Radiant(2)

 小さな影が、わずかに揺れる。

 カーテンの隙間から差し込む光に舞う埃。季節柄、日差しは和らいできたものの、それでも閉め切った室内には熱気がこもっていた。湿っぽい臭いが、乾いた鼻腔をつく。

 想像していたよりもずっと緊張している——そう自覚したユリアは、硬い壁にぎこちなく背中を預けた。息をするのもやっとというこの状況では、溜息さえ出ない。

 気分が紛れるわけではないが、とりあえず室内を見渡す。蜘蛛の巣などが見られないため、一応清掃はなされているようだが、部屋として使用されている形跡はほとんどなかった。

 そういえば……と、数か月前に意識を寄せる。

 そういえば、まだサミットが打ち合わせ段階だったあの日。初めてグランヴァルトとふたりきりで話をしたのも、こんなふうに薄暗く湿った部屋だった。

「……あ、そうだ」

 と、あることを思い出したユリアは、おもむろに壁から背中をはがし、カーテンで覆われた窓のほうへ歩みを進めた。


 ——部屋に入ったら、窓の鍵を開けておいてくれ。カーテンは閉めたままな。


 ここへ来る直前にジークから言いつかっていた事柄。それを実行するべく、カーテンの隙間から窓のクレセント錠へと手を伸ばす。

 なぜ開錠しておく必要があるのか。理由を聞くのを忘れてしまったが、だいたい予想がついてしまうから不思議だ。

 おそらくは、彼のため。

 天翔るおおとりのように、闊達な彼のため。煌めくこの陽光のように、眩しい彼の——

「——」

 刹那。

 目と目が合った。呑み込んだ息が喉に詰まり、呼吸ができなくなった。

 時が、止まった。

「ぅおわっ!!」

「わっ!!」

 時が動き出したと同時に上がった驚きの声。なんとも色気のない両者のそれは、はためくカーテンの音に掻き消された。

「ったた……」

「悪い!! 大丈夫か!?」

 絨毯の上で、さながら倒伏した麦のようなユリアを、グランヴァルトが慌てて起こす。ユリアが錠を外すタイミングと、グランヴァルトが窓を引き開けるそれとが絶妙に重なり、グランヴァルトがユリアに向かって勢いよく倒れ込んだのだ。不可抗力とはいえ、とんでもないことをしてしまったと、その華奢な体を精いっぱい案ずる。

「怪我は!?」

「あ、だ、大丈夫です……!!」

 臀部や背中に若干の痛みは残っているが、大したことはない。対格差を考えれば、もう少し衝撃があってもよかったくらいだ。

 グランヴァルトは、バランスこそ崩したものの、持ち前のしなやかさと軽やかさで瞬時に体勢を立て直したらしい。そればかりか、片腕でユリアの上体を支え、ダメージを最小限にとどめたのである。

「すまん。窓枠に足を掛けた時点で、止まることはもう考えてなかった……」

「と、とんでもございません! わたしのほうこそ、もっと早く鍵を開けておくべきでした……」

「……」

「……」

「……ふっ」

「……ふふっ」

 思わず漏れた笑い声。会話の内容があまりに乏しくて、なんだか可笑しくなった。声を揃えて高らかに笑えば、互いに抱いていた緊張感は数週間ぶりに消散した。代わりに増したのは安堵感。

 やはり、彼といるのは、彼女といるのは、心地好い。

「……あ、あのっ」

 笑いが収まり、ひと呼吸置いた後。

 ユリアが、グランヴァルトに向かって呼びかけた。

「先日は、大変失礼いたしました。いくら疲れていたとはいえ、陛下にご迷惑を……本当に、申し訳ございません」

 彼に会ったら、真っ先にしなければならないと思っていたこと。それは、あの日の謝罪。まさか皇帝の御前で寝落ちしてしまうなんて……自分で自分が信じられない。どれだけ頭を下げてもなかったことにはできないが、どうしても謝っておきたかった。謝らずにはいられなかった。

 もちろん、彼はそんなこと微塵も気にしていない。

「謝らなくていい。……元気そうで安心した」

 幾分良くなっているユリアの顔色を確認し、グランヴァルトはさらに頬を緩めた。柔和な光が宿った金色の双眸。そこに映った、特別な想い。

 胸奥で形を成したそれを、あの日、グランヴァルトは自覚してしまった。だから今日、ユリアをここへ呼んだのだ。戸惑う幼なじみに協力してもらってまで。

「今日、ジークにお前をここまで連れてきてもらうよう頼んだのは、自分の気持ちを直接伝えたかったからだ」

「気持ち……?」

「ああ。お前も俺に話があるとジークから聞いてはいるが、先に俺の話を聞いてもらってもいいか?」

「……え? あっ、はい。もちろんです」

 グランヴァルトの言葉に首を傾ぐも、ユリアはすぐさま頷いた。皇帝の依頼を拒むことなどできるはずがない。ゆえに、首を横に振るという選択肢はなかった。

 彼が彼女に話したいこと。彼女が彼に話したいこと。そのふたつが同じであるということを、当のふたりは知らない。想いが重なっているということなど、今のふたりは想像すらしていない。

 静かに輝くユリアの蒼い瞳。優しい面差しを俯けた彼を見上げれば、心臓をきゅっと握られるような思いがした。

 時を刻む針の音が、頭の中で大きく鳴り響く。カラカラと軋みながら、歯車が忙しなく廻る。

 そうして——

「あの日からずっと、お前のことばかり考えている。……いや、違うな。あの日じゃない。二年前、建国祭で歌う姿を見たときからずっと、俺はお前のことが気になって仕方がない」

 ——鳴り止んだ。

 薄暗く湿った部屋の中。窓の外から流れ込む乾いた秋風が、音もなく肌を撫でつける。

 ユリアの両の瞳に映じたのは、凛と咲く花のように美しく、真っ直ぐなグランヴァルトの姿だった。

「お前に会うたび、いつも思っていた。『もっと話がしたい。もっと一緒にいたい』と。……こんなふうに気持ちを揺さぶられたのは初めてだ」

 あたたかく、陽だまりのような声が降り注ぐ。

 ……同じだった。彼が見せてくれたものは、まさに自分が抱いていたものと、まったく同じだったのだ。

 グランヴァルトから告げられた想い。狂おしいほど赤く染め上げられたその願いに、ユリアは瞠目した。

「……っ」

 言葉が出てこない。嬉しいはずなのに、喜ぶべきなのに、口を開くことすらできない。

 わたしも同じ気持ちです——たったこのひとことが、紡げない。

「突然こんなことを言って、困惑させている自覚はある。申し訳ないとも思っている。だが、どうしても伝えておきたかった。これは俺の一方的な気持ちだから、受けいれなくてかまわない。……ただ、忘れずにいてくれると嬉しい」

 笑みを湛えた彼の顔が翳ってしまった。太陽のような彼の顔が。

 自分のせいだ。臆病な自分のせいで、また誰かを傷つけてしまう。彼を、傷つけてしまう。

 大切な誰かを傷つけるのは、もういやだ。

「……っ、わたしもっ」

 彼は……彼だけは、傷つけたくない。

「わたしも、陛下と同じ……気持ち、です」

「え……?」

 ユリアの告白に、今度はグランヴァルトが瞠目した。小さな体から発せられる小さな声に、驚きながらも耳を傾ける。

 ユリアの蒼い瞳は、今にも零れ落ちそうだった。

「不謹慎かもしれませんが、陛下とお話するのがとても楽しくて……もっと話したい、もっと一緒にいたいって、そう思ってしまって……この気持ちを、どうしても直接お伝えしたかったんです」

 眉根を寄せ、眉尻を下げ、拙い口調で懸命に語る。声が震えないように、しっかりと立っていられるように、全身にぐっと力を込めた。

 会話で自分の気持ちを伝えるのは、あまり得意ではない。伝えたいことがあればあるほど、気持ちがもつれて言葉にすることが難しくなる。そのうえ、この独特の感性が邪魔をして、相手に誤解を与えてしまったことも少なくはない。

 だから、歌うことにした。歌なら、自分の気持ちを幾分上手く伝えられるから。

 けれど、今日は違う。

 伝えたいことは、気持ちは、ちゃんと定まっている。

「そう、だったのか。……悪い。完全に予想外で言葉が出てこない」

「ふふっ。さっきのわたしみたいですね」

 照れた顔を隠すように、グランヴァルトはその手で口もとを覆った。同時に目線を横に逸らす。

 そんな彼の仕草が可愛くて、ユリアは思わず破顔した。

 カーテンの隙間から差し込む光が、しだいに橙色へと染まる。そろそろ行政府こちらも終業時刻。——タイムリミットだ。

 ふっと、ユリアが目を伏せた。

 一瞬にして凪いだ空気。その空気をふるりと揺らしたのは、先ほどよりも小さく、今にも壊れてしまいそうな、彼女の声だった。

「わたしは、貴方のことを……好きでいても、いいんでしょうか」

 細くて小さな体が、ますます萎縮する。彼女は今、とてつもなく大きな恐怖に苛まれていた。

 生まれた家がかのシュトラス家といえど、歌手として世界的な地位を築いていようと、自分は民間人で貴族じゃない。竜人ではないのだ。

 そんな自分が、何よりも尊い存在である彼の側にいてもいいのだろうか。どんなに背伸びをして考えてみても、否定的な考えにしか至らなかった。

 わかっていたはずなのに……。厚く重い現実が、ユリアを薄闇へと沈めていく。

「……この気持ちは、誰かが制御できるものじゃない」

「……っ!」

 長い指が、大きな手のひらが、ユリアの頬に添えられた。反射的に、ぴくっと肩が跳ね上がる。

 触れ合った部分から伝わる熱。そのすべてが、体の奥深くへと浸透していく。

「お前のために、できることは何でもする。だから、俺にもお前のことを好きでいさせてくれないか」

「……——」

 ユリアの中で、何かが弾けた。とめどなく溢れる「愛おしい」という情動に胸が詰まる。

 言葉にならない。

 言葉は要らない。

 一筋の涙がユリアの頬を伝ったその瞬間、ふたりは、どちらからともなく唇を重ねた。互いの存在を、生まれた想いを、確かめるように強く抱き合う。


 先のことはわからない。

 今はただ、この想いを育てていこう。

 大切に。

 ふたりで。


 果てのない茫漠とした薄闇の中。

 光が、見えた。




  太陽と月の狭間で

  ChapterⅡ:3years ago【完】

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