異世界転生ものについて考える。(作者編)

 現代社会に生きる読者の方々が疲れていることは、読者編で説明したが、では作者はなぜ異世界転生ものを量産し続けるのであろうか。


 まず間違いなく言えるのは、読んでもらえるからである。


 なぜ読んでもらえると断言できるのか。

 それは読者編でも語ったが、読者が異世界転生ものを求めていると言う事が、こんな末端のアマチュアweb小説家ですら知っている――それほどマーケットが完成済みだからなのである。マーケットが完成していると言う事は、独自にマーケティングをする必要がない。

 小説のみならず、ゲームであれなんであれ、商品を売り出すためにはマーケティングが必要だ。しかしマーケティングというもの自体はイコール創作活動ではない。

 創作家である以上、創作以外の工程は省けるなら省きたいわけである。


 く言う自分も「お母さんは魔王さまっ」といういかにも異世界転生しそうなタイトルの作品を執筆している。

 効果は覿面てきめんだ。

 個人的には全作品全力で書いているので「お母さんは魔王さまっ」だけが特別素晴らしいとは思っていない。2018年12月27日現在小学館ライトノベル大賞の一次選考通過中の「砂紡ぎの商人」や、公募に落ちまくってどこに送ったらいいか分からなくなった「半端者のダンス」も全部同じくらいの熱で執筆しているし、出来上がりは全て満足している(自己満)。

 しかしPVの伸びは全く違う。

 「砂紡ぎの商人」、「半端者のダンス」は300~500PVなのに対し、「お母さんは魔王さまっ」は1700PVと三~五倍以上。

 出だし1、2話は130~150PVを超えている。

 そしてどんどん減っていき、最終的には9人の人が読破。読破率15分の1という一流大学、一流企業もびっくりの倍率である。

 恐らく全然異世界転生しないことに苛立って離れて行ったのだろうが、こちらとしては間口を広げるためのタイトルだったので計画通りである。いやほんとごめんなさい。

 ともあれ、タイトルが或いはというだけで、ここまでPV数が伸びると言う事はお分かり頂けるだろう。



 当然アンチ異世界転生ものの読者もいるが、そういう人間はわざわざ異世界転生ものを見に行く事はない。そもそも嫌いなものに近寄るわけがない。

 幕の内弁当の中に入っている漬物(僕は漬物が嫌いです)じゃあない。選べるランチでわざわざ嫌いなものを頼む人間はいないのだ。

 だからアンチは湧かないし、湧かないから悠々と執筆に専念できるわけだ。

 勿論叩きたがりの人もいるので、ある程度作品が人々に知れ渡ると、状況も変わってくるとは思うが。


 上記の理由で異世界転生ものを書きやすい環境は整っている。

 では、ただそれだけの理由で果たして別に書きたいと思っていないものを書くという人がいるのだろうか。

 答えは簡単。

 作者は異世界転生ものをのである。


 なぜか。


 これを言うと僕へのヘイト値が高まり、敵を作りまくりかねないのだが、誤解を恐れず敢えて言おう。

 簡単だからである。


 今誤解した人もいると思うが、別に面白くないとは言っていないし、異世界転生ものを否定しているわけでもない。

 ただ、同じ作者として、物語を作るうえでの経験則を踏まえて「簡単だ」と感じたのだ。


 このを説明する為には、他の作品の難しさを語ることが一番だろう。


『現代ドラマ』の場合。

 今はお仕事ものと言うのが流行りだろうか。

 これはその仕事或いは舞台となるものに対して、相当数の知識が必要となる。何故なら舞台が現代である為、作者よりもその世界に造詣ぞうけいが深い人はごまんといるだろうからだ。

 よくドラマになったりする医療もの、法律もの、警察もの……どれを書くにも取材が不可欠で、ちょっとウィキペディアを見ただけでは書くのは無謀である。

 では、普通のサラリーマンを主人公にして、ごく一般的な会社を土台にストーリーを考えればいいのか。

 しかしこれが一番難しい。なぜなら設定をにしてしまうと、所謂いわゆる見せ場を作るのが難しい。するとそれは当然つまらない作品になってしまうわけだ。

 この手の作品で成功する作家は、ストーリー構成力、描写力、社会におけるテーマの有効性など、小説を書くに置いて必要不可欠な要素を完璧に備えていると言っても過言ではない。

 それほどにと言うのは難しい事なのだ。


『ローファンタジー』の場合。

 現代を舞台に置きながら、超能力、超科学が存在、発生する世界観。

 これだと先の現代ドラマで気掛かりだった見せ場を作り出すことも可能だろう。

 超能力、という言葉だけでワクワクするのは僕だけだろうか。

 超能力が存在すれば当然それを使ったバトルシーンなんかもあるはずだし、戦略、駆け引きといった類は、見せ場にもなり易いし、かつ作品の魅力に直結するだろう。

 それに、秘密結社的なものが出てくればそんな秘密結社に造詣が深い人などいるわけがないので(ここでは『ムー』読者を省かせて頂く)、自分より詳しい人に荒を探される心配もない。

 舞台が現代であるのはそのまま強みになる。なぜなら、そもそもの価値観や概念や思想理念と言った類のものが読者と作者でほぼ同じなので、作品に共感してもらいやすい。インフラ、公共機関は最初から備わっているのが当たり前だから、それを説明する手間も省ける。

 しかし舞台が現代であるというのは同時に難しさにもなってくる。

 実は作品の魅力でもある超能力や秘密結社が出てきたときにとても厄介なのである。

 例えば超能力によりビルが一戸破壊されたとする。

 その時に、現代で起こりうるあらゆる想定を考えなければいけない。

 まず警察はどう動くのか、政府はどう動くのか、損害賠償請求はどのタイミングで誰からくるのか。考えだしたらきりがない。

 そしてそこで作者の想像力が読者の想像力より劣るようなことがあれば、矛盾を追及され、作品は死ぬ。

 あなたも思ったことはないだろうか。事件が起きてるこの間、警察や政府は何をやっているのだろうか? と。


『ミステリ』の場合。

 論外。

 僕はトリックを思いついたことが一度もない。

 論外。


『ハイファンタジー』の場合。

 超能力どころか魔法もあるし、見たこともない生物がわんさか出る。見せ場山盛り特盛で、その上舞台は自分の想像上の世界なので矛盾を追及されることはない。

 たとえ科学的な目線、進化論的な目線で「こんな生物存在するはずがない」と指摘されても魔法やマナの所為にしてしまえばいい。

 「この国、なんでこんなに敵国に囲まれているのに強いの?」という地政学的疑問もガーディアンの所為にしてしまえばいい。

 しかしながら読者もそんなに心が広くない。いえ、いい意味で。

 こじつけや後付けのようなでは、作者が納得しても読者が納得しない事がある。多分に。

 それに、その世界における、倫理観、本能、既成概念などは、現代のそれはとは全く違うはずだ。

 それを描き、伝えると言う事は並みの労力ではない。

 また、情景描写も難しい所の一つだ。

 皆が見たことがない情景を描かなければいけない。動物一つとっても、現代のそれとは違うわけだし、作者の脳内で形成されたファンタジックなものを読者にどれほど伝えられるのか、という懸念は常にある。

 描写、という観点からもう一点加えるなら、いつも使っている描写が使えないという真実を知っておくべきだ。

 例えば「熊の様に大きな男が」という描写、これはその世界に熊が居ない限り使えない。なぜなら熊を見たことがない主人公がなぜ「熊」という言葉を知っているのかという矛盾が生まれるからだ。

 ハイファンタジーでも、現代で生まれ育った少年少女がワープしてしまうというパターンなら別段問題はないが。

 ともあれ、ハイファンタジーに求められる要素は多い。一から世界を作る労力、見たこともないものを伝えるだけの描写力、誰もが想像しえないものを考える類まれな創造力。

 ぶっちゃけて言うと、取材も何もなしで作れるのがファンタジーだが、設定の作りこみだけに製作期間の半分以上を費やすのもファンタジーだ。

 実際僕は12万文字の本文をおよそ20日程度で書き上げたが、設定の作り込みは3か月以上は掛かっているし、これでもまだ詰め切れていないと思っている。

 本文を書きだすまでに時間が掛かると言うのが、一番のネックかも知れない。


 さて、ジャンルは上記だけではないが、難しさを語りだしたらきりがないので、そろそろ本題の異世界転生ものについて語ろう。


『異世界転生もの』の場合。

 先のハイファンタジーの場合を思い返してほしい。

 最後に語った本文を書きだすまでの時間、つまり世界観や設定の作り込みだが、これはドラクエからパクってくれば問題ない。

 実際あの有名な異世界転生ものにもは出てくるし、漫画バージョンだとやっぱりし。初めて宇宙へ行って地球を見下ろした時と同じ感動が、そこには多分あるのだろうと思う。

 描写の懸念は、そもそも主人公は現代の人間なので、心配ない。ついでに見たこともない創造力溢れる風景などはないので、ドラクエっぽい世界観を前提に置いたうえで描写していけば、だいたい通じるから問題ない。

 あと、価値観や理念も全部現代風でいい。主人公が現代人であったという点もあるし、ドラクエの世界観的にも善悪の区別はこの現代と全く相違ないから。魔王は悪くて王は偉い。

 しかし、いくら何でもめちゃくちゃ作ってしまっては、矛盾が出て来やしないかと思うのだが、どんなに矛盾が出てきても全く問題ない。


 神様と会ってるから。


 そう。

 異世界転生もの、と銘打たれるものとファンタジーとの一番の違いは、死んだときに神様に会っているところである。

 何が起きても神様の所為にしておけばいいし、何より神より祝福されし主人公は無敵だし、前世が冴えなかったので不条理にモテても仕方ないのだ。充電は魔力で行えばいいし、電波も神様が何とかしてくれる。

 よって、

 やったー。

 

 因みにストーリー構成という迷路も、テンプレという魔法を使えば、道に迷わず進むことができる。


 もう一度言うが、異世界転生ものを馬鹿にしているわけでもないし、つまらないとも言ってない。実際書籍化されたりアニメ化されたりしているのだから、きっと高尚こうしょうで面白いに違いない。

 ただ、比較して頂ければ一目瞭然りょうぜんだが、簡単なのである。

 そして、簡単なことは悪い事では決してない。

 それに初めて読んだラノベが異世界転生ものなら『ラノベ=異世界転生もの』という人も少なからず居るだろう。


 あと、異世界転生ものと銘打ちながらも、きっちり世界観を一から作っており、さらには神様にも出会わずに転生するという作品もある。

 この目で見たから間違いない。

 なので、そういう作品はし、ここで語られている異世界転生ものではないので、間違えないようにして頂きたい。


 ではなぜ僕は異世界転生ものを書かないのか。

「簡単なら書けよ!」ともっともな事を言う人もいらっしゃることだろう。

 それでも書かない。なぜか。

 答えは単純明快で、からである。

 これは僕の勝手な我儘わがままだが、どうせ自分で作るなら借り物の世界で借り物のキャラクターを動かすのではなく、一から全部自分の手で創造したいのだ。

 人によって小説を書く理由は様々だが、僕は自分で思うよりもずっとずっと自己顕示欲が強いのだと思う。

「これが僕の作った世界だ! 人々だ! どうだ!」と心の底から叫びたいのであろう。

 若干引くし、中二臭さが痛いけれども、僕にとって創作とはそういうものなのだ。



 最後に。

 これは個人的な考察によるものなので、裏付けをするデータはない。

 後、何度も言うが、断じて『異世界転生もの』を否定しているわけではない。『異世界転生ものについて考える』というタイトル通り、考えてみただけなのだ。

 小説は純文学だろうがライトノベルだろうが、とどのつまり面白ければいい。それが全てだ。うだうだ講釈こうしゃく垂れても書いてる作品が面白くなければ意味はない。

 芸術だろうがエンタメだろうが、俗人に価値を委ねるしかないのだから。

 だから、こんな意見に左右されないで、自分の書きたい小説を書いて頂きたい。


 追伸。

 このあと異世界転生ものを書きました。詩一。


 追伸2。

 さらに考え方が変わった旨を本エッセイ内の別のお話で書かせて頂きました。

『変形と変質を恐れないこと』

https://kakuyomu.jp/works/1177354054887532285/episodes/1177354054922419802

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