parties(1)

 くるくると、とりとめもなくペンを回す。

 片肘をついたテーブルの上には、無造作に散らばった五線譜。頭に浮かんだメロディーを書き留めていくも、とくにこれといったフレーズは浮かばなかった。ギターに触れれば、何かいいアイデアが見つかるかもしれないが、いかんせんケースから取り出す意欲がない。

「あー、だめだ。全っ然頭働かねー」

 ぱっと手から勢いよくペンを放すと、アミルはがばっとテーブルに突っ伏した。譜面のさらさらとした感触が顔に当たる。紙特有の柔らかな匂い。嫌いじゃないその匂いが、やけに鼻の奥につんと染みた。

 サミットからこっち、自分でも情けないほどに何もする気が起こらない。食欲はないし、好物を食べても味がしない。ギターを触っても、弾き慣れたフレーズをただ無心で繰り返すだけ。寝ようとして目を瞑れば、十六年前の光景と先日の光景が雑然と瞼の裏に蘇ってくる。

 ライラの涙とシャレムの眼差し。そのどちらもが、アミルの心の傷をぐりぐりと抉る。

 また、守れなかった。

「はあ……」

 盛大な溜息が、室内に虚しく響く。

 事務所内で一等落ち着ける場所が、よく五人で打ち合わせをするこの部屋だ。気がつけば、ここに足を運んでいた。

 悔しさが消散することはない。けれど、荒れた波のような感情は、時間の経過とともになんとか収まった。今は、少し客観的に自分を見ることができる。

 それは、事件のあと、ずっとヴォルターが付き添ってくれたおかげだろう。何を言うでもなく、ただ静かにそっと。

 昔からそうだ。この国で居場所を探していたときも、ヴォルターが最初に自分のことを見つけ、ずっと付き添ってくれた。彼が才能を見出してくれなければ、今頃自分はどうなっていたかわからない。

 彼と——彼らと出会わなかった自分のことなんて、想像したくない。

「やっぱりここにいたのか」

 不意にドアが開くやいなや、背後から声がした。温厚で端然とした低い声。いわゆるイケメンボイス(略してイケボ)。

 顔を見ずとも、それが誰のものかは、すぐにわかった。

「レイ。どした?」

 ノックもせずに入ってきたのは、レイだった。Tシャツに細身のパンツというシンプルな装いだが、相も変わらず凛とした好青年である。元不良とはとても思えない。

「『どした』じゃない。ほら、これ食べろ」

「何これ?」

「マフィン。エマから預かってきた。これでカロリー摂れって」

 イケボでそう言って差し出したのは、ファンシーで可愛らしい紙袋。その中に入っているのは、妻お手製のマフィンだ。アミルがろくに食べていないことを見通し、朝からせっせと作ったらしい。

「わざわざ持って来てくれたのか?」

「マンション行ったらいなかったから、ここだろうと思って。……お前の顔見るついでだ」

「『ついで』って言わねーだろ、それ。……わりーな。サンキュ」

 小さく笑ったアミルにつられ、レイもふわりと微笑んだ。散らばっていた五線譜を整え、テーブルの端へ寄せる。続けて缶コーヒーも差し出すと、アミルに対してL字型に座った。

 依然として、体調面は心配だ。だが、エマの作ったマフィンを「んまっ!」と言って食べるその姿に、ひとまず安堵した。

「お前は? 食べねーの?」

「俺は家で食べてきた。それ全部お前のだ」

「……多くね? 五個くらいあんだけど」

「たしかに一個でもじゅうぶんな大きさではあるけどな。『アミルくんは、わたしの気持ち無下にしないはず』って、にこにこしながら言ってたぞ」

「え、なにそのプレッシャー。いや、ありがたく頂くけども。……エマのそういうとこ、ほんっとあいつにそっくりだよな」

「ははっ、言えてるな。暢気に笑うとこなんかは、ほんとよく似てると思う」

 互いに缶コーヒーのプルタブを開ければ、カシュッという小気味いい音がした。

 大切な者を喪うたびに経験してきた、筆舌に尽くしがたいほどの痛みと悲しみ。別れが悲惨であればあるほど、とてもひとりでは耐えきれない。

 彼らは、分け合って乗り越えてきたのだ。痛みも悲しみも。何もかもすべて。

「……なあ、レイ」

「ん?」

「おっちゃん、アイツのこと本当に殺すつもりだったのかな」

 マフィンに口をつけながら、アミルが問いかける。一個でギブアップするだろうと思われたが、口をつけているのは二個目だった。

「さあな。それは本人にしかわからないけど……お前はどう思うんだ?」

「……」

 問いかけるも、逆に質問され、黙り込む。ほんのり甘いマフィンを、ほろ苦いコーヒーで喉もとへと流し込んだ。

 あの日以来、何度も何度も頭の中で繰り返されるシャレムの叫び。


 ——お前の気まぐれで玩具にされ、身も心も雑巾みたいにボロボロにされて死んだんだよ!!


 彼の言葉に嘘や偽りはなかった。ライラは、ラムジのせいで死んだ。ラムジに殺されたのだ。身も心もボロボロにされ、描いていた夢をぐしゃぐしゃにされて。

 でも、それでも。

「……殺したい気持ちはわかる。けど、おっちゃんはそんなことしない」

 シャレムは、誰かを殺したりしない。たとえそう強く望んでいたとしても、誰かの命を奪ったりなどするはずがない。

 愛する妻を亡くし、男手ひとつで娘を育てた彼だから。命の重みを、人として守るべき道を、誰よりも知る彼だから。

「おっちゃんは、アイツとは違う」

「だったら、そう信じればいい」

「希望的観測、かもしんねーけど……」

「なんでそこで弱気になるんだよ。それでもいいじゃないか。真相はわからないけど、お前の大切なヒトなんだろ? 彼は今、狭い格子の中に勾留されてる。独りで。それも、知らない土地で。お前は……お前だけは、彼の味方でいるべきだ」

 藍色の前髪から覗く紫紺の双眸。出会った頃は愛想のなかったそれらが、優しく光を反射した。凜とした口もとから紡がれる濃やかな言葉が、アミルの傷口にゆっくりと浸透していく。

「そっか……そうだよな」

 二個目のマフィン、その最後のひとくちを、ぱくりと頬張る。もぐもぐと咀嚼すれば、ここ最近で一番おいしく感じられた。

 レイの言うとおりだ。自分は……自分だけは、シャレムのことを無条件で信じなければ。彼のことをよく知るのは、この国で自分しかいないのだから。

 だが、考えれば考えるほど、疑問が膨れ上がる。シャレムはなぜ、あの場であのような行動を起こさなければならなかったのか。今、何を考え、どのような気持ちでいるのか。

「……オレ、おっちゃんに会ってくる」

「会うって、面会に行くのか?」

「うん。おっちゃんが今、どんな気持ちでいるのか知りたい。それに体調も気になるし」

「そうか。……面会とかの詳しい手続きは先輩が知ってると思うから、近いうちに聞いてみたらどうだ?」

「ロナード?」

「ああ。たぶん先輩も心配してるぞ、お前のこと」

 ユリアの兄であるロナードとは、かれこれもう十年以上の付き合いだ。共通の友であるコンラートを介して知り合い、同い年ということもあってすぐに親しくなった。互いに仕事が忙しくなってからは、顔を合わせる機会もめっきり減ってしまったが、たまに連絡は取り合っている。

 久方ぶりの連絡。できることなら心弾む誘いにしたかったけれど、仕方がない。

 ちなみに、レイがロナードのことを先輩と呼ぶのは、文字どおり、中等・高等部時代の先輩だからである。

「それから、ユリアもな」

「あーっ、だよなー! オレ、アイツにだけは心配かけたくなかったんだけどなーっ!」

 レイの口からユリアの名前が出たとたん、アミルは両手で頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。両肘をつき、顔を覆う。栗色の長い癖毛が、鳥の巣みたいに絡まった。

 シャレムと同様か、ある意味それ以上に、ユリアのことは気にかけていた。あれほど取り乱した自分を目の当たりにして、動揺していないはずがない。おそらく、寝食もろくにとれていないのだろう。

「また顔見せてやれよ」

「うん、わかった。今から行ってこよっかな」

「あー……今は家にいない」

「出かけてるのか?」

「ああ。エマとアイラと三人でな。スイーツ囲んで女子会だそうだ」

「なるほど」

 誰かが転びそうになれば手を取り、転べば手を差し伸べる。彼らは、ずっとそうして支え合ってきた。これからもずっと、この関係は変わらない。

「レイ」

「?」

「いろいろありがとな」

「何言ってるんだ。お互い様だろ」

 この形はきっと、変わらない。

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