、車体を走らせた。

 マクレーン家までの所要時間は、およそ二十分。学園都市として整備された地区にあるため、同じ帝都の中ではあるが、ここよりもさらに緑が豊かで閑静だ。

 ユリアが母の実家を最後に訪れたのは、およそ半年前。周遊公演が始まる少し前のことであった。母と一緒に出かけるのも、そのとき以来である。

「お母さん、そのセーターの色いいね。似合ってる」

「あら、ありがと」

「なんていうか、その……」

「?」

「魔女みたい」

「……そう。ありがと」

 ルームミラー越しに交わされる、張りのない会話。

 アンジェラがこの日着用しているのは、大人の色香溢れるワインレッドのセーター。唇に施したローズレッドのルージュが、その色香をさらに引き立てているのだが、ユリアにはそれが『魔女』だと映ってしまったようだ。

 とはいえ、ユリアにとって、『魔女』はけっしてネガティヴな存在ではない。魔法を使用し、不可能を可能にしてしまう途轍とてつもない存在。内側に包含している(と勝手に思っている)悲しみや苦しみさえも美しさに変え、その麗しい容姿へと反映してしまう卓越した存在なのだ。

 こうした独特の感性の持ち主であるがゆえに、他人に誤解を与えてしまうこともしばしば。けれども、本人に悪意などはいっさいなく、むしろ善意しかない。

 娘の感性を理解している母は、かすかに複雑な気分を感じながらも礼を言った。「魔女みたい」とは、おそらく「きれいだね」と同義なのだろう。そう解釈し、呑み込んだ。

 車外の景色が、またたく間に流れてゆく。住宅街を抜け、繁華街を突っ切り、また住宅街へ。それからしばらく進むと、高台へと続く坂路に入った。

 鮮やかな緑の中で、ちらほらと色づいた木々の群れ。学園都市と呼ばれるだけあって、あちこちに学術機関や研究施設が立ち並んでいる。

 その中でも、ひときわ目を引いたのが、見るからに古い歴史を有する建造物。黒い煉瓦の外壁は蔦に覆われ、まるで悠久の時の中に置き去りにされたかのような森厳さすら感じられる。

 ここが、アンジェラの母校であり、彼女が8年前まで教鞭を執っていた、国立芸術大学である。

「……」

 暗い黒い針にちくりと胸を刺されたけれど、ユリアは気づかないふりをした。ここで自分が罪悪感を口にしたところで、きっと母に気を遣わせてしまうだけだ。せっかく一緒にいられるのだから、楽しく快然と過ごしたい。

 短く溜息を吐き、暗澹とした気持ちを払拭する。窓の外には、高台の開けた景色が広がっていた。整然と区分けされた住宅街。その一角に、落ち着いた佇まいの白樺の邸宅が建っている。

 アンジェラは、門の中へ入っていくと、慣れたハンドル捌きで裏庭に駐車した。降車し、裏口へと続く石畳の上を、娘とふたりで並んで歩く。真鍮のドアベルを鳴らし、「ただいま」と声をかければ、「おかえり」といらえがあった。

「久しぶりだね、ユリア。よく来たね」

 出迎えてくれたのは、ひとりの老年女性。

「こんにちは、おばあちゃん」

 アンジェラの母であり、ユリアの祖母である、シェリー・マクレーンだ。

 色の薄くなったヘーゼルの髪とターコイズブルーの瞳。顔立ちははっきりとしているが、非常に上品で淑女然としたヒトである。

「さあさ、中へお入り」

 手招きとともに促され、母娘は家の中へ。閑雅に歩くシェリーの後ろに続き、廊下を進む。

 家政学校の講師を長年務めていたシェリーは、その立ち居振る舞いが実に優美であった。足の運び方のほかにも、手の動かし方や服の着こなし方など、ひとつひとつの所作が洗練されている。そんなシェリーのことを、ユリアは幼い頃より、憧憬の念をもって見ていた。

 だが、アンジェラいわく、昔はかなり厳しく、口うるさいヒトだったらしい。よって、事あるごとに言い争いとなり、同じ空間にいるのが苦痛で仕方がなかったのだと。ユリアにとっては優しい祖母なので、まったく想像することができないけれど。

 祖母が立ち止まり、扉の取っ手に手をかける。案内されたそこは、応接室だった。

「お父さん、ユリアとアンジェラが来てくれましたよ」

 部屋の中央に置かれた白いソファセット。そこに座しているエドガーが、母娘に向かって微笑みかけた。

「ふたりとも、よく来てくれたね」

「おじいちゃん、こんにちは。体調どう?」

「ああ、ありがとう。今はずいぶんと落ち着いているよ」

 孫であるユリアの問いかけに、エドガーは目を細めてこう答えた。瞼の隙間から覗いた瞳は、娘と同じアクアマリン。限りなく白に近い金髪は、以前会ったときよりも短く切られていた。

 落ち着いているとはいえ、ときおり苦しそうに咳き込む祖父に対し、ユリアは用意していた紙袋をそっと差し出した。

「これね、少し大きめのストールなの。よかったら使って。今年の冬も、寒くなるみたいだから」

 養生中の祖父のためにユリアが用意したのは、紳士用のストール。何か食べるものにしようかと悩んだのだが、食事制限を受けているかもしれないと思いなし、実用的なものを選んだ。

 肺を患っている祖父は、風邪などをこじらせた場合、それだけで命取りになるおそれがある。よって、細心の注意が必要なのだ。

「ありがとう。大切に使わせてもらうよ」

 ユリアの手からそれを受け取ると、エドガーは、よりいっそう穏やかな笑みを湛えた。可愛くて愛おしい孫。そんな孫の心遣いが、嬉しくてたまらない。

 淡彩で描かれたような光景を目におさめたシェリーは、紅茶の用意をするため、微笑みながら部屋をあとにした。その様子に気づいたアンジェラが、すぐさま母のあとを追いかける。

 部屋には、ユリアとエドガーふたりきり。半年ぶりの再会に話題を広げたのは、エドガーのほうだった。

「仕事、頑張っているようだね」

「あ、うん。歌うの好きだし、みんなが支えてくれるから」

「社長は……ヴォルターは、元気にしているかい?」

「うん、とっても。おじいちゃんのこと、心配してた」

「そうか。……口は悪いし強面だが、心根は優しい子だからね。娘はいくつになったんだい?」

「え? えーっと……今年中等部に入学したって言ってたから……十三歳、かな」

 エドガーが、なぜヴォルターと相識であるのか。それは、ヴォルターが退役軍人だからだ(ゆえに、セオドアとヴォルターも既知の間柄である)。

 退役して十五年ほど経つそうだが、現役時代は、上司からも部下からも信頼の厚い優秀な幹部だったとのこと。退役の理由に関しては、ユリアは何も聞いていない。

「アンジェラから聞いたよ。建国祭で歌うことが決まったそうだね。……お前のこと、私はとても誇りに思うよ」

「……ありがとう、おじいちゃん」

 今から十三年ほど前。エドガーは、六十歳で軍を退役した。軍では、軍楽隊に所属し、一流のトランぺッターとしてバンドマスターを務めたこともある。長年にわたるその功績が認められ、退役時には、前皇帝より勲章を受賞した。

 現在その勲章は、ここ応接室の壁に飾られている。国旗を付したトランペットを演奏する、祖父の写真とともに。

「おじいちゃんのトランペットが、わたしの音楽の原点なの。三歳のとき、はじめて軍楽隊の演奏を聴いて、すごく感動して……そのときのおじいちゃんのトランペットの音、今でもよく覚えてる」

 澄んだ音色が、高らかに蒼穹へと駆け上がってゆくあの感動は、ユリアの中でけっして色褪せることはない。幼いユリアにとってのターニングポイント。あの日を境に、それまで以上にたくさん音楽を聴くようになった。祖父に師事し、楽譜の読み方やピアノも学んだ。

 そして、歌に辿り着いたのだ。

「人見知りで引っ込み思案だったお前が、まさか人前で歌うようになるなんて思いもしなかった」

「あははっ。わたしも」

 ユリアが初めて人前で歌ったのは7歳のとき。ゴスペルとの出会いが、歌い手としての彼女のスタートだった。

 gospelゴスペル——god良き spellが語源の『福音音楽』と言われる音楽。

 今でこそ万人に受け容れられ、楽しまれるようになったゴスペルだが、非常に凄惨な歴史を持つ音楽でもある。遡ること数百年前。竜人により奴隷として虐げられたヒトが、過酷な環境における小さな幸福として——一縷の光として——作り出した音楽だったのだ。

 凄惨な歴史の残渣は、いまだ数多く存在している。そのひとつひとつを取り除くためには、まだまだ時間がかかるのだろう。痛みも、伴うのだろう。

 でも、それでも。

「音楽は、自分自身が音を楽しみ、聴く人々を音で楽しませるものだ。哀しみも、憎しみも、怒りも……それらを癒やす力が音楽にはある。私は、そう信じているよ」

 せめて音に触れているあいだだけでも、その痛みを和らげることができたなら。

「うん。わたしも、そう信じてる」

 大切な者との大切な時間を、少しでも長く紡ぐことができたなら。

 未来はきっと、今よりもっと、あたたかく鮮やかなものになるだろう。


 運命の日まで、あと少し。

 太陽に完全に照らされる日を、今か今かと待ち望みながら。

 今宵も月は、空へとのぼる。

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