Kaleidoscopes(1)

 大きな両翼を真っ直ぐに伸ばし、青空を滑空する一羽の鷹。弧を描くように旋回し、ゆっくりと降りてきた先は、ひとりの青年の手もとだった。

 愛おしそうに、鷹の顔を指で撫でる彼は、竜人。歳は二十代半ばだろうか。赤いターバンを巻き、手もとの朋友と同じ灰黒色の民族衣装に身を包んでいた。黒く太い眉に、彫りの深い端正な顔立ちをした、なかなかの美丈夫だ。

 見渡すかぎり砂に覆われたこの大地は、彼にとって何よりも大切な場所である。

 そんな彼のもとに、滑るように駆け寄ってきたひとりの従者。息を切らすことなく、手を添え、静かに耳打ちする。

「第一段階が終了したとの報告が入りました」

「……そうか」

 見上げれば、焦がれそうなほどに眩しい太陽。そこに向かって、鷹の止まった手を勢いよく振り上げる。鷹は、再び大空目がけて翔け上がった。

「まだ始まりに過ぎない」

 砂漠の空を、鷹が舞う。

 鳴き声を響かせ、悠然と舞う。

「すべてはスハラのために——」





 ◆ ◆ ◆





 サミットから一夜明けたこの日。

 国内の主要機関は、休む間もなく稼働し続けていた。本来ならば、休暇を取得するはずだった人員も、それを返上して対応に追われている。

 ラムジ襲撃事件によってもたらされた衝撃。その余波は、ここ軍部にも大きな影響を与えていた。

「すまんな。休ませてやれなくて」

 申し訳なさそうに眉を下げたセオドアに、ジークとイーサンは揃って首を横に振った。

 昨日の朝からずっと任務にあたっている将軍ふたりは、事件を挟んで今まで一睡もしていない。警察が到着するまでの間の現場保全や現場検証の立ち合い、および、その場に居合わせた者として事情聴取にも付き合った。

 それから、ほんの少しだけ息をついた後、報告のために元帥の執務室に趣き、今に至るというわけである。

「内務大臣から、警察に協力してほしいとの要請があった。今しがた、軍としてその要請を正式に受けたところだ。……今回の件は、国内で起こった暴行事件として単純に処理することはできん」

 落ち着いた語調でセオドアが言う。プラチナブロンドの前髪から覗く蒼眼が、粛然と光を揺らした。

 焦ることもなく、顔を顰めることもなく、まるで青々と茂る巨木のようにどっしりと構えた風格には、もはや敬服するしかない。

「今回の件、お前たちの目にはどう映っている?」

 執務机に両肘をつき、並んで立つ部下を見上げる。顔色に滲んだ疲労を案じながらも、衷心から信頼する部下の意見を求めた。

「……正直、違和感しかありません」

 互いに顔を見合わせ、代表してイーサンが口を開く。これにはジークも無言で賛同した。

 セオドアは、ふたりをじっと見つめ、その『違和感』を説明するように促した。

「これは私の主観ですが……」

 こう前置きすると、イーサンは一連の流れを頭で辿った。始点は、黒いローブのヒト——シャレムを、調印式で見たとグランヴァルトから聞かされたときだ。

「スハラが従者にヒトを据えるはずはないと思いました。現にラムジもああ言っていましたし。ですが、こちらの警備は万全だった。外から紛れ込んだとは到底考えられません」

 そう。ガルディアの警備体制に不備はなかった。結果、外部から何者かが侵入したという痕跡は、微塵も見つからなかったのだ。

 では、彼はいったいどうやって侵入したのか。……そもそも、本当に侵入したのだろうか。

「紛れ込んだのではなく、従者として最初から随行していた……ということか」

 イーサンの意見と諸々の状況を勘案し、セオドアが重々しく告げた。これに対し、厳しい顔つきでイーサンが頷く。「現段階では憶測の域を出ませんが」と付け加えるも、この可能性が極めて濃厚であると見ているようだ。

「……だとするなら、新たな疑問が浮かんでくるな」

 謎が謎を呼び、溜息が溜息を誘う。底の見えない濁ったバケツに、手を突っ込んだような感覚。

 セオドアの言う『新たな疑問』を、部下はふたりともじゅうぶん認識していた。それを、今度はジークが口にする。

「どのタイミングで彼が随伴者として行動をともにすることになったのかわかりませんが、あの事件を起こすまで、スハラ陣営が誰ひとり彼の存在に気づかなかったのは不自然です。……ありえない」

 眉を顰め、最後の言葉を強調する。

 ラムジは第一王子。すなわち次期国王だ。そんな重要な地位にある彼の随伴者は、身元まで保証されてしかるべきである。

 それなのにヒト——それも、ラムジに対し、けっして小さいとは言えない私怨を持っているシャレムを、側に寄せたりなどするはずがない。

 誰も気づかないなど、組織としてありえないのだ。

「それに、あの場でラムジ殺害を図るのは、現実的ではありません。……おそらく、目的は別のところに」

「あんだけ軍人が警護に貼りついてりゃ、殺せないことも捕まることもわかってただろうしな。どうしたって私怨は晴らせない。けど、囮とかカムフラージュってんでもなさそうだし……あー、頭痛ぇ」

 バケツの濁りは依然として暗い。軍の頭脳三人をもってしても、やはり即解決とはいかなかった。まだまだ情報が不足しているというのが実状だ。

「いずれにせよ、これで終わりではないということだ。仮に、今回の件がスハラの内乱の一端だとしても、ガルディアに脅威がないと断定できるまでは警戒を緩めるわけにはいかない。引き続き、今の態勢を維持してくれ」

 こう締めくくったセオドアに、ふたりは頭を下げるように首肯した。

 協力を要請されたとはいえ、この事件の捜査を主導するのは、あくまで警察だ。よって、軍人である彼らに、捜査の権限があるわけではない。

 彼らの使命は、この国を守ること。この国が、民が、脅かされる危険性がわずかでもあるのなら、それを排除するのが彼らの責務なのだ。

 現時点での情報共有はこれまで。

 執務室をあとにしようと、イーサンが爪先をドアに向けたときだった。

「……元帥」

 同じく執務室をあとにするだろうと思われたジークだったが、その場から動こうとはしなかった。ひと呼吸置き、沈痛な面持ちでセオドアに呼びかける。

 その様相から、彼がこれから発しようとしている事柄が、仕事絡みではないということが窺えた。

「あの……ユリアのこと、何かお聞きしていますか?」

 そうして躊躇いがちに訊いたのは、ユリアの現況。

 シャレムの身柄を警察に引き渡し、迎賓館に戻ったときには、すでにユリアたちの姿はなかった。結局、ひとことも交わさないまま別れてしまったゆえ、ずっと気にかかっていたのである。

 彼女はどんな思いで、連行されるシャレムを見ていたのだろうか。叫び崩れるアミルを見ていたのだろうか。……考えるだけで、胸が押し潰されそうだった。

「今朝、アンジェラから連絡があった。……昨夜は寝ていないらしい。おそらく、ろくに食べてもいないだろうな」

 案の定、というべきか。父親であるセオドアから返ってきた返事は、あまり芳しくないものだった。感受性の強い優しい子だ。あんな場面に遭遇して、心を痛めていないはずがない。

 セオドアも、丸一日本部に詰めているため、ユリアとは会っていない。昨日の朝食時に「頑張れ」と激励して以来、顔を合わせていないのだ。

「話をすれば無理して笑ってくれるんだろうが……それはそれで心配だしな」

 困ったように笑ったその顔は、まさしく父親のそれだった。

 セオドアがどれほどユリアのことを溺愛しているか、ジークは痛いくらいに知っている。十年前、ユリアが声と表情を失くしたあのとき、セオドアがどれほど深い苦衷に呑み込まれてしまったかということも。

「しばらく仕事も入っていないらしいから、この機会にゆっくり休養させようと思う。 妹御いもうとごの様子はどうだ?」

「かなり落ち込んでます。昨夜は事務所まで妻に迎えに行ってもらって、そのままうちに……。休暇中は、家で休ませるつもりです」

「そうか」

 ユリアやシンシアを含め、いたるところに深い傷を残した今回の事件。

 だが、現状一番苦しんでいるのは、間違いなくアミルだ。

「アミルさんは? ひとりなんですか?」

「いや、社長が付き添ってるらしい。さすがに今はひとりにさせらんねぇだろ」

「……」

 ジークの耳に、いまだこびりついたままのアミルの声。

 自分の名前を呼ばれた。「待ってくれ」と懇願された。けれど、自分は耳を貸さなかった。彼の顔すら見なかった。

 シャレムの身柄を警察に引き渡しても、胸の靄はいっそう増すばかり。あのとき、足を止めればよかったのだろうか。ほんの一瞬でも。

 ……わからない。

「おい」

「っ!」

 呼びかけと同時に、イーサンに額を小突かれた。まるでドアをノックすように、武骨な手の甲でコツンと。

 地味にじんわりと広がる痛みを、俯き加減で何度かさする。

「お前はお前のなすべきことをしたまでだ。それは、アミルだってわかってる」

 ジークの心中を的確に察したイーサンの言動。少々手荒いけれど、これが彼なりの気づかいだった。

 本当のところ、ジークはちゃんと感取していた。アミルの気持ちも、イーサンの言わんとしていることも。そこには、優しさしかないということも。

「ご苦労だったな、ふたりとも。今日はもう上がってくれ」

 見慣れた光景に目を細めつつ、セオドアは退勤指示を出した。このふたりを見ていると、軍の未来が見えてくるような気さえするから不思議だ。

「元帥は、まだ帰宅されないのですか?」

「いや、私もすぐに帰宅する。『今日は早く帰って娘と一緒にいろ』と、陛下に口酸っぱく言われたからな」

「あー、その表情浮かびます。まざまざと。……ユリア嬢のことは、陛下もかなり心配されてましたからね」

「……そのことなんだが、陛下がユリアに今回のことを直接詫びたいと申されてな。気をつかわなくていいとお伝えしたんだが、依頼した立場上そういうわけにはいかないと」

 今朝、グランヴァルトと話をしたおり、セオドアは彼からこのような申し出を受けていた。アンジェラから連絡を受けた直後のことだったため、妻に聞いたまま娘の様子を彼に伝えたのだ。当然と言うべきか。彼は、その整った顔に憂いを滲ませていた。

 「娘と相談しておいてくれ」と、いったん保留になったこの案件。本人に尋ねれば、十中八九首を縦に振るだろう。しかし、娘を娘だと公にしていない以上、自身が送迎などすれば確実に目立ってしまう。とはいえ、休暇中の事務所スタッフを頼るのも気が引けた。

「日程が決まれば、私がユリアを送迎しましょうか?」

 セオドアがあれこれと思案を巡らせていると、ジークからこんな提案がなされた。

「いいのか?」

「はい。おそらくスタッフには一斉休暇が出されているでしょうから、そのほうがいいと思います」

 セオドアの懸案事項をすべて加味したうえでのパーフェクトな提案。さすがは将来有望な若き少将である。

 申し訳なさよりもありがたさが勝ってしまった結果、セオドアはジークに甘えることにした。

「すまんな。詳細が決まったら、また連絡する」

 ジークとイーサンは揃って一礼し、今度こそこの場をあとにした。各部屋ほど廊下は空調が効いていないため、熱気が肌に纏わりつく。

 セオドアと言葉を交わすたび思うことだが、元帥というのはなんと骨が折れる役職だろうか。彼だから務まると言っても過言ではない。

「……なあ、ジーク」

「はい」

 青と白の廊下をしばらく進んだところ。もう少しで出口という三叉路で、イーサンがおもむろに口を開いた。

 いつになく神妙な面持ちの先輩に首を傾げたジーク。静かに二の句を待つ。

 そして。

「陛下はお嬢に何か特別な思い入れでもあんのか?」

「……はい?」

 意想外も意想外に継がれた言葉に、ジークはおもいきり素っ頓狂な声を発してしまった。思わず歩みを止める。『いきなり何を言い出すんだこの熊は』というフレーズが、びたんっと顔に貼りついた。

「いや、もともと律儀な御方だってことは重々承知してんだけどよ。直接パフォーマンス依頼するとか、直接バックヤードに礼言いに行くとか、異例じゃね? で、今回のことだろ? ……ひょっとするとひょっとしたりして」

「そんなまさか」

「わっかんねーぞー? 人の心ほどわかんねーもんはねぇからな」

「……」

 だが、最後の言葉は妙に説得力があった。理由は、彼の妻——イザベラである。

 今でこそ軍きっての鴛鴦夫婦と称されるふたりだが、当初は付き合うということすら想像できなかった。イザベラがイーサンの好意を受け止めるだなんて、誰も思わなかったのだ。

 そうだ。人の心はわからない。

「だったらどーするよ、おにいちゃん」

「どうするもこうするも…………どうしましょう」

「いや。俺が聞いてんだけど」

 働き過ぎるくらいに働くジークの思考が、完全に停止した。何事もなかったかのように歩みを再開するイーサンに、腹を立てることすらできない。

「陛下が……ユリアを……?」

 間もなく動き始めた脳は、まるで紡績機のようにぐるぐると回転した。ぐるぐると。高速で。

 しかして、この堂々巡りの思考の果ては、意外と早く訪れることとなる。

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