on a bright Moonlit night(1)

 ザッ、ザッ——

  モノクロの映像。

  いたるところにノイズが入っている。

 ザッ、ザザッ——

  増水した川。

  轟々と荒れ狂う激流が、岸を抉り攫っていく。

 ザザッ、ジッ、ザーッ——

  人々の悲痛な叫び声。

  緊迫した状況が、スローモーションで迫ってくる。

 ザザッ、ジジッ、ザッ——

  ——男性がひとり流された!! 早く緊急通報を……っ!!

 ザッ、ッ——

  事態を把握できず、ただ立ち尽くす。

  為す術もなく、ただ雨に打たれる。

   何も見たくない。

    何も聞きたくない。


 ぷつり。


 ユリアの意識は、そこで途絶えた。





 ◆ ◆ ◆





 煌びやかな装飾が施された壁や天井。金彩をまとったそれらは、まばゆいほどに光り輝いている。天井から吊り下がった巨大なシャンデリア。壁に掛けられた巨匠の絵画。そして、この日のために特別に用意された、豪奢な晩餐。

 どこを切り取ってみても、豪華絢爛を極めた壮麗さだ。

 紳士淑女の気品溢れる笑い声が、そこかしこから聞こえてくる。まるで、ぽっと花が開き、あかりが灯るように。

 その様相は、さながら御伽噺か夢物語——

「——だったらどれだけよかっただろうな」

 ホール脇の大きな花瓶から悪態がひとつ。さらには、その悪態を追いかけるように、盛大な溜息までもが落とされた。もちろん、花瓶からこんな鬱屈としたものが漏れ出ているわけではない。

「いけません陛下。心の声は心の中だけにしまっておいてください」

「……ジーク」

 悪態と溜息の主は、皇帝グランヴァルト七世。そして、隠れていたグランヴァルトを見つけ、静かに諫言かんげんしたのは、侯爵ジーク・フレイムだった。

 互いに着用しているのはロイヤルブルーの礼服。長い髪をひとつに結い上げ、並んだ姿は、隣に活けられた花にも見劣りしないほどの美しさである。

 建国祭当日のこの日。ここ迎賓館では、朝から各国の要人たちがこぞって来館し、仰々しくも華々しいひとときを過ごしていた。主催であるグランヴァルトはもちろん、ジークもまた、貴族のひとりとして彼らの接待に追われていたのだ。

「よくもまあ朝から今まで調子落とさず呑んだり騒いだりできるな。俺もう帰って寝たいんだが?」

「ですから、声に出さないでください。ただでさえ顔に出てるんですから」

「この中で俺の顔色わかるのお前くらいだろ。っていうか、お前のほうこそイライラしてるんじゃないのか? 会うやつ会うやつに見合い話なんか持ちかけられて」

「その話はしないでください。って、見てたんですか?」

「ああ。ばっちり」

「……」

 流れるような、ある種聞きごたえのある言葉のやり取り。だが、よもやこれが、一国の貴族同士の会話であるなどとは誰も思うまい。

 歳の差7つ。幼少期からの長い付き合いゆえ、互いのことは手に取るようにわかる。言わずもがな、グランヴァルトのほうがはるかに位は高いけれど、彼のざっくばらんな性格により、気づけばこういう関係になっていた。主従関係というより、むしろ幼なじみだ。

 とはいえ、この関係は、互いが互いを信頼していればこそ成り立つもの。出会って二十四年。グランヴァルトが帝位を継承して六年。ふたりの信頼関係は、時を重ねるごとに深まっている。

「そろそろこの晩餐も終わりですから、最後くらいは表に出て、なけなしの愛想振り撒いてきたらいかがです?」

「あー……毛ほども気乗りしない……」

「我慢してください。私だって、このあとすぐ彼らの護衛任務なんですから」

「え? あ、そうか。……この面子とまだしばらく一緒にいるのかお前」

 今は貴族としてこの場に参加しているジークだが、このあと催される記念式典では、軍人として、彼ら国賓の護衛を司ることになっている。

 式典が行われるのは、この迎賓館と宮殿のちょうど中間に位置する国立広場。よって、ここより移動するその瞬間から、彼らの護衛が始まるのだ。

「少しは同情していただけました?」

「めちゃくちゃした。式典のあいだは、俺はとくに連中のこと考える必要ないからな。……仕方ない。可愛い可愛いお前に免じて、もうひと頑張りしてきてやるか」

 そう言って、ぐっと伸びをすると、グランヴァルトは再度短く溜息を吐いた。実に面倒くさいけれど、仕様がない。自分はこの国の皇帝なのだ。自分が行うことは、自分自身のためではなく、この国の民のため。

 刹那、グランヴァルトの表情が変わった。まばゆいほどの金糸をなびかせ、光の当たる煌びやかな場所へと鮮やかに歩いていく。凛としたその姿は、まさしく皇帝のそれであった。

 そんなあるじの背中に、ジークは改めて崇敬の念を抱いた。わずかな畏怖すら覚えるほどに、鋭く研ぎ澄まされたオーラ。それを纏った主のあとに続き、ゆっくりと歩みを進める。要所要所で立ち止まり、国賓と挨拶を交わす主の後方で、警護を兼ねて自身も適度に挨拶を交わした。

 そろそろ宴もたけなわ。もうすぐ、この息苦しさからも解放される。そう思惟したふたりのもとに、ある人物が近づいてきた。

「グランヴァルト陛下! このたびは、お招きくださりありがとうございます!」

 耳を劈くほどの大声。できることなら聞きたくなかったと、ふたりは心の中で落胆した。

「これはラムジ王子。本日はようこそお越しくださいました」

 貼りつけた笑みで、眼前の竜人に儀礼的な挨拶をしたグランヴァルト。笑っているが、笑っていない。ジークには、それが知覚できていた。理由も、ちゃんと把握している。

「フレイム侯爵も! 本日は、誠におめでとうございます!」

「ありがとうございます」

 まるで幼い子どもが学芸会で発表するように、懸命に声を張り上げる。残念ながら、子どものような愛らしさは微塵もないが、それはこの際横に置いておく。

 オマール・ラムジ、二十四歳。ここよりはるか西方に位置する、スハラ王国の第一王子だ。

 ぽってりと肥え太った体に、グランヴァルトやジークの半分ほどしかない(……というのは過言だが、そう見まごうほどの)背丈。褐色の混じった柳色の肌は、脂がのって若干てらてらとしている。

 これだけでも十分に強烈なインパクトを与えているが、なによりも目に焼きついて離れないのは、彼のその髪型と眉毛だろう。

 七対三の割合でぴっちりと分けられた黒髪に、眉間の真ん中で見事に繋がった黒い眉毛。なんというか、秒で紙に描けそうな頭部である。

「このあとの記念式典も、楽しみにしております!」

「それは大変光栄です。最後まで、どうぞお楽しみいただけますよう」

「はいっ、それでは失礼いたします! 行くぞ、ナジュ!」

 終始学芸会でふたりに言葉をぶつけたラムジ。最後は丁寧にお辞儀をし、従者である見目麗しい青年を連れて去ってしまった。さながら砂嵐。口に入った砂を吐き出すのもひと苦労である。

「……最後にアレとかマジで気分悪いな」

「……お気持ちは十二分にわかりますが、声に出さないでください」

「お前だって顔引き攣ってたろ」

「それに気づいているのは陛下だけです」

 ぼそぼそと、互いにしか聞こえぬやり取りで、たった今負った傷を舐め合う。体調の思わしくない父王の代理で、彼が来ることは承知していた。が、あの砂嵐に、予想外の大ダメージをくらってしまったようだ。

 乾燥地帯に属するスハラ王国は、作物の生育には不適な土地柄。しかし、豊富な地下資源の輸出により、小国ではあるが、国の財布はかなり潤っているのだ。

 けれども、その潤いが民に浸透しているかといえば、けっしてそんなことはない。富は国からの再分配。言論は統制され、表現の自由はほぼ認められていない。

 そのうえ、王位第一継承者である彼は、我儘三昧で学がなく、現国王よりも愚劣を極めている。口にするのもおぞましい残忍な仕打ちを、自国民に対して平然とやってのける下衆野郎なのだ。

「あの七三カモメ眉、いつか絶対国滅ぼすぞ」

「またそういうことを……。あの従者はかなりの切れ者とのことですが、やはり意見はできないのでしょうか」

「機嫌損ねると手に負えないんだろ。……あの従者のほうが、よっぽど王族っぽいのにな」

「……」

 主の歯に衣着せぬ物言いに若干の眩暈をおぼえつつ、ジークは次の任務へと向かう準備に取りかかることにした。まずはこの堅苦しい礼服を脱ぎ捨て、いつもの軍服に着替えなければ。

 窓の外。冴えた夜空には、こちらを見下ろすかのごとく、満ちた蒼月が浮かんでいる。

 まるで、何かの序章を告げるかのように。


 ◆


「さっむ!!」

 ダウンコートの上から毛布にくるまり、アミルはヒーターの前に陣取っていた。とにかく手を冷やさないようにと、温風に手をかざす。

 ここは、国立広場の脇に設置された、専用の楽屋。室温は適度に保たれているはずなのに、リハーサルを終えた直後からずっと、彼はこの調子である。

「たしかに隙間風冷たいなっては思うけど……そんな寒い?」

 怪訝そうな顔でアミルに問いかけたのはアイラ。全員ロイヤルブルーの衣装に着替え、ヘアスタイルもメイクもばっちり。あとは本番を待つのみなのだが、こんな状態で無事ステージに立てるのかと心配する。

「いやいや、演奏はする! ちゃんとする! だから直前までここにいさせて!」

 アイラの胸中を的確に読み取ったアミルが、必死の弁解を試みた。雨のない国から移住し、帝国民となって十三年。ガルディアの気候には慣れてきたと思っていたが、やはりこの寒さにだけはまだ馴染めない。

 アミルのことを気の毒に思いながらも、レイとエマのふたりは苦笑を浮かべていた。夫婦で持参した懐炉を、エマが3つほどアミルに手渡す。すると、彼はこれでもかというくらい、激しく歓喜に咽んでいた。

「ユリアは? 寒くないか?」

「んー……え? あっ! わたしは大丈夫」

 レイの問いかけに、はっとしたユリアが慌てて返答する。なにやら物思いに耽っていたようで反応がワンテンポ遅れたが、いつもの笑みを弾ませた。

「緊張するか?」

 しかし、レイが続けてこう問えば、

「……うん。少しだけ」

 ユリアは、目を伏せて肯いた。

 広場には、国内だけではなく、各国のメディアも集まっている。式典の様子は、国内外へ逐一発信されるだろう。ユリアが出演することは、帝室の広報によって、前もって周知されている。彼らの一番の目的がユリアであることは自明の理だ。

「社長もいろいろ動いてくれてるし、帝室側もちゃんと対応してくれてるって言ってただろ? だから心配するな。お前は、歌うことだけに集中してればいい」

「レイくん……。うん、ありがとう」

 レイの心強い言葉に、ユリアの心は定まった。周りを見渡せば、メンバーをはじめ、スタッフ全員の視線が励ましとなって背中を押す。

 すべてのマネージメントをひとりでこなしているミトも。すべてのスタイリングをひとりで監修しているシンシアも。今この場にはいないが、すべてを総括し、全責任を負っているヴォルターも。

 全員が、ユリアのことを心の底から信じてくれているのだ。

「ユリアさん、そろそろスタンバイお願いします」

 式を進行する帝室の部署から、楽屋へ連絡が入った。……時間だ。

 誰にも気づかれないよう、厳重な警戒態勢の中で特設ステージへと進む。帝室直属の護衛たちは、ずっとユリアたちのそばから離れることはない。歌っている最中も、ステージの脇で、下で、絶えず警護を続けてくれるらしい。

 移動すること数分。ユリアたち五人は、幕が下がったステージの上へと辿り着いた。現在、外では、軍楽隊によるパフォーマンスが行われているところだ。

「やっぱ軍楽隊の演奏はかっけーな。音しか聴けないのが残念だ」

 ギターを肩にかけながらアミルが呟く。寒さに身を刺されるけれど、さすがはプロ。その表情は、すでに玄人然と引き締まっていた。

 軍楽隊の演奏に、一同は聴き入った。中でもユリアは、特別な想いで耳を傾けていた。あれから一週間ほどしか経っていないが、祖父は元気にしているだろうか。風邪を、引いたりはしていないだろうか。今日の自分の姿を、見てくれているだろうか。

 自分は、完璧に歌えるのだろうか。

「……」

 大丈夫、自分はひとりじゃない。背中に感じる熱が、はっきりとそれを示している。

 四人がいてくれるから、わたしは大丈夫だ。

 次の瞬間。目の前の幕が、ばっと取り払われた。蒼白い満月の下。とうとう、大衆の前に時の歌姫ディーヴァの姿が晒された。割れんばかりの歓声が、ステージへと注がれる。

 ユリアは、まず大きく深呼吸すると、軍楽隊の指揮を務める竜人男性に視線を送った。それが合図だった。

 軍楽隊とバンドによる重厚な合奏——ガルディア帝国国歌だ。

 長音階の旋法を用いた国歌を、ユリアはさやかに、けれど、厳かに、独唱した。この国に生まれて二十年。幾度となく歌ってきたけれど、これほどまでに緊張したのは初めてのことだった。

 

 我らの旗が夜明けを告げる。汝らを讃え勇ましく翻る。

 我らの誇りを御世みよに忘れじ。汝らの喜びを御世に注がん。

 ガルディアの御土みつちに幸福と栄光を。

 ガルディアの御土に幸福と栄光を——。

 

 いっさいの穢れを祓うかのような歌声。広場全体を震わすほどの音圧は、さすがと言うほかない。高く澄んだ声音は、真白い息とともに空気に乗り、人々の心へ真っ直ぐに届けられた。

 まるで、深い深い沼に、暗い暗い闇に、一条の光明をもたらすように。

 これが彼女——歌姫ユリア・マクレーンなのだ。

 およそ一分間の独唱を終えると、ユリアは軍楽隊の指揮者に目配せをし、謝意を表した。ステージの下にいるにもかかわらず、大きくて凛々しい彼らの勇姿に、背筋の伸びる思いだ。

 そうして、隊列を組み直し、一糸乱れぬ動きで颯爽と退場していった彼らに対し、敬意を新たにする。軍楽隊との共演。これは、ユリアにとって、小さな小さな夢でもあったのだ。

 ユリアはこのあと、既発曲を二曲ほど歌い切り、ステージを降壇した。皓々と月の輝く夜空へ、延々と歓声が響き渡る。

 建国二千年祭という記念すべきこの日。彼女の麗容は、彼女の大切な人々の心にも、しかと刻みつけられた。

 父であるセオドアにも。兄と慕うジークにも。母にも、祖父母にも。


 そして—— 


「彼女を……ユリア・マクレーンを、俺のもとへ呼んでくれ」

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