in the twilight(2)
街に明かりが灯って間もない宵の口。
「アミルくん、髪伸びたねー。この前切ったのいつだっけ?」
「ん? あー、いつだっけ。三……いや四、ヶ月前、とか?」
シンシアの問いに、アミルは宙を見上げながら答えた。自信なさげに、指折り記憶を手繰り寄せる。「もうそんな経つのかー」と、間延びした口調でシンシアは言うけれど、担当したのはほかでもない彼女である。
事務所の一室を貸し切ってのヘアカット。適度に湿らせ、確認しながら、手際よく鋏を入れていく。色味を増した栗色の癖毛が、小さな束となって、ぱらぱらと散っていった。
「うーん……髪の毛、傷んではないんだけどなー。あたしがあげたトリートメント、ちゃんと使ってる?」
「え。あ……ごめん。使ってない」
「えぇっ!? もーっ、せめてドライヤーで乾かしたあとは使ってって言ったじゃん!!」
室内……否、事務所中に轟いたシンシアの
「まあ、面倒くさいって気持ちはわかるけどさ。アミルくん、意外と無頓着だよね」
「何が? ヘアスタイル?」
「……とか、ファッションとか。身に着けてるもの似合ってるけど、あんまこだわりないでしょ?」
「あー、ないかも。興味なくはないけど、どれ身に着けてもそんな変わんねーかなって」
「そんなことないよもったいないよ!! せっかくかっこいいんだから!!」
再度興奮ゲージが瞬間沸騰したシンシアに、息を詰まらせたアミルがたじろいだ。くりくりとした緋色の瞳が、鳶色の瞳にずんっと迫る。鼻息も荒い。
ルックスに対するアミルの自己評価の低さ。これにシンシアはいつも猛抗議していた。「スタイルいいんだから」とか「綺麗な顔してるんだから」などというド直球な言葉を、恥ずかしげもなくアミルに浴びせるのだ。それも真顔で。
「シンティ、よくそんなはっきり言えるよな」
ついには、
「だってほんとのことじゃん」
この始末。
シンシアの言葉に他意はない。思ったことを思ったまま、はっきりと口にしているだけだ。偽りもなければ、駆け引きもない。なんとも清々しい女性である。
「こっちをちょっとだけ切り揃えて、と……はいOK! 完璧!」
仕上げに、ほんの少しだけ鋏を入れると、アミルのヘアカットは終了した。一見大きな変化は見られないが、心なしか雰囲気がシャープになったように感じられる。
サミットまでおよそ三週間。アミルを除くほかの4人のヘアカットは、もうすでに済んでいる。あとは、ステージ衣装やアクセサリー類を確認し、当日に備えるのみだ。
「サンキュー、シンティ。なんかちょっと軽くなった気がする」
「長さは変えてないけど、結構梳いたからね。ほら」
「おー……」
シンシアが目で示したとおり視線を落としたアミル。思わず感嘆の声を上げる。足もとには、それはそれは多量の髪の毛が、まるで水面に浮動するように散乱していた。
「切り落とした髪って、見るとなんとなく切なくなるよな」
「ん? 持って帰る?」
「いや、いらねーけど」
「冗談だよ。 じゃあ、ちゃちゃっと掃除しちゃうから、ちょっとだけこのままで待っててね」
「りょーかい」
さながら緩いキャッチボール。年齢がひとつしか違わないということもあり、ふたりは普段からよく会話している。プライベートでも食事をともにする良き間柄だ。
出会って間もない頃。アミルは、シンシアの真っ直ぐすぎる言葉に少なからず戸惑った。物怖じしない性格、加えて、常夏の青空のような爽快さは、既存の知り合いの中にはいないタイプだったのだ。しかも竜人で。
今ならわかる。あの国では、仕方のないことだったのだと。
「……なあ、シンティ」
「なにー?」
てきぱきと後始末をするシンシアに呼びかける。故郷のことを思い浮かべれば、それに付随してある疑問が浮かんだ。けれど、口にするには少々躊躇いがあるため、声がしぼんでしまう。
一方のシンシアは、片づけをする手を止めることなく、アミルの話に耳を傾けた。声色から、なんとなく彼の今の心境は読み取れる。よって、改まった態度は取らず、話しやすい雰囲気作りに努めることにした。
ひと呼吸置いたアミルが、迷いながらも口にした質問。
「帝都に来るのに、その……抵抗とかなかった?」
それは、故郷を離れることを選択した、いわば似た境遇の持ち主であるシンシアに対する、素朴な質問だった。
似た境遇——というのは語弊があるかもしれない。そもそも、国籍ごと変わってしまった自分と並べるのは無理がある。そのことは、アミル自身理解していた。
だが、生まれ育った場所を離れ、新しい場所へと踏み出す勇気は、等しく必要だったはず。そう思った。
「うーん、そうだなあ……」
アミルの真剣な表情。その眼差しに対し、同様にひと呼吸置いたシンシアが口を開いた。相変わらず手は動かしたまま。下を向き、せかせかと
「……なくはなかった、かな」
鈍色に染まったシンシアの声が、アミルの足もとにぽたりと落とされた。すっかり綺麗になった床。そこに、アミルの髪の毛はもうなかった。
シンシアの出身地は、帝都からはるか南方。美しい海と温暖な気候に恵まれた、世界でも有数の観光都市である。伝統芸能や伝統工芸なども盛んで、帝国の中でも独自の文化を築いてきた名勝の地だ。
「家族に反対されたりしなかったのか? シンティの実家って、すげーでっかい家なんだろ?」
「それはオーバーだよ……」
アミルの言う『でっかい』とは、もちろん建物自体の大きさも示しているが、それ以上に『家柄の良さ』を表している。
右手を扇ぐように動かしながら、シンシアはこれを苦笑交じりに否定した。謙遜でもなんでもなく、素直にそう思っているからだ。
とはいえ、名の知れた家であることに違いはない。シンシアの父親は、地元で有力な政治家。祖父も曾祖父も高祖父も皆——オランド家は、何百年にも渡って地方政治を担ってきた、政治家一家なのだ。
「家族には反対されなかったよ。……ただ、親戚には、いろいろ言われたかな」
両親は、どんなときも娘の意見を尊重した。十五のときから帝都で生活していた兄は、誰よりも一番妹の夢を応援した。
しかし、親戚は、シンシアの目指すものを是とはしなかった。スタイリストなど色物、そんなもの職業などではないと、実に無責任な放言を吐き散らしたのだ。
アミルに着せていたカットクロスを脱がせながら、故郷での出来事に想いを馳せる。ブラシで髪を集め、カット前に束ねていたヘアゴムを使用し、ものの数分で完成させたのは、見事な——
「……なんで
「いいじゃん。似合ってるよ」
遊び心溢れる髪型。眉を顰めるアミルとは対照的に、シンシアは非常に満足げな笑みを浮かべていた。女性に多い髪型ではあるが、なるほどよく似合っている。
「親戚の嫌味なんて、まあ、どうでもよかったんだけどさ。家族に迷惑かけるのは嫌だなって思ったの。心配かけたりとかね。……でも、どうしてもこの仕事がしたかったんだ」
いつもの雰囲気とは打って変わり、淑女然としたシンシアがふわりと笑う。
幼い頃から、綺麗なものに憧れていた。綺麗な顔、綺麗な髪、綺麗な爪、綺麗な服——スクリーンやファインダー越しに映るスターたちは、一様にとても魅力的だった。輝いていた。
綺麗が自分の手で作り出せると知ったとき、憧れは夢へと変わった。
自分を信じ、応援してくれた家族のために……自分自身のために、固く心に誓った。この夢を、必ず実現してみせると。
赤錆色の残照が、しだいに闇に溶け込んでいく。まるで、篝火の余炎が、静かに消えていくように。
「……シンティはすげーな」
柔らかな笑みとともに、ぽっと灯されたアミルの言葉。
意想外のそれに、シンシアがまごつく。
「え? ど、どのあたりが……?」
「んー、なんだろ、その……ハングリー精神っての? 『絶対叶えてやる』っていうその意気込み、ほんとすげーと思う」
「それを言うならアミルくんのほうが断然すごいよ。だって、国跨いでそこで成功しちゃうんだよ? ……すごいなんてもんじゃない。尊敬する」
「……オレは逃げてきただけだ。あの国で、生きていきたくなかったから」
シンシアから目を逸らしたアミルがふっと笑う。その笑みに色濃く反映されているのは自虐だった。
十四歳の頃。スハラで大切なヒトを亡くした。4つ年上の女の子だった。
闊達な子だった。すぐにべそをかく自分とは違って、狭い世界の中でも己の道は己で拓いていくような、そんな子だった。
母子家庭の自分と父子家庭の彼女。隣同士、姉弟のように育った彼女には夢があった。教師となり、男手ひとつで彼女を育て上げた父に親孝行するのだという、大きな大きな夢。
それなのに——。
心身ともにズタズタに
「何もできずに、逃げてきただけなんだ……」
自身の手のひらに視線を落とす。為す術なく国を飛び出した自分が、情けなくて不甲斐なくてたまらない。あの頃に比べ、幾分か大きくなったけれど、この手で守れたものなんか何もない。守れなかった。何も。
睫毛を伏せ、黙って俯く。
「……逃げてきたわけじゃないよ」
そんなアミルに、シンシアの声が静かに突き立てられた。つっと顔を上げれば、愛らしい緋色の瞳が、鳶色のそれにぶつかる。
シンシアは、優しく微笑むと、目を丸くするアミルにこう言葉を続けた。
「アミルくんは、逃げてきたんじゃない。表現者としての場所を求めて、来るべき場所に来たんだよ。みんながいるこの国に」
「……」
「ユリアちゃんの歌はもちろん大好きだけどさ、あたし、アミルくんの作る歌も大好きだよ。泣きそうなくらい優しい気持ちになれる歌……きっとアミルくんにしか作れない。ギターの音も、ステージでのパフォーマンスも、すごくかっこよくて綺麗だもん。……あっ! もちろん、あたしのスタイリングの腕がいいからってのもあるけどね」
「そこは遠慮しねーんだ」
「当然! みんなの外見の魅力をどうやったら最大限に引き出せるか、一番よく知ってるのはあたしだもん。そこは譲れない。……当日もみんなのこと、ステージの裏からばっちり見守ってるからね」
親指をぐっと立て、口角を吊り上げる。彼女らしさを満面に咲かせ、同僚であるアミルに精いっぱいのエールを送った。
「サンキュー、シンティ。……ほんと、ありがとな」
心の奥底からとめどなく湧き上がる謝意。いまだ過去から脱却できずにいる自分を苦々しく思うと同時に、シンシアのあたたかさが切ないほど胸に滲んだ。
逃げてきたことを否定することはできない。『あの国にはいたくない』と、強く思ったのは事実だ。
でも、それでも、この国の民になったことを後悔したことは一度もない。できるはずもない。
この国が、この場所が、今の自分の居場所だから。
◆ ◆ ◆
広漠とした砂の海。
方角のわからぬこの地では、はるか昔、人々は星を詠みながら旅路を辿っていたらしい。
悠久の時の中。人々の飽くなき探求心は、町を作り、都市を築き、やがて国家を形成した。
ものが集まれば知恵も集まる。知恵が集まれば欲望がぎらつく。
「失敗は許されない。これが最初で最後の機会だ」
「……」
「お前にすべてがかかっている」
何かを得ようとすれば、何かが犠牲になる。
「必ず使命を果たします。……この国の——」
——スハラのために。
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