Radiant(1)
波の音が、鼓膜をくすぐる。穏やかに揺れる濃紺の海。その上で輝く無数の星は、まるで散りばめた宝石のごとく美しい。こんな日は、空が一段と近くに感じられる。
とある湾に浮かぶ、とある小さな島。
およそ二十年前まで5万人ほどいた島民は、ついに1万人を割った。主な収入源である漁業と農業は、担い手不足から衰退の一途を辿っている。
……というのは、もう過去の話。
現在、島の人口は再び1万人を超え、第一次産業は飛躍的に向上した。前者は、本土から流入する者が増加したため。そして後者は、本土からの投資により、大規模な機械化が図られたためだ。
これらすべてを指揮したのは、ファルク・ラムジ。この島を統治している、スハラ王国の第二王子である。
「実に美しい」
ガラス張りの天井から降り注ぐ星空に、ファルクは感嘆の声を漏らした。まだしばらく浸っていたいけれど、残念ながら時間がない。このあと公務が入っているため、本土へと戻らなければならないのだ。
名残惜しそうに湯船から立ち上がる。水面には、真白いジャスミンの花弁がゆらゆらと揺れていた。辺りに漂う甘美で濃厚な香り。彼が一番好きな香りだ。
「また兄上の悪い癖が出たそうだな」
湯殿へと入ってきた従者にこう訊ねれば、従者はこくりと頷いた。薄地の黒いローブから覗いた目がファルクに向けられる。
「ナジュ様が『至極困難な案件ゆえに時間がかかる』と説得されたとか」
「ナジュも大変だな」
兄と側近のやり取りを思い浮かべ、ファルクは喉の奥でクツクツと笑った。我儘三昧の兄も、ナジュのことは心底気に入っているらしい。前の側近たちは、すぐにいなくなってしまっていたが、ナジュはもう五年も一緒にいる。なかなかうまくやれているようだ。
全身から滴る水が、大理石の床に跳ねる。とても王族のものとは思えないほど引き締まったファルクの体躯を、従者が丁寧に拭いていく。水滴がなぞる輪郭は、さながら彫像。軍人にも引けを取らないだろう。
「この国では長男が絶対だ。先に生まれた男は、どんなに非凡な才を持つ他の兄弟よりもてはやされる。こと王族の長男に至っては神の子同然。……あまりにも前近代的な考え方だと思わないか?」
言葉とともに向けられたのは、畏怖すら覚えるほどに艶やかな笑み。従者は、ファルクのその顔を直視することができなかった。
知性も、品性も、カリスマ性も……第一王子であるオマールとは比べものにならないほど秀でている。今は病床の父王も、ファルクの能力は以前より高く買っていた。現に、この若さで島をひとつ再建して見せたのだ。それも、たった五年で。
しかし、彼がいくら輝かしい実績を重ねようと、王位を継承するのはオマールだ。なぜなら、長男だから。これに異を唱える者は誰ひとりとして存在しない。
周辺諸国、とりわけ、ガルディアや
「俺はこの国を愛している。この国をみすみす滅びの道へと歩ませたくはない。そのためにも、父上にはもう少し長く生きていてもらわねば」
哀憐と同情を誘い、
「……歌姫には申し訳ないが、利用させていただくとしようか」
握り締めた手を翳す。
「すべてはスハラのために」
再度仰ぎ見た星空は、狂おしいほど清冽だった。
◆ ◆ ◆
——あの子に会って話がしたい。
——陛下と直接お話がしたいの。
同日のほぼ同時刻。ジークのもとへ、
先に連絡してきたのは主だった。仮にも一国のトップが突然何の用かと首を傾げれば、思い詰めたような口調でこうのたまったのだ。そして半時間も経たないうちに、今度は妹からまったく同じ内容の連絡が入ったのである。
話したいというその理由も、詳細は不明だが、おそらく同じなのだろう。
自身を含め、三人が三人とも多忙を極める身。ひとくちに『会う』と言っても、『いつ、どこで、どのように』という基本的な事項でさえも、すぐには決められないのが現実だ。困ったと頭を悩ませながらも、どうにかこうにか調整することに成功した。
……というのが、一週間前の話。
この日、ジークは行政府にいた。とくにここで仕事があるわけではない。けれども、さきほどからずっとここにいる。どうしてこうなってしまったのか……そんな質問など、こうなってしまった以上、もはや愚問でしかない。
行政府の敷地内にある庭園。四季咲きの薔薇が咲き誇る美しいこの場所で、彼は時間を潰していた。そわそわしながら潰していた。彼の心がこんなふうに毛羽立つのは、主と妹絡みのときだけだ。
「……」
落ち着かない。とにかく落ち着かない。
建物の中で待っていると目立ちすぎるゆえ、なんとなく外に出てきたけれど、さきほどからずっと溜息が途切れずにいる。
本日の主なミッションは、誰にも見つからないように、ユリアをとある部屋まで連れて行くこと。これは、どうにか達成できた。あとは、頃合いを見計らって部屋まで迎えに行き、誰にも見つからないよう家まで送るだけだ。
会う場所に行政府を指定したのは、グランヴァルトだった。宮殿だと、邪魔の入る確率が高くなるのだそうで、どうしても避けたかったらしい。今頃、いつものようにこっそりと宮殿を抜け出し、こちらへと向かっているのだろう。
「……いや。いつもとは違うな」
いつもは、宮殿を抜け出すことに、どこか楽しみを味わっている節がある(さぼっているわけではけっしてないが、発想や言動が悪ガキのそれに近いため、そう思われてしまうのも仕方がない)。
しかし、おそらく今日は違う。間違っても楽しみを味わえるような心境ではないはずだ。連絡をしてきたときの彼は、かなり緊張していた。声だけで感取できてしまうほど。
この日ふたりがどんな話をするのか……想像はできるが、正直かなり複雑な気分ではある。このあとふたりがどうなるかも、だいたい予想はついている。
ふたりの選択が善か悪か、はっきり言って判断することはできないし、正解などわからない。国民として、公人として、幼なじみとして。最良の答えさえ、いまだ見出せずにいる。
ジークにとって、ふたりは大切な存在だ。大切な大切なふたりが幸せになってほしいと、もう二度と昔のように傷ついてほしくないと、心の底から願っている。
「信じるしか……ないんだろうな、私は」
今までも、これからも、自分にできることは信じること。ふたりがどんな選択をしたとしても、自分はこれまで同様、ふたりを信じて守りとおすしかないのだ。己の誇りとともに。
流れ込んできた風が、よりいっそう薔薇の香りを強くする。
不意に、一匹のトンボが眼前を横切り、小さく揺れる蕾にとまった。
羽を休める健気なその姿を見ていると、何かが変わるような……この国の未来が大きく動くような、そんな気がした。
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