ep38. 知識の樹は覚悟を促す
夜明けとともに、アルバートとヴァンデはティル・ノグに到着した。
アルバートは、この四年間何度かティル・ノグを訪れたことがあった。腐ってもホーラノアの中心地である知識の都。普通の情報はもちろんのこと、魔力や魔法に関することもここが一番手に入る。アルバートの願いを叶えるにあたって、ティル・ノグが一番適した場所だったのだ。
だから、この沈黙の都の現状もある程度は知っていた。ヴァンデに事情を聞いたとはいえ、今思い出しても不自然なくらいの静寂と整然とした厳かさ。だが今、この街の沈黙は破られた。薄ら寒いほどの神聖な雰囲気に満たされていた白亜の街は見る影もなく、あるのは瓦礫と化した教会、まだ新しい血飛沫の痕、当たり前のように転がる誰かの死体と身元も分からない片方だけの腕や脚ばかりである。
あちこちから響く悲鳴や嗚咽、繰り返される天空塔とユルグ双方による虐殺の音に顔を顰めながら大通りを歩く。今やホーラノア大陸全土にまで広がった内戦は臨界点を迎え、開戦当初から激戦地だったティル・ノグに残っているのは死体ばかりだと思っていた。だが、辺りを見回すと瓦礫の陰や路地裏の隅にボロボロの服を着た人物や汗と灰塗れの子供が蹲っていることが分かる。誰もが一様に凍え、お腹を空かせてもの欲しそうな目でこちらを見ている。
今までアルバートは、彼らの物乞いを殆ど無視していた。全員を救うことはできない、そう言って助けようとしたアルバートを止めたのは魔物研究者の男だった。彼はアルバートが己の身体に生やした樹木の木の実を孤児に分け与えようとする腕を引き、厳しい口調で言った。
『責任もとれないのに、その場の情だけで他人を救おうとするな。いくら魔物のお前でも、全員を救うことはできない。力を使うところを見られたら、最悪欲深い奴に捕まって身動きとれなくなるぞ』
お前には叶えるべき望みがある。だったら、今はそれだけを考えろ。そう言われてから、アルバートは街を歩く時努めて他人の様子を見ないようになった。
それでも、瓦礫を漁って必死で何かを探す子供や、水も飲めず苦しむ親子を見つけ、何度か見かねて手を差し伸べたことがある。他人を助けたいというより、ほとんど自己満足な理由で。
(ただ、俺はミーシャならそうすると思っただけで)
アルバートは、誰よりも優しいアルテミシアが好きだった。銀ティルヤを助けたいと願い、ティル・ノグでは遠回りになるにも関わらずアガタに手を差し伸べ、何度も迷い悩みながらも他人を助けることを厭わない彼女だからこそ、自分の魔女で良かったと思った。
きっとアルテミシアなら、誰に何を言われたとしても苦しむ人々に手を差し伸べることを止めないと思った。だから、自分もそうありたいと願った。誰かを助けながら、考えていたことはそれだけだった。
それでも努めて無視するようになったのは、望みを叶えられず肝心のアルテミシアを取り戻せなくなることを恐れたためか。
(結局、俺もヴァンデとそう変わらない)
ウィステリアの魔女の家で、アルバートはヴァンデとティルテリアがアルテミシアを道具のように扱ったことを怒った。ひたすらティルテリアのことを賞賛し、彼女がアルテミシアに行った非道を当然のこととし、「約束」を果たし自分の望みを叶えることしか頭になかったヴァンデに激怒した。
だが、今のアルバートに彼との大きな違いがあるだろうか。
時折他人を助けるアルバートの今の行動を、ここにアルテミシアがいたなら「アルは優しいから」と言ってくれるかもしれない。だが、本当は違う。アルバートが誰かを助けるのは、そうしていたアルテミシアが好きだったから。彼女を取り戻せなくなるのならば、人助けなんてすぐに止めてしまう。男の言う責任も理解せず、中途半端に手を出す自分のどこが優しいものか。
結局、アルバートはアルテミシアのことしか考えていないのだ。彼女を取り戻すことができるならば、戦争の行方がどうなろうがそれで大勢の人が死のうがどうでもいいと思っている。そんな自分が、どうしてヴァンデを責めることができるというのだろう。
つらつらと考えている間も、着実に足は進んでいく。目指すは精霊の待つ地、以前アルテミシアとも訪れたティル・ノグの大図書館へ。
あの時はツァイトが案内役だったが、今はヴァンデが前を歩いている。アルバートよりもずっと大きな背中からは、今何を考えているのか少しも窺うことができない。時々左右に首を動かすのは、この街にいるはずのツァイトを探しているのだろうか。
(ツァイトは、本当にヴァンデと殺し合うのだろうか)
ドンディナンテの森で、ヴァンデとツァイトが対峙したことを思い出す。ツァイトはヴァンデを本気で殺そうとしていた。ヴァンデは……恐らく抵抗することなくそれを受け入れるだろう。彼はいつも己の
アルバートは、ヴァンデとツァイトの喧嘩に興味はない。だが、ヴァンデが死ぬのは許せないと思う。冗談ではない。あれだけアルバートとアルテミシアの人生を掻き回しておいてのうのうと死ぬなど有り得ない。彼が約束を果たすための道具として使い潰したアルテミシアが自由を得る姿を、せいぜい寂しく見ていたらいいと思う。
この時までアルバートは、一切迷いなくアルテミシアを取り戻すことしか考えていなかった。精霊に何を言われようと、彼女を復活させることができるならそれでいいと思っていた。
所々剥げ欠けた白い石畳が途切れ、目の前に白亜の巨大建造物が現れた。
「
無数の建物が蔓延るティル・ノグでも、大図書館は一際異彩を放っていた。しかし、その見果てぬ程に広い壁にはほとんど傷や汚れが見当たらない。大司教か、それとも精霊が何よりも第一に護っていたのだろうか。嘆きと絶望の喧騒に支配されたティル・ノグにおいて、大図書館だけが四年前と変わらない静謐さを維持している。
結局、ここまでの道中でツァイトの姿を見かけることはなかった。大図書館の門前に立った時、前を歩いていたヴァンデがアルバートの方へくるりと振り返った。
「俺はツァイトを探してけりをつけてくるから、お前はひとりで大図書館に入れ」
「えっ」
アルバートは思わず小さく声を上げた。この正面の扉はとにかく、奥の扉は魔法によって厳重に封じられている。その扉に行くまでも何人もの警備兵が巡回し、まともに歩くこともできないことを以前潜入した時身をもって経験していた。そんな状況で、ヴァンデがいないまま精霊のいる場所にいくことができるのだろうか。
訝しむアルバートに、ヴァンデは口角を上げて心配するなと笑った。
「大丈夫だ。精霊が呼んでいる以上、誰もお前を見つけることも止めることもできないはずだ」
それよりも覚悟を決めろと、ヴァンデが言う。
「恐らく、図書館の最奥で精霊が待っている。そこで、お前は選択を迫られるだろう。もしかしたら、お前が理不尽と思うようなことを言われるかもしれない。精霊っていうのはそういう存在だ」
精霊に与えられた宿命に淡々と従い、しかし精霊とその運命を誰よりも嫌う蒼い鳥が語る。
「だが、迷うことはない。全てお前が決めたらいい。精霊に何を言われようと、心に抱いた望みを忘れるな。もう誰かに自分を決められたくないと言うのなら、全ての道を自分で選択するんだ」
その言葉は、自由を願いながら全ての運命をとっくに決められてしまった魔物が、後輩が同じ轍を踏まないよう願う言葉。そうアルバートも感じることができたから、敢えて素っ気なく吐き捨てた。
「そんなこと、言われなくとも」
ヴァンデは僅かに瞠目し、すぐに笑みを深めて「そうだな」と言った。一瞬の沈黙の後、蒼翼の怪鳥に姿を変えて一陣の風と共にどこかへ飛び去っていく。
その姿を見送ったアルバートは、ティル・ノグに到着したばかりの時よりは幾分か落ち着いた心持ちで大図書館の扉に手をかけた。
――この先に、何が待ち受けていようとも。
ただ、願いを叶えるために。そう心の中で決意して、アルバートは白亜の巨大図書館に足を踏み入れた。
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