Tonalities(2)
ユリアの心臓は、今にも破裂しそうだった。
仄暗い室内で、皇帝に口元を押さえられるという謎のシチュエーション。しかも、不可抗力であるとはいえ、体まで密着してしまっているのだ。飛びのこうにも、彼が解放してくれなければ、身動きはおろか発言することさえできない。
「お前、今ひとりか?」
体勢を維持したまま、グランヴァルトにこう問いかけられた。
厳密に言えばひとりではないが、『今』はひとりのため、こくりと頷く。
「そうか。マネージャーはまだオーエンと話してるんだな。……悪いが、大きな声を出さないでくれるか? 見つかりたくないんだ」
体勢を維持したまま、今度はこうお願いされた。
何ゆえ彼がこんなところで隠れているのか。何から逃げているのか。はなはだ疑問ではあるが、大きな声を出さないでくれと言うのであれば、それに従うまでだ。
ユリアは、再度こくりと頷いた。
「サンキュ。助かる」
微笑を湛えて礼を言うと、グランヴァルトはようやくユリアの体を解放した。触れ合っていた部分から、徐々に熱が引いていく。
今月から新しい年次が始まったため、宮殿内のそこかしこで慌ただしい動きが見受けられた。しかし、奥まっているからか、この一角は実に閑寂としている。ロビーのほうから、話し声や物音がわずかに聞こえる程度だ。
「何をしにこの部屋へ?」
グランヴァルトからなされた至極当然の質問。これに、ユリアはぎくりと肩を強張らせた。背筋が引き攣り、凍りついていく。
本当のことを話すべきか否か……悩みに悩んだが、うまく誤魔化す方法が思いつかない。そもそも、皇帝に嘘を吐くなどという大それた言動など、ユリアにはできるはずもなかった。
息を呑み、ひと呼吸置いた後。
ユリアは、
「あやまって落とした写真が、ドアの隙間からこちらに入り込んでしまって……失礼を承知で取りに参りました。本当に、申し訳ございません」
「写真? ……ああ、あれか」
ふたりが座り込んだ場所から少し離れたところ。そこに放置されたままの写真を見つけたグランヴァルトが、「よっ」と腰を上げる。すたすたと写真のもとまで歩いていき、「そういうことなら気にすんな」と笑って拾い上げ——
「……!?」
——絶句した。
ユリアの決心は、なにも勝手に入室したことに対する謝罪だけではない。写真の中身が——父との親子関係が——露見することを見越してのものである。
グランヴァルトの表情が、見る見るうちに変わっていく。暗くても判別できるほどに見覚えのあり過ぎる男性が、ユリアと親しげに写っている。その事実に、驚きを隠せない様子だった。
そして、
「これはセオドア、だよな? もしかしてセオドアは……」
「……はい。セオドア・シュトラスは、わたしの父です」
ユリアはついに、父が父であるということを告白した。
瞠目するグランヴァルトを、真っ直ぐに見据える。経験したことのない質の緊張が、大きな波となって一気に押し寄せてきた。冷たい汗が、じわりと滲む。
同時に、ユリアの胸中では、一抹の不安が疼いていた。
仮に、元帥の娘が歌うということが、サミットに何かしら悪影響を及ぼすとするならば、自分は今回の仕事から外されてしまうのではないか、と。
どこにどのような不具合が生じ、利害関係が絡んでくるのか。法律や政治を勉強したことのない自分には、推測することさえできない。とにかく『不適当』だと判断されてしまえば、それを受け容れるしかないのだ。
アミルの顔が、みんなの顔が、脳裏に浮かぶ。震える両の手をきゅっと握り締め、グランヴァルトの次の反応を静かに待った。
「あー……マジか」
「……っ」
ユリアの予想どおり、グランヴァルトが驚きの次に見せた表情は、翳りだった。
膨れ上がる不安と言い知れぬ恐怖が、ユリアの胸中で混交する。いくら握り締めたところで、手の震えが収まることはなかった。
だが。
「大変、だったな」
グランヴァルトが口にした言葉は、ユリアが想像していたのとは異なる感情から生まれたものだった。思わず「え?」と短く聞き返す。
目を丸くしたユリアに、グランヴァルトは二の句を探りながらこう続けた。
「セオドアの娘ってことは、じいさん……にあたるんだよな? この前亡くなった……。家のほうは、もう落ち着いたのか?」
それは、慰藉の言葉。祖父を亡くした孫娘を、純粋にいたわる優しさから生まれたものだったのだ。
まさか皇帝から弔慰を呈されるなどとは夢にも思っていなかったため、ユリアは呑み込むまでに少々時間を要してしまった。はっとし、つい最近の両親とのやり取りを、そのまま正直に説明する。
「……あっ、はい。遺品の整理が終わって、母が家にいる時間も増えたので、父も仕事量を元に戻すと言っていました」
「えぇ……もう少しゆっくりすりゃいいのに。ってもまあ、年次変わって慌ただしいの目の当たりにすると、そうも言ってられないんだろうがな」
この説明に、グランヴァルトは腕組みをして眉を顰めた。けれども、セオドアの立場や性格を考慮し、不本意ながらも納得した。
シュトラス家の詳細な状況は不明だが、
「あ、あのっ」
「なんだ?」
と、ここでユリアが、グランヴァルトにずいと迫った。
本来、正式に申し入れなければ、こんなふうに会話をすることなど不可能な相手である。非公式でなど、もってのほか。不躾以外のなにものでもない。
それでも、わかっていても、止められなかった。聞かずに、いられなかった。
「あの、本当によろしいのでしょうか? わたしが、サミットで歌っても」
「……というと?」
「父の……元帥の娘であるわたしが、公の場に出て歌うことは、ガルディアの国益を損なうことに繋がりませんか? 父と違って浅学なので、その、うまく説明できず心苦しいのですが……」
憂慮が、まるで細胞のように心のなかで増殖する。口調は訥々としているが、これがユリアの率直な気持ちだった。
父の立場を尊重したい。仲間の信頼を裏切りたくない。歌いたい。歌えない。
だが、何よりも、この国の品位を落とすことだけは避けたかったのだ。歌手である前に、この国の民でいたかった。
よりいっそう苦渋の色を濃くしたユリア。そんな彼女に対し、グランヴァルトは、
「いやべつに」
顔色を変えることなく、あっさりけろっと言ってのけた。
ぽかんとするユリアに、さらにこう付け加える。
「なんか都合悪いなら、セオドアが直接言うはずだしな。……何も言われてないんだろ?」
「……は、い」
「なら、問題ない」
唇を綻ばせ、ふわりと笑う。そうして長い腕をすっと伸ばすと、持っていた写真をそっとユリアに手渡した。
「真面目な話、法律的にはなんの問題もない。……政治的には、まあ、『お前が俺を支持している』と対外的に映ってしまうかもしれんが——」
「……っ、それは願ってもないことです。異存など、まったくありませんっ」
写真を受け取った両手に力がこもる。大きくなりかけた声を抑え、ユリアは必死に訴えた。
これまで、父や
「……ありがとう。励みになる」
穏やかな空気のなかに散在する陽だまりの粒。
たった二回の引見とは思えないくらい、ふたりの空間は心地好いものだった。
間違いない。
彼は、この国の太陽だ——。
「ぅげ……っ!?」
突然、グランヴァルトが喉を絞られたように発声した。驚き見開いた目。その視線の先は、ドアの隙間から外へと伸びている。
不思議に思ったユリアが、グランヴァルトの視線を追いかけた。捉えたのは、幼い頃からよく知る人物だった。
「陛下が『見つかりたくない』相手って……サイファさんのことだったのですか?」
距離はかなり離れているが、はっきりと視認できる。手入れの行き届いた白く長い髭。その主は、宰相であり、祖父の友人でもある、サイファ・マラードだ。
「え? ……ああ、そうか。知り合いか」
ユリアとサイファの関係を即座に結びつけ、得心のいったグランヴァルトは、気鬱げに頷いた。どうしても会いたくないのだと、整った顔を顰める。
サイファは非常に優しい人物だ。他人の嫌がることは絶対にしないし、傷つけるようなこともいっさい言わない。彼の温厚さは、実際に交流のあるユリア自身、よくわかっている。
二人のあいだにどんな捻れがあるのか……詮索するつもりはないし、もとよりユリアにその権利はない。ただひとつできるとするならば、その捻れが少しでも早く解消するようにと祈ることだろう。
それよりも、今ユリアの頭のなかは、とある閃きに気負い立っていた。
「そろそろ逃げないと捕まるな。……悪い。俺は頃合いを見計らってここから出——」
「わたしが時間を稼ぐので、陛下はその隙にお逃げください」
「……え?」
愛らしい声でいったい何を言い出すのかと思えば、まさかの共謀宣言。
悪戯な笑みを浮かべたユリアに、グランヴァルトがほんの一瞬固まった。思いもよらない提案に、若干戸惑う。
「サイファさんを連れて、できるだけ玄関のほうへ向かいます。なので、わたしたちが見えなくなったら、別の場所へ移動してください」
肝が据わっているというべきか、天真爛漫というべきか。会話を交わしている人物やシチュエーションを考慮すると、けっして軽いとは言えないこの事態。それでも、ユリアの表情は、まるで壮大な冒険を控えた子どものように、生き生きとしていたのである。
「……恩に着る」
ユリアの言動、その雰囲気に感化されたのだろうか。グランヴァルトは、目を細めて謝意を伝えた。もしかすると、彼自身も、ユリアと同じような気持ちだったのかもしれない。
ユリアは、今日の出来事すべてに対してグランヴァルトに頭を下げると、室内をあとにした。ゆっくりとサイファのもとまで近づき、偶然を装い話しかける。そしてそのまま、玄関に向かって並んで歩いていった。
悪いことをしているという自覚はあった。けれど、彼と共有した秘密が、ひそかにユリアの心をわくわくさせたのだ。
歌姫と陽帝。この日、ふたりの関係は、鮮やかな色調で彩られた。
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