in the twilight(1)

 初夏の空を、薄い明かりが彩ってゆく。

 青が藍になり、はるか遠くの地平線を橙色が真っ直ぐになぞる。まるで、燭台の蝋燭ろうそくの、密やかな炎のように。

 帝都イルレーシュに訪れた黄昏。柔らかく物悲しいそれは、ここシュトラス邸にも降りてきた。

 食器と食器のぶつかり合う甲高い音が、ダイニングに反響する。傍らには、コポコポと鳴くコーヒーサイフォン。なんとも言えない芳香が、室内に充満している。

「はい、どうぞ」

「ああ。ありがとう」

 食後。夕刊を読んでいるセオドアのもとへ、アンジェラがコーヒーを運んできた。夫の分と自身の分をテーブルに置き、定位置へと着席する。

 白地に繊細な筆致で描かれた、青い葡萄ぶどうと青いつた。このカップの絵付けをしたのは、アンジェラ本人だ。芸術大学で教鞭を執っていた時代の作品なのだが、焼き上がってから、かれこれ二十年以上が経過している。

「ん? このカップ、たしかユリアが……」

「あら、さすがよく覚えてるわね。そうそう。あの子がお腹にいるときに描いたものよ」

 正確には、二十二年。

 ユリアを妊娠しているときに、絵付けをした作品である。

「無性に葡萄が食べたかったから描いたと言っていたな」

「そうなのよ。不思議よねー。……あれ私じゃなくて、絶対ユリアが食べたかったんだと思うのよね」

「そんなことあるのか?」

「え? ううん、知らない」

 困るでもなく、笑って誤魔化すでもなく、アンジェラはあっさりと言ってのけた。こんなふうに感覚的に話すところは、娘とよく似ている。……娘のほうが、ちょっとばかり自由奔放フリーダムの色合いが濃ゆいけれど(ちなみに、娘はまだ仕事中だ)。

 香りを確認してひとくち啜れば、「やっぱりサイフォンで淹れたコーヒーは美味しいわね」と、すっかりご満悦の様子。どうやら、彼女の中では、直前の話はすでに完結しているらしい。

 そんな妻に、夫は眉を下げて優しく笑った。

「……何度も言うけど」

「うん?」

「あの子も、もう二十二になったのね」

「ああ。……時が経つのは、本当に早いな」

 感慨深そうに漏らす妻に、目を伏せて頷く。口に含んだコーヒーの香りが、鼻からふわりと抜けた。

 先日、娘のユリアが二十二歳の誕生日を迎えた。珍しく仕事がオフだったため、アンジェラが外食を提案したのだが、ユリアはこれを却下したらしい。


 ——外食は、この前ジーク兄が連れてってくれたからいい。それよりも、お母さんの作ったご飯が食べたいな。できれば、お父さんと三人で。


 ユリアのリクエストを受けたアンジェラから、セオドアの職場へ連絡が入ったのは、その日の昼前。

 仕事の邪魔になるかもしれない。そう懸念し、あまり気は進まなかったけれど、娘のために連絡したのだとアンジェラは言った。年に一度のイベントだから、と。

 特別な娘の特別な日。妻から連絡を受けたセオドアは、なんとか仕事を調整し、早々に帰宅することに成功した。そうして、親子三人でのささやかな夕食が実現したのである。

「親の私が言うのもなんだが、ユリアは本当に素直でいい子に育ってくれた。ロナードも。……お前のおかげだな」

「何言ってるの。私ひとりで育てたわけじゃないわ。それは、あの子たち自身が一番わかってるはずよ」

 自分は父親としての務めをじゅうぶんに果たせなかった——そう言わんばかりのセオドアの言を、アンジェラはぴしゃりと撥ね除けた。

 まなじりを上げた妻に、困ったように夫が笑う。もう何度目かになるこのやり取りに、妻は得心がいかない様子だ。

 家事は、そのほとんどをアンジェラがこなしていた。それは否めない。面談等、子どもたちの学校行事も、アンジェラが出席していた。それも否めない。

 けれど、休日は必ずと言っていいほど子どもたちと過ごしていたセオドアが、父親の務めを果たしていないわけがない。何より、この国を——伸び伸びと子育てができるこの環境を、命を懸けて守り続けてきたのだ。そのことは、子どもたちとて、ちゃんと理解している。

 父の愛情は、子どもたちに、ちゃんと伝わっている。

「軍人として、夫として、父親として、貴方以上に偉大な人を私は知らない。私を貴方の妻にしてくれたこと、あの子たちの母親にしてくれたこと……感謝してるの。本当に」

 セオドアの蒼い瞳に、アンジェラの青いそれがぶつかる。柔らかな光を放つそれらは、さながらサファイアとアクアマリンだ。

「ありがとね。私と結婚してくれて」

「それは私の台詞だ。……ありがとう、アンジェラ。私を選んでくれて」

 出会っ三十四年。夫婦となって三十一年。いろいろなことがあった。

 理不尽に唇を噛んだことも、大切な人を喪ったことも、目を覆いたくなるような惨事に直面したことも。

 そのたびに、ふたりで乗り越えてきたのだ。

 夫婦のあいだに結ばれた絆は、けっして切れることはない。


「ただいまー」

 と、今しがた話題にのぼっていた娘が帰宅した。本日の帰宅時間が遅いのは、仕事仲間と夕食をともにしていたからだ。

 屋敷の空気が一気に娘色へと変わる。迷わずこちらへと近づいてくる実に爽快な騒音に、夫婦は顔を見合わせ笑みを交わした。

「コーヒーのいい匂いがする!」

 ダイニングのドアが開くやいなや、響き渡った澄んだ声。相変わらずよく通る。

 ユリアは、すたすたと両親のもとへ近づくと、にこやかな顔つきで「美味しい?」と問いかけた。

「美味しいわよ。あんたも飲む?」

「うん、飲みたい。……あっ! ミルクお願いします」

「了解。……まだまだお子ちゃまねー」

「なっ……!? さ、砂糖は、入れなくても飲めるようになったもん!!」

 母の尻上がりな物言いに、眉を吊り上げたユリアが抗議する。頬をぷっくりと膨らませたその様は、まさしくハリセンボン。水鉄砲でも飛ばしそうな形相だ。

「はいはい。じゃあ準備しておくから、先に荷物を部屋に置いてきちゃいなさい」

「むー」

 口をすぼめ、ユリアはダイニングを出て二階の自室へと上がった。不満が足音に見事に反映されている。

 けれど、次に降りてきたとき、彼女の機嫌はすっかりもとどおりになっているのだ。基本的に、マイナスの感情はあとをひかない。そのことを、両親は知っている。

「あーかわいい」

「あまりユリアをからかうな」

「貴方だって、あの子の前で私のこと窘めたりしないじゃない」

「当たり前だろう。拗ねる娘の愛らしい顔が見たいからな」

 セオドアのこの返答には、さすがのアンジェラも吹き出した。「そっちのほうがよっぽど酷いわよ」と、愉快そうにきゃらきゃら笑う。

 セオドアは、べつにユリアの拗ねた顔が特別見たいわけではない。率直に言えば、どんな顔でも見たいのだ。泣いた顔も、笑った顔も、怒った顔も、全部。

 どんな些細な感情でも表に出してほしい——十年前、ユリアが表情と声を失ったあのときからずっと、そう願い続けている。

「……」

 可愛い可愛い娘。大切な大切な娘。ユリアが生まれた当時を想起し、セオドアはほんの少しだけ顔を歪めた。

 今から二十二年前、シュトラス家の長女としてユリアは誕生した。シュトラス家の血を引く、初めてのヒトとして。

 親戚には、随分と気疎そうな顔をされた。アンジェラとの結婚を反対された際に釘を刺しておいたので、とくに何かを言われたわけではなかったが、彼らが言わんとしていたことはだいたいわかる。……それは、おそらくユリア自身も感取していた。

 彼らといくら話をしても平行線のまま。自論の正当性を主張し合ったところで、互いの価値観のずれがなくなることはない。無益とまでは言わないが、有益性を見出すには相当骨が折れる。

 彼らとは距離を置いたほうがいい。そう判断した結果、親戚との付き合いはいっさいなくした。どのような理由があるにせよ、愛する家族をざまに扱われることだけは耐えられない。

 しかしながら、もとを辿れば、彼らに非があるわけではないのだ。長い長い歴史の中で、深く根づいた価値観や文化。それらを掘り起こし、引っこ抜くのは、けっして容易なことではない。

「……でもまあ、笑ってくれてるのが一番嬉しいけどね。ユリアも……みんなも」

 コーヒーとミルクを準備するため、キッチンへと向かったアンジェラがこう呟いた。ユリアの分のカップを食器棚から取り出し、温める。

 アンジェラの言う『みんな』とは、ユリアの音楽仲間4人のこと。とりわけ、サミットが近づいているということもあり、気を揉んでいるのはアミルのことだ。

 息子同然の彼にも、どうか笑っていてほしい。もう、傷ついてほしくない。

「……そうだな」

 アンジェラの願いに、セオドアは小さな声で同意を示した。すっかりぬるくなったコーヒーを飲み干せば、上品な苦みと酸味が舌の奥に広がった。

 今回のサミットが、子どもたちにどのような影響を及ぼすのか。正直、計りかねる部分はある。それでも、信じて守らなければ。

 あるじが期待するように、子どもたちがひと筋の光明であることは間違いない。

「あっ、あの子降りてきた。鼻歌なんか歌っちゃって、やっぱり機嫌は直ってるみたいね。……この歌聴いたことないけど、今度サミットで歌う曲かしら?」

 古色蒼然とした因襲。

 願わくは、これを打ち砕かんとする主の尽瘁じんすいが——強い想いが——結実するように。

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