Tonalities(1)
空っぽになったワードローブの中にあったのは、仄暗い虚無感だった。
セピア色の匂いが、鼻翼にそっと触れる。子どもの頃からずっと側にあったこの匂いも、そう遠くない将来、おそらく消えてなくなるのだろう。心の底から湧き上がる愛惜に、ぐっと歯を食いしばる。
アンジェラは、ワードローブの扉をそっと閉めると、その場をあとにした。
葬儀から約二ヶ月。父エドガーの遺品整理が、ようやく完了した。葬儀後すぐに、兄と妹の三人でほとんど片していたおかげで、仕上げはひとりでもじゅうぶんだった。兄と妹からは再三「申し訳ない」と連絡が入ったが、遠方に住み、働いているふたりを呼び寄せるのは、それこそ申し訳ない。
——兄妹の中で、姉さんが一番実家から遠ざかると思ってた。
妹のこの発言に苦笑を浮かべつつ、母シェリーの待つダイニングへと向かう。腕に引っ掛けるようにして持っているのは、丁寧に折り畳まれた紳士用のストール。これは、二年前にユリアがエドガーへ贈ったものである。
この家から父の形見として持ち帰るのは、これだけ。これだけで、じゅうぶんだ。
ダイニングには、すでに紅茶の用意が整ってあった。アンジェラの好きな焼き菓子も並んでいる。
「ご苦労様。まだ時間あるでしょう? 少し休憩していってちょうだい」
「ありがと」
母に促されるまま、アンジェラは椅子に腰を下ろした。芳しい茶葉の香りが、セピア色の匂いを上書きしていく。
「お父さんの看病もそうだけど、最後の最後まで、あなたひとりに負担かけちゃったわね」
「いいわよ。近いし、いくらでも都合つけられるから」
すまなそうに笑うシェリーに対し、アンジェラはからりと笑って答えた。
実家で何かが起これば、真っ先に自分が駆けつける。その覚悟と準備は、アンジェラ自身いつでもできていた。よって、父が闘病しているときから……否、それ以前から、負担に思ったことはない。
手を合わせ、紅茶をひと口啜れば、独特の渋みが喉の奥にとどまった。
「セオドアさんは? お仕事忙しいんでしょう? あなたがいてくれて私は助かったけど、彼にまで迷惑かけて申し訳ないわ」
溜息とともに紅茶を飲み込んだシェリー。少しやつれた顔に湛えた微笑には、どことなく切なさが滲んでいた。
ここ数ヶ月、娘に何度も実家との往復をさせてしまったせいで、娘の夫にまで負担をかけている。そう、シェリーは憂いているようだった。
「最近は、いつもより早く帰ってきてくれてるの。私がいない時は、ユリアとふたりでご飯作って食べたりしてるみたい。……迷惑なんかじゃないわ。それに、そんなこと思うような人じゃないって、お母さんも知ってるでしょ?」
しかし、母のこの憂いを、アンジェラははっきりと否定した。好物の焼き菓子に手を伸ばし、包装を指でぴっと開封する。ぱくりと頬張れば、上品な甘さが口内に広がった。
アンジェラには、夫との結婚を、目の前の母に反対されたという過去がある。今さらどうこう言うつもりはないが、たまに当時のことを思い出すと、こんなふうににべもない物言いになってしまうのだ。
「セオドアさんと結婚できて、あなたは本当に幸せなのね」
「すっごく幸せよ。……あの人以外の誰かと築く家庭なんて想像できないし、したくもないもの」
「そう。……そうね。ロナードやユリアを見ていると、あなたたち夫婦がどれだけ家族を大切にしてきたか、よくわかるわ」
今から三十余年前。娘の幸せを……それだけを願い、シェリーはセオドアとの結婚を反対した。セオドア自身に問題があったからではない。むしろ、これ以上ないほどの人格者であるということは、当時からわかっていた。だが、種族や家柄の差を、その壁を、越えることは不可能だと思い込んでいたのである。
深まる母娘の溝。互いに口をきくことなく、ぎすぎすした日々が続いた。そんな中、母娘が再び歩み寄るきっかけとなったのは、エドガーのこの言葉だった。
——アンジェラなら大丈夫だ。アンジェラを……ふたりを、信じよう。
エドガーに優しく諭され、以来シェリーは反対することを止めた。夫の言ったとおり、娘は大丈夫だった。もちろん順風満帆というわけではなかったけれど、声を大にして「幸せだ」と言えるほどに、誇らしい結婚生活を送ってきたのである。
「ロナードもユリアも立派に成長して……ユリアは、この夏のサミットで歌うことになったそうね」
「そうなのよ。陛下から直々に依頼があったんですって。あの子から直接聞いたの?」
「ええ。私のことを気遣って、わざわざ電話をかけてきてくれてね。その時に聞いたの。……嬉しいし、とても名誉なことだとは思うけど、なんだか遠くへ行っちゃうみたいで寂しいわね」
「……」
デビューしてから瞬く間にトップへと上りつめ、今や音楽界を牽引する存在となったユリア。二年前の建国記念祭を機に、世界で影響力のある著名人、そのひと握りの中に名を連ねるまでに至った。名実ともに帝国を代表する人物となったと言っても、過言ではないだろう。
シェリーの言うように、寂しさはある。けっして小さくはない寂しさ。そして、それに伴う不安も。
「音楽は、あの子が自分で掴み取った道だから。……信じて応援するしかないわ」
けれども、アンジェラは娘を信じると決めた。かつてエドガーが、自分に対してそうしてくれたように。……もちろん覚悟のうえだ。信じることは、簡単なようで、けっして簡単ではない。
新たに注がれた紅茶に、今度は角砂糖をひとつ落とし込む。スプーンで円を描けば、溶けた砂糖がくるりと廻った。
◆ ◆ ◆
「緊張してる?」
「少しだけ。ミトさんは?」
「しすぎて頭痛くなってきたわ……」
八人掛けの円卓にふたり。隣同士でぽそぽそと囁き合うのは、アフタヌーンドレスを纏い、正装したユリアとミトだ。選択した色調は、ユリアがネイビーで、ミトがパープルグレーという、実にシックなもの。どちらも、シンシアによってコーディネートされたものである。
現在ふたりがいるここは、イルレーシュ宮殿内にある会議の間。フロア全体を覆っている絨毯は、目の冴えるような青。ふたりが座っている椅子のクッションも、同様の青。それ以外は、眩いほどの黄金色だった。どこを向いても、現実世界とは到底思えぬほどの豪奢を極めている。
この日、揃って馳せ参じた目的は、皇帝グランヴァルトに謁見するため。サミットの件を承諾したユリアに、改めて直に依頼したいという、グランヴァルトの強い意向が働いたらしい。
謁見の間は『仰々しい』との配慮から、この会議の間が充てられたそうなのだが、ふたり(というよりもミト)にとっては似たり寄ったりであった。どちらにせよ、皇帝と会って話をすることに変わりはないのだ。場所はさほど問題ではない。
「でも、すごく気さくな方だから、そんなに構えなくても大丈夫だと思いますよ」
「……いやいや、皇帝だからね? いくら気さくな方だからって、皇帝だからね?」
弛んだ語調でこう述べたユリアに、ミトは内心よろめいた。痛む頭がくらくらする。
ミトは元スーパーモデル。大怪我を負い、引退するまで、何度も大舞台を経験してきた。そんな彼女が、これほどまで緊張しているというのに。
肝が据わっているというべきか、天真爛漫というべきか。やはり、『知将』を父に持ち、『白銀の鬼神』を幼馴染に持つ
ふたりがここへ通されてから、およそ半時間。従者に囲まれたグランヴァルトが、ようやくその姿を現した。
一歩踏み出すごとに、さらさらと流れる金糸。空気が凛と澄み渡る。
慌ててユリアとミトが起立しようとするも、グランヴァルトはその動作を片手で制止した。
「構わん。そのまま座っていてくれ。……突然呼び立てて申し訳ない」
ユリアとミトの向かい側まで移動すると、グランヴァルトは椅子に深く腰掛け、足を組んだ。そこに威圧的な印象はまったく感じられない。
グランヴァルトのすぐ後ろ。他の従者よりも半歩前に出たところには、内務大臣のオーエンが控えていた。
「お忙しいなか、ご足労いただき、誠にありがとうございます。陛下が、今回の件で是非、直接お会いしたいと仰られまして」
頭を下げ、慇懃な口調で説明したオーエンに、ユリアとミトが一礼する。ミトの緊張はピークに達しているらしかったが、さすがは元トップモデルの敏腕マネージャー。荒ぶる胸中を態度に表すことはいっさいなかった。
「俺自身、二年前の感動がいまだ忘れられずにいる。満場一致で快諾してくれたとのことだが、改めて依頼させてくれ。……今回のサミット、お前たちの力を是非とも貸してほしい」
グランヴァルトの眼差しが、真っ直ぐユリアに注がれる。鋭く射貫くような、柔らかく包み込むようなそれは、ユリアの心を熱くした。国を想う彼の気持ちが、ひしひしと伝わってくる。
これはユリアの想像だが、おそらく、今回の人選における一番の理由は、自分が『ヒト』であるということだろう。サミットの議題を考慮すれば、大いに納得できるし、しっくりくる。
だが、仮にそうだとしても構わない。『ヒト』である自分が歌うことに大きな意味があるのなら、喜んで引き受けたい。
「もったいないお言葉、恐悦至極にございます。謹んで、お受けいたします」
目の前の尊い彼の——太陽のような彼の——理想が少しでも早く実現できるのなら。
ユリアの力強い返答に、グランヴァルトは瞑目し「ありがとう」と静かに笑った。彼の表情には、心なしか、安堵の色が滲んでいた。
グランヴァルトとの謁見を終えたあと。
ユリアは、ひとり宮殿の玄関ロビーにいた。
数分前まで一緒だったミトは、打ち合わせの日程を内務大臣と調整するため、少しのあいだこの場を離れることになった。今回のサミットでは、イメージソングを一から作成すると決まったことで、ステージの構成等も含め、事前の打ち合わせが必要と判断されたのである。
ユリアの楽曲は、六割を自身で作詞・作曲し、あとの四割をアミルが担当している。アレンジに関しては、そのすべてをアミルがひとりで行っている。
アミルはユリアの音楽になくてはならない存在。ゆえに、もしかすると、打ち合わせにアミルも参加するという方向で話が進んでいるのかもしれない。
「……ミトさん、もう少し時間かかるかな」
煌びやかな空間にぽつりと落とされた独言。
かれこれ十分弱この場で待っているが、ミトが戻ってくる気配は一向にない。いろいろと綿密に調整しているのだろう。かたや有名アーティストマネージャー。かたや一国の大臣。たったいちにち、されどそのいちにちを合わせるのに困難を極めるだろうことは、容易に想像がつく。
「……」
ユリアは、おもむろに爪先の向きを変えると、とてとてと歩みを進めた。辿り着いた場所は、ロビーの隅。少しだけくぼんだ柱の陰、その壁に、身を潜めるようにして凭れかかる。
先ほどから、ロビーを行き来する人々(おもに官吏たち)の視線が痛い。当然と言うべきか。彼らは皆、ユリアのことを知っているようだった。職務中ゆえ、さすがに声をかけるまでには至らなかったが、それでも、歌姫の姿に驚き、なかには頬を朱く染める者もいた。
嫌な気分はしない。むしろ知名度という観点からは大変ありがたいことだ。けれど、なんだか居た堪れない気分に陥った。
移動するも落ち着かず、手荷物からごそごそと手帳を取り出したりなんかしてみる。直近の込み入ったスケジュールを、改めて自分の中で整理しようとした。
それが発端だった。
手帳のカバー、その内側に挟んであった一枚の写真を手に取る。今から七年前。歌手としてスタートしたその日に、父と一緒に撮ったものだ。
椅子に座った父に、後ろから抱きつくように腕を回し、満面の笑みを湛えるユリア。父もまた、笑っていた。撮影者は、母である。
幼い頃から、父と過ごす時間は少なかった。仕方のないことだと理解していても、寂しさを拭い去ることはできなかった。歌手になってからは、さらに父との時間は減ってしまったけれど、この写真を見るたびに「お父さんも頑張ってるんだから、わたしも頑張らなきゃ」と、自身を鼓舞してきたのだ。
大切な大切な、父との写真。
その一枚を、
「あっ……!」
なんと、あやまって落としてしまった。
ユリアの手からするりと滑り落ちた写真は、ひらりと空気に舞い、はらりと床の上に落ちた。……と思いきや、止まることなく、そのままドアの下から室内へと入り込んでしまったのである。
「……ど、どうしよう」
写真を追いかけるように、勢いよくその場にしゃがみ込む。おろおろしながら、室内の様子をこっそりとうかがった。電気もついていないし、話し声も聞こえない。どうやら、現在は使用されていないようだ。
顔面蒼白。だが、回収しないという選択肢はない。写真を見られるわけには……父との関係を不特定多数に知られるわけにはいかないのだ。父に迷惑をかけることだけは、なんとしても避けなければ。
自身の軽率さに辟易しながら、ユリアはゆっくりとドアに手をかけた。失礼と承知で、静かに開けて覗き込む。おそるおそる室内を確認すれば、暗いなかにぽつんと写真が落ちていた。
思わず漏れた安堵の溜息。一刻も早く回収しようと、写真のもとへ近づこうとした。
次の瞬間。
「!?」
突然、何者かにぐいっと腕を引っ張られた。
慣れないドレスに高いヒール。バランスを崩したユリアは、なす術なく床へと吸い寄せられた。引力に引かれるまま、
「……?」
しかし、次に控えているはずの、冷たく固い衝撃が来ない。それどころか、温かく柔らかいものに、上半身が包まれているのを感じたのだ。
ドアにできた指一本分の隙間。そこから差し込むわずかな光で視認したのは、
「陛——」
「シーッ!!」
右手でユリアの体を支え、左手でユリアの口を塞いだ、グランヴァルトの姿だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます