Kaleidoscopes(3)

 ユリアがグランヴァルトとふたりきりになって間もなく、従者がアイスティーを運んできた。いつもグランヴァルトに付き添っている竜人で、ユリアも見知った顔だった。サミットでも、彼はずっとグランヴァルトの傍らにいた。そんな彼でさえもすぐに退出してしまうほど、この部屋はプライベートな空間らしい。

 皇帝の私室で皇帝とふたりきり。豪華な応接セットに対座する。緩和されたとはいえ、完全に緊張がほぐれたわけではない。事実、何をどうすればいいのかわからず、ただ座って息をしているだけだ。

「遠慮せずに飲んでくれ。氷が溶けちまう」

「え? あっ、ありがとうございます。……いただきます」

 グランヴァルトに促され、ユリアはグラスを手に取った。おもむろにストローを咥え、ひとくちだけ吸ってみる。甘酸っぱい胸のすくような爽やかさ。こくりと喉を潤せば、苦味を含んだライムの馨香がすっと鼻に抜けた。

「少し、落ち着いたか?」

「はい。このアイスティー、とても美味しいです」

「あー、いや。そうじゃなくて……ってか、それはそれでいいことなんだが……その……」

「?」

 珍しく歯切れの悪いグランヴァルトに、思わず首を傾ぐ。きょとんとしたまま、彼の整った顔——ほくろのある艶やかな口もと——を見つめれば、次に紡ぐ言葉を懸命に探しているようだった。

 かすかに聞こえる雷鳴。窓の外が、しだいに鈍色に染まっていく。

「今回のことで、お前たち……とくに彼には、相当つらい思いをさせてしまった。……本当に、申し訳ない」

 ユリアたちに対する慰藉と謝罪の言葉を述べ、深々と頭を下げる。その反動で、光沢のある金糸の束が、肩から胸元もとへさらりと流れ落ちた。

 ……いったい何が起こっているのか。即座に状況を呑み込むことができず、ユリアは全身を強張らせた。

 顔が見えなくなるほどの低頭。それも皇帝の。

 眼前のとんでもない光景が認識できてしまったとたん、ユリアの心臓は天井を突き抜けた。

「あ、頭を上げてくださいっ!!」

 声を張り上げ、とにかく必死に訴える。ようやく顔を上げたグランヴァルトの目に映ったのは、狼狽する自身の姿だった。

「陛下がわたしたちに謝られる理由なんてありません!! あの場では、ああするしかなかった……アミルくんだって、それはちゃんとわかっています!! それに——」

 細い首筋。狭い肩幅。

 一週間前と比較すると、もともと小柄な体躯が、ますます小さくなっていた。

「——もしも陛下が、あの王子の要求に応じられていたら、シャレムさんは間違いなく処刑されていました……!!」

「……——」

 ユリアの言葉、その懸命さに、グランヴァルトは激しく胸を揺さぶられた。つい先日の、とあるやり取りを想起する。

 それは、サミットの翌日。北国ノース・ランドの王ライアンに、謝罪の架電をした際のこと。

 可能な範囲で経緯を説明し、迷惑をかけたと謝意を呈したグランヴァルトに、ライアンは優しくこう言った。


 ——私に対する謝罪は不要です。背後関係が判然としない今、まずは自国のことを一番に考えるべきだ。……どうか、貴殿の思うやり方で、貴殿の国民を守ってください。


 ライアンの人柄に、改めて深く感服した。同時に、ユリアが指摘したくだんの場面を思い返していた。

 あのとき、グランヴァルトは迷わず決断を下した……というわけではなかった。

 治外法権が認められない場合において、あれが法律上最も一般的な流れではある。とはいえ、交渉の余地がなかったわけではない。身柄をあちらへ引き渡す方法がなかったわけではないのだ。

 しかし、そうはしなかった。ユリアの言うとおり、ラムジの要求に応じていたなら、シャレムは帰国後すぐに処刑されていただろう。

 グランヴァルトがそうしなかった理由。それは、シャレムではなく、アミルにあった。

「彼の、その後の様子は?」

「とても落ち込んでいます。ですが、シャレムさんがスハラに戻ってしまっていたら、わたしたちの言葉は、二度とアミルくんに届かなかったかもしれません」

 グランヴァルトは、シャレムを守ろうとしたわけではない。

 アミルを——自国の民を、守ろうとしたのだ。

「そうか。……ふたりが親子みたいな関係だってことは、なんとなくわかった。だが、俺ができるのはあそこまでだ。今はまだ捜査の途中だろうが、最終的には司法の判断に委ねられることになる」

「はい、わかっています。きっと、有罪になってしまうことも……。それでも、生きていられるのなら、そっちのほうがいいです。絶対」

 動機が何であれ、シャレムの犯した罪が消えることはない。たとえ、愛娘の死が、動機に繋がっていたとしても。

 アミルのためにも、生きて真実を話してほしい。今できることは、情けないけれど、そう願うことだけだ。

「……お前は大丈夫なのか?」

「え?」

 突として投げられた問いに、つい聞き返してしまったユリア。丸くなった両目が、グランヴァルトの真剣な眼差しによって射抜かれる。

「彼がお前たちと話ができているとわかって少し安心した。けど、今はお前が心配だ。……そのやつれ方、ろくに食べてないし寝てもないだろ」

 グランヴァルトの真っ直ぐな眼差しが、ユリアの心に突き刺さる。まるですべてを見透かすような眼差し。外側だけではなく、内側までをも、すべて見透かすような。

 曇天を一閃する稲光。窓を叩きつける雨音が急に激しくなった。

 雷鳴が、近づいてくる。

「……正直、どうすればいいのか、わからないんです」

 雨粒が垂れるように、途切れ途切れの声を滴下する。

 ごまかすという選択肢もあった。黙っているという選択肢もあった。仮に答えなくても、彼は怒ったりしないだろう。けれど、公人でも何でもない自分に真摯に向き合ってくれている彼に対し、それらの選択肢を取ることはできなかった。

「今回のことで一番つらいのはアミルくんだから……だから、わたしが落ち込んでる場合なんかじゃないって、わかってはいるんですけど……」

 誰にも……家族にも明かしていない胸の内。継ぎ接ぎだらけの胸の内。その中にある、ばらばらで纏まらない感情を、ゆっくり少しずつ吐露していく。

「アミルくんのこと考えると苦しくて……でも、わたしが笑わなくなったら、またみんなに心配かけちゃう、から……っ……」

 どうにかここまで声にすると、ユリアは喉を詰まらせた。大きな瞳から零れる大きな雫。どんなに両手で拭っても、それは止まってくれなかった。自身の意思に反し、次から次へと白い頬に痕をつけていく。

 このままではいけない。そう思い、慌ててバッグからハンカチを取り出そうとした。

 そのとき。

「無理しなくていい」

 ユリアの頭上でゆらりと動いた影。耳もとで声がしたのと、上体にぬくもりを感じたのは、ほぼ同時だった。

 目の前が暗い。窓の外よりも暗い。ひとりで座っていたはずのソファは、その沈み具合が大きくなった。淡い甘い香りが、涙で痛む鼻腔をくすぐる。

「周りはきっと、お前が気をつかい過ぎてひとりで抱え込むことを一番心配している。だから無理はするな。我慢もするな。苦しいときは苦しいと、つらいときはつらいと、はっきり主張しろ」

「……」

「皆、ちゃんとお前のことを受け止めてくれる。もしお前が逆の立場でも、同じように受け止めるだろ? セオドアでもいい。ジークでもいい。今は、甘えられるやつにとにかく甘えろ。……お前は、ひとりじゃないんだから」

「……——っ」

 張りつめていた心の糸が、ぷつりと切れた。

 まるで雪解け水のように溢れ出す涙。胸の奥から込み上げてくる情感に、ユリアは全身を震わせた。

 本当はわかっていた。自分が気持ちを隠すことで、大切な人たちに心配をかけてしまうということを。大切な人たちから笑顔を奪ってしまうということを。

 グランヴァルトの胸に顔を押し当て、咽び泣く。これほどまでに泣きじゃくったのは、実に十年ぶりのことであった。

 触れた部分から伝わる熱が、あたたかくて、柔らかくて、心地好くて。

 気がつけば、

「…………寝てる」

 ユリアは、意識を手放してしまっていた。

 皇帝の腕の中でまさかの寝落ち。よほど疲れていたらしい。

 グランヴァルトは、ユリアを抱き締める腕の力を、ほんの少しだけ緩めた。短期間で小さくなった体を労りつつ、そのまま胸を貸す。腕の中で寝息をたてるユリアを見ていると、なぜだか胸をくすぐられる思いがした。

 腕の中のこの子が愛おしい——そう、純粋に思ってしまったのだ。


 ◆


「……陛下。このシチュエーションは、いったいどういう……」

「ああ。よっぽど疲れてたんだろうな。この体勢のまま寝てしまった」

「そうではなくて、なぜこうなったのかという経緯を……いえ、やっぱりいいです。……おそらく動かしても起きないので、このまま抱えて帰ります」

「そうなのか。動くと起きると思って動かなかったんだが……。なら、起きるまでベッドで寝かせてやったらどうだ?」

「そんなことしたら、起きたときにショックで卒倒してしまいます」

「それは困るな」

「……なぜ、これほどまでにユリアのことを気にかけるのです?」

「ん? 俺そんな気にかけてるか?」

「かけてます。無自覚ですか。……グラン様。まさかユリアのこと……」

「…………え?」

 しばらく固まった後。

 片手で口もとを覆い、グランヴァルトは思わずジークから目を逸らした。驚いているようにも見えるその顔は、さながら熟した林檎そのもの。どうやら、『愛おしい』という気持ちの中身を、明確に自覚したらしい。芽生えた想いは、瞬時に色鮮やかな花を咲かせたようだ。


 きらきらきらめく大輪の花。

 それはまるで、万華鏡のように。

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