Kaleidoscopes(2)

 夏空に高く雲が昇る。

 真っ青の中に、もくもくと湧き上がる真白い積乱雲。まるで砦のように聳えたあの下は、今頃激しい雷雨に見舞われているのだろう。すべてを洗い流し、荒々しく地面を抉って。

 車の後部座席から、ユリアは窓の外を眺めていた。街の景色は次から次へと移ろいゆくのに、空の様相はまるで変わらない。実際は、『変わらない』のではなく、変わる速度が『遅い』だけなのだが。

 幼い頃から、夏の空は好きだった。青空に聳える積乱雲を見ていると、どこまでだって冒険できるような、そんな気がした。昼だけじゃない。朝も夕も夜も、どの時間帯の空も好きだった。

 けれど、夏の雨は苦手だ。どうしても、好きになれない。

 夏の雨で濁った川は、嫌いだ。

「暑くないか?」

 空を眺めながら思い耽っていると、運転席のジークに声をかけられた。はっとし、前方のルームミラーへと顔を向ける。見慣れた琥珀が、自身の蒼玉とぶつかった。

「あ、うん、ちょうどいいよ。ありがとう」

 冷房の効き具合を確認してくれたことに対し、頬を緩めて礼を言う。日に焼けないよう、外出するときは肌の露出を控えているため、とくに気づかってくれているのだろう。ステージに立ち、『見せる』ことを生業としているユリアにとって、夏の日差しは大敵なのだ。

「この猛暑だからな。もし気分が悪くなったりしたら、陛下と話している最中でも遠慮せずに言うんだぞ」

「そんな、大丈夫だよ。……でも、うん。わかった」

 眉を下げて笑いながらも、自身の忠告を聞き容れたユリアに、ジークはとりあえず胸をなでおろす。

 サミットから一週間程度しか経っていないというのに、明らかにユリアは痩せていた。顔色も、メイクで色を付けているとはいえ、お世辞にも好いとは言えない。食事も睡眠も、ろくにとれていないということが、容易に窺えた。

「本当は付き添ってやりたいんだが、急用が入ってしまってな。一時間もかからないとは思うんだが」

「ごめんね、忙しいのに。わたしが運転できたらなー」

「……いや。それはそれでいろいろと問題が……」

「ん? 運転が下手とか、そういうこと?」

「そうじゃなくて、一部のアンモラルなファンやマスコミに見つかって、追いかけられでもしたら大変だろう?」

「あー」

「……まあ、運転云々も否定はしないが」

「!? もう!! そりゃ免許取ってからほとんど運転してないけどもっ!!」

「だろう? だから、する必要がないのなら、お前は運転しなくていい」

「むー。……まあね、自分だけの問題じゃないからね。みんなに迷惑かけちゃうから。万年後部座席でいいです、わたしは」

 面白くない、というのが本音だが、拗ねているわけではない。ジークの意見が正論であることはわかっているし、納得だってしている。

 ひとりでは何もできない——改めて、そう感じた瞬間だった。

 ふたりが向かっている先は、イルレーシュ宮殿。炎天下の市街地、帝都でもっとも神聖な場所とされる丘陵の上を目指し、車を走らせる。

 丘陵の麓から帝室の敷地ゆえ、厳重な警備が敷かれているのだが、ジークはほぼ顔パスで通過することができた。同乗者のユリアも然り。しかし、ユリアの姿に、警備兵は少なからず驚愕しているようであった。来賓リストに名前が載っているにもかかわらず、だ。ユリアの知名度の高さ、その存在感の大きさは、やはり段違いである。

 丘陵をのぼりきり、所定の場所に駐車をすると、ふたりは建物のほうに足を運んだ。

 ユリアにとって、宮殿に来るのはこれで三度目。何度来ても落ち着かないが、同行しているのがジークだからか、今回はそれほど緊張しなかった。慣れているのだろう、無駄のないジークの足取りに、安堵感すらおぼえる。

 兄妹のように育ってきたとはいっても、ジークは貴族。ユリアは、それを再認識した。

「この前ここへ来たとき、どの部屋で話をしたか覚えてるか?」

「え? ……んーとね。たしか、一階の会議室だったよ」

 前回、サミットの依頼を受けるために、ミトと訪れたときのことを想起する。帰る間際に入ることとなってしまった薄暗い部屋のことや、そこで生まれた小さな冒険は、黙っていることにした。

「そうか。今日は二階に上がるからな」

「そうなの?」

「ああ。陛下の私室だ」

「へー、ししつ。…………え?」

 驚きのあまり発した声は、驚くほど低かった。予想だにしていなかった展開に、口を閉じることができない。ついでに足も止まってしまった。

 ユリアの聞き違いでなければ、ジークは『陛下の私室』と言った。私室、すなわち、グランヴァルトが個人的に使用する部屋。そんなプライベート(であろう)空間に、公人でもなんでもない自分が、近寄ったりしても本当にいいのだろうか。

 前言撤回。ユリアの胸中は、緊張と不安でいっぱいになった。

「そんなに緊張しなくても大丈夫だ。ほら、行くぞ」

「……今だけジーク兄の心臓と交換してほしい」

 両手で顔を覆い、まるで萎れた花のようにしおしおとうなだれる。そんなユリアの背中を軽く押して励ますと、ジークはすたすたと歩き出した。陰と陽。対照的なふたりを、門衛が快く招き入れる。

 青地に金糸があしらわれた絨毯の上。迷うことなく、そして遮られることなく、ジークは進んだ。巨大なシャンデリアがぶら下がった階段を上がり、右に左に角を曲がる。グランヴァルトの私室に赴くのは久方ぶりだが、通算すると何度目だろうか。

 隙を見つけては、グランヴァルトはジークを呼びつけていた。今でこそ回数は激減したが、帝位を継承してすぐの頃は、よく連絡が入ったものだ。

 今思えば、あの頃の彼は少し怯えていた。おそらく、国を治めるという重圧に、必死で耐えていたのだろう。それを紛らわせるために、自分を傍に置いておいたのかもしれない。確認したわけではないし、この先も確認するつもりはないので、真意はわからないけれど。

「着いたぞ」

 斜め後ろに控えたユリアに声をかける。いつも無邪気な妹は、頭のてっぺんから爪先までかちかちに凍結させていた。

 稀有な姿に苦笑を漏らしつつ、部屋の扉をノックする。他の部屋と比較すると、明らかに壮麗さのレベルが異なる扉。

「陛下、私です。ユリアを連れてきました」

 その向こう側から、「おー、入ってくれー」という、実に彼らしい間延びした返事が聞こえた。それに従い、ゆっくりと扉を開ける。

「失礼いたします」

「ご苦労さん」

 ジークが扉を開けると、グランヴァルトはすぐそこまで歩いて来ていた。

 窓から陽光が降り注ぐ、広々とした明るい室内。その真ん中に、高級感漂う豪華な応接セットが設置されている。他にも壁際にいくつかソファが据えられていて、隣接するようにチェストや小さなテーブルが置かれてあった。部屋の奥にある扉は、寝室への入り口だ。

「失礼……いたします」

「どーぞ。外は暑かっただろ? 適当に座って涼んでくれ」

 ユリアを労い、グランヴァルトが応接セットを指し示す。相変わらずきらきらと眩しくて、相変わらずざっくばらんな物言いだ。

 この物言いに、不思議とユリアの緊張は緩和された。彼の私室にお邪魔しているにも関わらず、彼の姿を見て、どこか落ち着いている自分がいるのだ。……驚いた。

「お前、このあと仕事なんだろ?」

「はい。終わり次第、また迎えに来ます。 じゃあ、ユリア。またあとでな」

「うん、ありがとう。お仕事、頑張って」

 グランヴァルトに一礼し、ユリアに笑いかけると、ジークは早々にこの場をあとにした。

 扉を閉める直前、琥珀色の瞳に映じた、妹と幼なじみの並んだ姿。……見慣れてなどいない。けれども、ふたりが一緒にいるその様相は、まったくと言っていいほど違和感がなかったのである。

 突としてジークの胸中をくすぐった、なんとも名状しがたい感情。先日のイーサンの言葉が、脳内で再生される。


 ——ひょっとするとひょっとしたりして。


 顔を顰め、答えの出ない答えを探す。イーサンに翻弄されているのかと思うと癪に障るが、けっして不快な気分に陥っているわけではない。

「……」

 宮殿を出るまでのあいだ、ジークは、とある光景を思い浮かべていた。

 それは、この国の未来。

 ヒトと竜人——手を伸ばせば触れられそうな黙示のごとき光景が、ジークの脳裡に広がっていた。

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