読書感想文が悪者にされていることが多い昨今
考え方は人それぞれなので、「読書感想文が嫌いだ」と言う人の意見は否定しません。
ただし、それが正義だとか真実だとか日本の教育は間違っているだとか、周りを巻き込むデマゴーグとしての意見だと言うのなら話は別です。
僕は読書感想文が好きです。
基本的に書くのが好きなので、感想文のみならず小論文も好きです。「僕はこう思っている」という意見を誰にも邪魔されずに主張できるというのは素晴らしいことだと思います。会話形式だと声のデカいやつ、或いは人気者の意見が通って終わりなので、声が小さい不人気者の僕にとって作文と言うのは唯一の捌け口となるわけです。
僕が読みに行って感想を書いたりレビューを書いたりしているのを見たことがある人なら、こんなに何行も費やさなくても僕が感想を書くことが好きだと言うのはおわかりになられるかと思います。
しかし、僕は生まれたときからこういう性質だったわけではありません。寧ろ中学生までは自分が作文が得意だとは思っていませんでした。つまり、文章のセンスがあるとかないとか、そういう次元にすらいませんでした。
読書があまり得意ではなかった僕は、最後まで本を読み切ると言うのがなかなかできませんでした。小学生の頃は、途中まで読んで適当にそれっぽいことを書いてごまかしていました。つまり、このときまでは読書感想文が嫌いでした。しかし中学二年生のころ、課題図書として読んだ『きいちゃん』という本が当たりでした。
どんなふうに当たりかと言うと……30ページくらいしかない!!
びっくりしましたね。
「いやー、こんな楽しちゃっていいんですかー?」
って思いました。はい。
で、これならちゃんと読んで書けるんじゃねえかなと。
そしたら読めましたね。そんで書けましたね。結構出来の良いやつが。
そしてコンクール(規模はわかりません。県? 地区?)で特選を取り、全校集会で親御さんの注目を集めながら朗読しました。
たくさんの拍手を頂き、父は周りの親御さん方に褒められておりました。
そのときに思いましたよ。
「あれ? オレ、行けるんじゃね?」
「文章のセンス、あるんじゃね!!??」
と。
国語の先生はさらに私の才能を開花させるべく、「作文コンテストに出してみないか」と提案してきました。
まだイキってなかった素直な少年の僕は、言われるままにホイホイ作文を書きました。
そしたらまたなんか賞を獲りました。
優秀賞だったかな……? なんか、まあ、賞です。
「いよいよ認めざるを得ませんね。この僕から滲み出る文才と言うやつを。ええ」
内なる僕はどんどんウザくなっていきます。大丈夫ですか? ここまでついてこれてますか? なんだったら冒頭一文目でもう充分ウザかったよって思っている方はそろそろ吐き気を催しているころかと思われます。
続けます。
自分に文才があると確信した僕は、そこから文化祭の脚本を書きました。
内容は、陽キャと陰キャがぶつかって入れ替わり、陽キャは陰キャの苦労を知り、また陰キャは陽キャの苦労を知ることでお互いがお互いの苦労を認め合って最後は深い友情で結ばれると言うものでした。どこにでもあるテンプレみたいなものですが、脚本初心者にしてはよくやった方だと思います。
んで、めっちゃ褒められました。主に先生方。
文章を書くって楽しいなあって思いました。
それから三年生になって、高校入試のために小論文と言うものを学びました。入試が特殊で、まずは特色化選抜と言う自己推薦みたいなものをやって、次に特色化選抜で落ちた生徒が一般入試を受けると言うものでした。
特色化選抜の内容は、小論文と面接のみで、テストはありませんでした。ですから実際小論文がテストみたいなものです。
先生が教えてくれた内容は作文の基本だったので簡単に理解出来ました。
ようは、テーマに対する自分の意見の主張から始まり、それを否定する意見を敢えてだし、それをさらに覆して自分の意見をさらに確固たるものにすることが小論文ですべきことだと。
弁証法、三段論法、アウフヘーベンなどと言う言葉が当てはまると思います。
テーゼ⇒アンチテーゼ⇒ジンテーゼ
↑これを見たことがある人ならピンとくると思います。
当時はこういう言葉での理解はしていませんでしたが、なんとなく書き方はわかっていました。
何度か小論文の宿題をもらって提出しましたが、3つ目くらいからは指摘箇所ゼロで、丸だけが書かれているものが返ってくるようになりました。つまりパーフェクトということなのですが、本当に見てくれているのか不安になった僕は敢えて道徳に反したことを書きました。めちゃめちゃかまってちゃんですね。すると丸が書かれた原稿用紙とともに「小論文としては成立しているしこういう考え方もある……けれど、入試のときにはやめておいた方が良いよ」という言葉が返ってきました。良かった。ちゃんと読んでくれているんだと安心した僕は素直に「わかりました」と答え、それからは先生ウケする小論文ばかりを書き続けました。
そして高校入試当日に出されたテーマは「この世界が人口百人の村だったとしたら」という内容のものでした。
僕は情報処理科を選択していたので、「パソコンが使える人は何人」というところに注目して、そこから「今後そのままの人数であることの危険性」と「人数が増えることによる村へのメリット」を主軸に理論を展開し、最後には「パソコンを使える人が増えてほしい。だから私は情報処理科を選択しました」という文面で締めくくりました。
受かりました。
正直チョロいと思いました。大人が欲しがっている答えなんて手に取るようにわかる。その通りにちゃちゃっと書けば受かる。楽勝。もしも普通科を選択していたなら医者の数とかにフォーカスを当てて、自分含め家族がどれだけ医者に世話になったかなどを引き合いに出してあざとくない程度に良い人であることを主張すればいい。状況に応じて別の主張を作ることも簡単だ。と、そんな感じにウザさを増して行きました。
高校に入って現文で羅生門をやったとき、宿題で感想文がありました。3行くらいの感想だったのですが、これを先生が大絶賛。「他のクラスでも紹介していい?」「詩一君は中学生時代文芸部だったの?」と普段物静かな先生が目を輝かせて興奮気味に話しかけてきました。
「あー、心揺さぶっちゃいましたー? 滲み出ちゃってましたぁ? 能ある鷹は爪を隠しても爪がデカすぎて隠しきれてませんでしたかー。参ったなあ」
と、そんなウザいことは実際には言ってないですけど、それくらい浮かれていたとは思います。
そんな成功体験が重なって重なって重なって、そして『ブギーポップは笑わない』を読んで心打たれ、ラノベ作家を目指すようになりました。
このままこの才能を埋もれさせておくわけにはいかない。そう思ったわけですね。
——と、まあ一人大自慢大会はここまでで……
そのあと小説家になるってことはとんでもなく難しいことなんだと言うのを知り、挫折したり立ち上がったりして今に至ります。
それでも、あのときの
今の私の生きがいは小説を書くことですから、人生に潤いをもたらしたのは間違いなく読書感想文だと言ってよいでしょう。
この義務教育がなければ私の人生はもっともっと前に終わっていたかもしれません。
もちろん、「あれのせいで読書が嫌いになった」と言う意見もその通りだと思います。だって、実体験なんでしょうから。それに私も中学生までずーっと嫌いでしたしめんどくせーなーって思ってましたから。自分の過去を棚上げにして否定だけするなんてできません。でも、中学以降の僕の実体験もその通りなんです。この僕の人生は誰にも否定されたくない。読書感想文というコンテンツをただ悪者にする行為は、僕の人生の否定に繋がる行為なので、「そういうことを言いたいのではない」にしても「僕が不快に思う」ことは避けられないのです。
僕はこれを書いて読書感想文否定派の人たちと争おうとしているわけではありません。ただ、どっちでもない人とか嫌いではない人とかがこれを見てちょっとでもその有効性に気付き、あわよくば(僕の傲慢さは置いといて)好きな方に傾けばいいなと思います。それと、好きだと思っているけれど、昨今の読書感想文否定の流れで抑圧されている方の心が少しでも楽になってくれればと思います。
否定する人と争いたいのではなく、肯定する人と仲良くしたいのです。そして、仲良くしたからと言ってなにをするというわけではないのです。
僕がこういった旨の主張をSNSで言わないのも争いたくないからですし、同じことを思う人を巻き込みたくないからです。それを推し量っていただけたら幸いに思います。
どうかこのテキストが僕と同じ気持ちを持つ人にとって心落ち着く場所でありますように。
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