in the gathering Dusk(4)
男の雄叫びが聞こえるやいなや、雪崩れるようにグラスの割れる音が轟いた。まるで雷鳴を彷彿とさせるそれは、人々の叫び声を誘い、一気に巻き上げる。大勢の逃げ惑う声が、辺り一帯に散らばった。
その喧噪は、ユリアたちのいるバックヤードのすぐ外まで押し寄せてきた。得も言われぬ異様な事態に、空気がびりびりと震撼する。
「……っ、大丈夫か!?」
一瞬の出来事だった。
間近にグランヴァルトの顔が迫っている。厳しい形相で何かを案じてくれていたが、ユリアはすぐに反応することができなかった。
だが、自身の背中と腰に回された腕がグランヴァルトのものだとわかったとたん、現状を把握し、ようやく声を発した。
「あ……は、はい! わたしは、大丈夫です」
硝子の割れる大音が聞こえ、咄嗟に身をすくめたユリアを、グランヴァルトが反射的に抱き寄せたのだ。彼の後ろでは、ふたりの従者が、彼を守るために陣を張って備えている。
メンバー四人も、体勢を低くして身を寄せ合いながら、この異様な事態の中で出来得るかぎり情報を分析しようと努めていた。
喧噪が去り、代わりにこちらへと近づいてくる重い足音。ものすごい勢いだ。
「陛下……!」
バァンッと、荒々しくバックヤードの扉が開け放たれ、同時にグランヴァルトを呼ぶ野太い声が響き渡った。扉の外に立っていた護衛官と悶着する気配がなかったため、脅威ではないとわかっていたが、まさか彼だったとは。
「お怪我は?」
「掠り傷ひとつない。……どうした、イーサン。何があった」
ユリアの体を支えたまま、グランヴァルトは静かに問いかけた。語調を崩すことも取り乱すこともなく、彼——イーサンに説明を求める。
「陛下の不安が的中しました。……ですが、事は想像以上に複雑かもしれません」
険しい表情でそう説明したイーサンの背中越し。人影がまばらになった会場の前方に、なんとも衝撃的な光景が広がっていた。
黒いローブを纏った初老の男が、ジークによって取り押さえられていたのだ。顔はよく見えないが、浅黒い肌の色から推測するに、おそらくスハラかその周辺地域の出自だろう。
男はヒトだった。うつ伏せの状態で左手は床に押さえつけられ、右手は背中に捻り上げられている。
ジークの力を加えられた両の手には、かなりの痛みが伴っているはず。にもかかわらず、男は何かを鋭く睨み続けていた。声を発することこそなかったが、興奮を露にし、さながら獣のように荒い息を繰り返す。
男が睨みつける先——そこには、側近のナジュによって保護され、腰を抜かしたラムジの姿があった。てらてらとした顔からは血の気が引き、遠目からでもわかるほどに蒼白としている。
「従者席から立ち上がり、ラムジ王子にナイフで切りつけようとしたところを、ジークが取り押さえました。スハラの関係者を除き、ほかの参列者は別の部屋に避難を。しばらくそのまま待機してもらうよう、部下には指示しています」
「そうか」
「……陛下が調印式でご覧になったのは」
「ああ。あの男で間違いない」
外形だけを見れば、男はスハラの従者だ。しかし、イーサンの報告で浮かび上がったのは、従者が主を襲ったという、普通では考えられない図式。イーサンが『複雑』だと漏らした所以が、そこに反映されていた。
やはり、あの国は普通じゃない。
「だ、だだ、誰なんだお前は!! どうしてそのローブを着ている!! ボクの隷属に、ヒトなんかいるはずないだろっ!!」
先に開口したのはラムジだった。言葉の取捨選択ができないほどに取り乱し、唾を飛ばしながら喚き散らしている。どうやら、驚きや怒りよりも、恐怖のほうが勝っているらしい。
男はいったい何者なのか。なぜ、従者に扮してラムジを襲ったのか。それも、この日この場所で。
「……『誰』、だと? はっ! どこまでも愚鈍なヤツだな。たった十六年前のことすら覚えていられないのか、その頭は」
ラムジに視線を突き立てたまま、ついに男がその口を動かした。髭の内側にある口角を吊り上げ、至極忌ま忌ましそうに吐き捨てる。
華やかな会場の一等華やかな場所。すべての照明が灯り、
「……十六年前、お前はオレの娘を攫った。オレの目の前で」
「かっ、勝手なことを言うな!! ボクがそんなことするわけ——」
「勝手なのはどっちだ!! お前のせいで娘は死んだ……お前の気まぐれで
男の咆哮が、会場全体を大きく揺るがした。抑えきれない怒りや悲しみが、血飛沫のように迸る。
……男は、命を削っていた。
「……っ、まさか……アミルくん!」
このとき、ユリアはハッとした。
レイも、アイラも、エマも、イーサンも。それから、取り押さえている当のジークも。
皆気づいてしまったのだ。男の正体に。
ユリアがアミルのほうを見やったとき。
「……おっちゃん」
一歩、アミルが前に踏み出した。
滴下した懐かしい呼び名は、心の古傷にひりひりと沁みた。
「おっちゃん」
よろりと、二歩目を踏み出した。
先ほどよりも呼び名をしっかりと音にし、遠い昔に想いを馳せる。
「おっちゃんっ!!」
「馬鹿、アミル!! こっから動くんじゃねぇっ!!」
床を蹴って駆け出そうとした三歩目は、イーサンによって制された。
大きな手でがしりと腕を掴まれ、強引に引き戻される。
「中将!! あのヒトは……っ」
「わーってる!! わーってるから、ちょっと落ち着けっ!!」
こう宥めるも、イーサンはアミルの手を放そうとはしなかった。放せば、間違いなくアミルは行ってしまう。あとのことなど何も考えず、感情に突き動かされるまま駆け出してしまう。
幼い頃、父のように慕っていたあの男の——
「……アミル」
「!?」
「……立派になったなあ……」
「……——っ!!」
——シャレムのもとへ。
イーサンに掴まれた腕に力が入る。握り締めた拳。噛み締めた唇。目頭が熱くなり、鼻の奥に痛みが響いた。
同じだった。滲む視界に映ったのは、昔と同じあの優しい笑顔だった。
アミルの声は、シャレムにちゃんと届いていたのだ。
今のアミルの情動は、完全にシャレムのそれとシンクロしていた。直前まで蓋をしていた過去の記憶が、早送りで蘇る。
十六年前のあの日。自分は、シャレムの娘——ライラと一緒に市場にいた。学生寮から久々に帰省した彼女と自分を、シャレムが遊びに連れていってくれた。
灼熱の太陽に焦がされながら、瑞々しいフルーツをたくさん食べた。色とりどりの鮮やかな陳列棚は、見ているだけで楽しかった。
そんな中、アイツはやってきた。従者を従え、仰々しく練り歩いてきた。欲望のままにフルーツを食い散らかし、なりふり構わずわがまま三昧を尽くしていた。
気に入った物は掻っ攫い、気に入らない者は引っ捕らえた。
そして、自分たちの傍で立ち止まり、ライラを指差してこう言ったのだ。
——アレが欲しい。
「……イーサン。ここを頼む」
「えっ、ああ、はい。……え?」
ユリアに優しく微笑みかけると、グランヴァルトは慰撫するようにその小さな肩を撫でた。ついでにイーサンの背中を拳でぽすんと殴り、バックヤードをあとにする。
主の考えがいまいち掴めない。側近たちは、顔を見合わせ困惑するも、とりあえず動向を合わせることにした。
意外かもしれないが、公の場で何かを行うとき、グランヴァルトは必ずと言っていいほど周囲と意見を交換する。独断で何かを行うことはまずない。それは、自身の権力と影響力を、十二分にわきまえているからだ。
そのうえで、彼は今から、何かを行おうとしている。
「……っ、ナジュ!! こいつを捕まえてスハラに連れ帰れ!! 今すぐだ!!」
空気の流れが、
「ナジュッ!!」
変わった。
「それは認められません、ラムジ王子」
自身に危害が及ばないとわかり、恐怖よりも怒りが勝ったラムジ。カモメ眉を聳やかし、シャレムを指差しながら声を張り上げる。
そんな彼に、悠然と近づいたグランヴァルトが、冷静に言い放った。
「この者は罪を犯した。今日この場所で」
「はい! なので我が国へ連れ帰って処分を下します!」
「ですから、それは認められません」
「なぜですか? 陛下のお手をわずらわせるようなことは——」
「いろいろと勘違いをなさっておられるようですが……重要なのは、この者に治外法権は認められないということです。王子は仰った。この者はご自分の随伴者ではないと。……よって、この者は我が国の法律に則って裁かれるべきだ」
黄金色の双眼が、静かにラムジを射貫く。語調は淡々としていたが、「これ以上何も喋るな」という強い意思がはっきりと眼差しに現れていた。これほどまでに彼が強固な態度に出たのは久方ぶりである。
もし仮に、シャレムが公人として随伴していたならば、彼の身柄はスハラに引き渡さなければならなかった。今回、彼の身柄はガルディアのものだ。
「……オマール様。この件は、グランヴァルト陛下にお任せいたしましょう。必ずや、ご善処くださると思います」
グランヴァルトの無言の圧力に、スハラ側でいち早く反応を示したのはナジュだった。主であるラムジを諌め、ぞくりとするほど美しい視線をグランヴァルトに注ぐ。どうやら彼は……彼だけが、事のすべてを理解できているらしかった。
「フレイム少将」
「……」
「その者の身柄を警察に」
「……御意」
不貞腐れたように下唇を突き出すラムジを一瞥し、グランヴァルトはジークに指示を出した。これを受けたジークがシャレムを床から離し、その両手に枷をはめる。
シャレムは、いっさいの抵抗を見せなかった。
「ちょっ……待ってくれジーク!!」
粛々と連行するジークに向かい、アミルが叫ぶ。イーサンと護衛官がふたりがかりで抑えるほどの凄まじい勢いだった。
「少しでいい……少しでいいから話をさせてくれ、頼む!! ジークっ!!」
胸を引き裂くような悲痛な叫び。けれども、ジークは耳を貸さなかった。ただ前だけを見据え、自身の職務を遂行する。連行する手に感じた震えも、声を殺してすすり泣く音も、すべて気づかないふりをした。
「……でだよ……おっちゃん……っ、……なんでなんだよっ!!!!!」
アミルの慟哭が、
ぐちゃぐちゃだった。
何もかも。
夜の帳が降りてくる。
十六年前の悲劇、その真相が、深い深い闇の中で息を繋いでいた。
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