ep36. 世界に貴女がいないという不幸

 「アルテミシアとアルバートは、天空塔を壊すために作られた」。ヴァンデのその言葉に、アルバートは零れ落ちそうなほど大きく目を見開いた。震える声で呟く。


「それ、どういうことだ?」


 ヴァンデはアルバートをじっと見ている。目を逸らしたり、申し訳なさそうにしたりしない。それをしてはいけないことを、アルバートにどれほどの衝撃を与えることを告げたのかを分かっていて、受け入れるだけの覚悟を持って彼と対峙している。ヴァンデには、彼らに恨まれてもやらなければいけない理由があった。


「ティアが魔力を瘴気に変えてしまってすぐ、俺はホーラノアに帰った。今度こそ、ティアを殺すために」


 国を護り慈しむ魔女が国を冒す瘴気を生み出すなど、とても許されることではない。どんなにヴァンデがティルテリアを殺したくなくても、瘴気が発生したことを彼女が酷く後悔していたとしても、最早言い訳はひと言も許されなかった。


「もう、俺にはティアを殺すことしかできない。だが、帰ってすぐにあいつを殺す以外に、精霊は俺にもうひとつ選択肢を提示した」

「選択肢?」


 アルバートの問いかけに頷き、ヴァンデは低く厳かな声で告げた。


「天空塔の願いを叶えて、それからティアを殺すという選択だ」

「……?!」


 アルバートが小さく息を呑む。ヴァンデは苦々しげに唇を噛み締めて言った。


「あの頃、天空塔はティアの存在を求めていた。着々と力をつけ信者を増やしていた奴らは、ティアを旗頭に大陸統一に乗り出すつもりでいた」


 大陸を統一し、ひとつの国として繁栄させる。天空塔の野望は精霊の願いそのままだ。だから精霊はヴァンデに、ティルテリアを天空塔に差し出し彼らの野望を叶える手助けをするなら直ぐに殺さなくてもいいと言った。どのみち魔力の瘴気化という行為は許し難いから殺さなくてはいけないが、その命を奪う前にせめて魔女としての使命を果たさせてやったらどうだという嘲笑付きで。


「……だが、それは」


 アルバートが、訝しげな声を上げてヴァンデを見上げた。彼は苦笑して頷く。


「ああ、多分お前が思っている通りだ。俺は精霊を嫌っているが、同じくらい天空塔も滅びたらいいと思っている。協力なんて以ての外だ」


 ヴァンデはティルテリアを殺したくない。だが天空塔は全ての歯車が狂った原因であり、ティルテリアにとって大切な人を奪った仇なのだ。彼らに協力するくらいなら、せめて苦しまないように一息で全てを終わらせてやる。と、この時までは思っていた。


「だが、全てを伝えた俺にティアが言ったんだ。自分の願いを叶えて欲しいって」


 保護した僅かなティルヤ族が戯れる薄暗い地下室で、ヴァンデはティルテリアに全てを伝えた。精霊に言われたこと、己の葛藤。ティルテリアを殺したくない。それが、最初から決まっていた自分の宿命でも。それでも天空塔や精霊にこれ以上何もかも壊させるくらいなら、これ以上ティルテリアが傷つき壊されるくらいなら、せめて自分の手で彼女を殺して終わらせたい。そう願った。

 悲痛な面持ちで語るヴァンデの話を、ティルテリアは静かに聞いていた。声が止み、暫し沈黙の帳が下りる。じっと考え込んでいたティルテリアが、ふと「ごめんね」と呟いた。驚いて顔を上げたヴァンデの真夜中色ミッドナイトブルーの瞳を、彼女がじっと見上げている。その深緑の瞳から、透明な雫が一筋零れ落ちた。形の良い小さな唇をそっと開く。


『ずっと、考えていたの。瘴気だけじゃない。沢山の罪を犯した私に何ができるのか、どうすれば一番いいのかずっと考えていた』


 ティルテリアの視線が、ほんの一瞬下にそれる。歩き回る手のひらほどの大きさの少年少女達。ティルヤ族に愛しげな眼差しを向けた彼女は、すぐにヴァンデにしっかりと向き直った。


『お願い、ヴァンデ。どうか、私の願いを叶えて欲しいの。……私は、私の手で天空塔を壊したい』


 この世界に生を受けてから今まで、ヴァンデはあれほど美しい笑顔を見たことがない。

 涙を浮かべながらも、優しく強い意志を瞳に灯して微笑むティルテリア。重い覚悟と決意に震える華奢な身体を、ヴァンデは思わず抱き締めた。謝りたいのは自分の方だ。彼女を失いたくなくて、でも既にどうしようもなくて。ティルテリアが利用されるだけされて終わるくらいなら、今すぐ己の手でと思っていた。しかし、彼女はまだ考えていた。自分の身を犠牲にしてでも、一部の欲によって沢山のものを奪うことでできた偽りの強者に最期まで足掻こうとしていた。その、何と見事なことか。

 ヴァンデはティルテリアを抱き締めたまま、何度も頷いた。そっと身を離し、いつものようににやりと口角を上げる。それが彼女の望みだというのならば、返すべき応えはひとつだけ。


『ああ、約束しよう。天空塔は必ず壊す。俺が、お前の望みを叶えてやる』


 そして、約束は交わされた。――と、同時にヴァンデがひとつの決意をしたことは、この時は彼しか知らない。


「それからティアは、苦艾ニガヨモギの枝にありったけの魔力を込めてアルテミシアを作った。それから生まれたばかりの彼女に合歓の木の種が入った小瓶を渡して、お前を作るように言ったんだ」


 空を眺めることもままならない時代に森林クジラを作ることに、アルテミシアはひとつも疑問の声を上げなかった。ただ言われるままに「魔女の塔」に閉じこもり、小さな種に魔法をかけ続けた。その献身のおかげか膨大な魔力のためか、数日と経たずして合歓の木の種は大きなクジラに姿を変えた。

 ティルテリアは、地下室で窮屈そうにしながらもアルテミシアに寄り添う森林クジラアルバートを別空間に飛ばした。それからアルテミシアに最後の仕掛けを施して、地下室で匿っていたティルヤ族をひとり残らず殺した。


「?! 何故、ティルヤ族を?」


 ヴァンデの話を聞きながら自分の誕生やアルテミシアに召喚されるまでいた白い空間について考えていたアルバートは、思わずぎょっとした声を上げて語りに疑問を挟んだ。

 対するヴァンデは、僅かに視線を落として呟く。


「ティアが決めたんだ。天空塔に利用されるティルヤ族を、アルテミシアで最後にするために」


 伏せた真夜中色ミッドナイトブルーの瞳にやるせない光が浮かんだのは、ティルテリアが誰よりもティルヤ族を大切に想っていたことを知っているから。それでも皆殺しにしたのは、悲劇の繰り返しを阻止するという決意の現れだ。


「ティアは、もうこの家に戻るつもりがなかった。全て終わったら、俺が殺すことが決まっていたからだ。俺もずっとホーラノアにはいられない。守る者のいなくなったこの家が天空塔の奴らからどういう扱いを受けるのか、想像するのはそれほど難しくなかった」


 ティルヤ族という種族を絶やしたとしても悲劇を終わらしたかったみたいなことを、ヴァンデは滔々と語り続けた。話しながら、その時のティルテリアに思いを馳せる彼は気づかない。疑問を呈したアルバートが、何一つとして反応を返さず黙り込んでいることに。その深緑の瞳が、いつになく冷え切っている理由わけに。

 何も気づかないまま、ヴァンデの話は天空塔を壊す計画の詳細に戻る。


「準備を全て終えたティアは、アルテミシアを連れて自ら天空塔を訪れた。今や大司教と名乗るようになった賢者達は歓喜し、精霊も俺が天空塔を助けることを選んだとみなした」

 これから築いた地位があっけなく崩壊するなんて、夢にも思わずに。


 ヴァンデは思い出し笑いをしているのか、口元を僅かに歪めた。いっそ狂気的ともいえるその表情は、目的を果たしてもなお消えない彼の怒りそのもの。

 ティルテリアとヴァンデの計画は、最高のティルヤ族であるアルテミシアを使って天空塔を内部から破壊するというもの。賢者達の天空塔を飛ばしたいという野望。失敗続きの「偽りの女神の夢」に、その基礎がティルテリアと親しくしていた時の賢者ルドウィン・ディア・オズワルドが遺した技術を用いられていること。ヴァンデが事前に入手した情報は、計画が成功する可能性が十分にあることを示していた。


「だが、それだけではいけなかった。天空塔は最早賢者だけの組織ではない。塔を破壊しても、また別の誰かが同じことを始める。だから精霊の望み通り大陸を統一させ、組織を集中させてから全て壊す。そう俺が提案し、ティアも賛同した」


『この子にも、少しでも「この子」であって欲しいし』


 憤怒と憎悪に燃えるヴァンデには、優しい声で囁いたティルテリアの言葉の意味は分からなかったけれど。


「天空塔に統一と崩壊の間の束の間の猶予を与えるために、ティアはアルテミシアに二つの魔法をかけた」


 ひとつは、頃合いを見計らって「偽りの女神の夢」からアルテミシアが逃げ出すための魔法。もうひとつは、再び彼女が装置に入れられた時に天空塔を堕とすための魔法。

 天空塔に入れられてしまったら最後、ティルテリアは賢者達の言いなりになってしまう。そうできる人を、ヴァンデも知っていた。だから魔法は全てアルテミシアに託すのだという彼女の言い分は理解できるし、あの時も頷いた。だが、説明している今になって違和感が付きまとう。何故か感じる、遠回りの感覚。両手で大切そうにアルテミシアを抱いていたティルテリアが、ヴァンデに隠していることがまだあったのではないかと。

 その違和感は、聞いているアルバートもまた感じていた。だが、口に出すことはしなかった。彼は煮えたぎる激情を抑えることに必死で、それどころではなかったのである。

 両者の間に妙な空気が流れた。そのまま、ヴァンデの話はついに計画の最終局面に行き着く。


「ティアは予想通りアレグラスに魔法をかけられたが、無事奴らに『偽りの女神の夢』とアルテミシアを使わせることに成功した。……後は、お前も知っている通りだ。無事計画は成功し、天空塔は堕ちた。多くの技術を乗せたまま、ホーラノアで一番でっかい工場を巻き込んで」


 天空塔と同時に、その技術力の粋を集めた工場を破壊したのだ。いくら賢者達が運良く生き残ったところで、そう簡単に復活されては堪らない。ティルテリアの願いは叶ったと言っていいだろう。だからヴァンデはティルテリアを殺したのだ。天空塔の存在しないホーラノアを、次の魔女に引き継ぐために。それが、彼女の望みだったから。


「俺はこの地下室で、ティアの願いを叶えることを誓った。計画に協力し、全てが終わったらティアを殺す。それが、俺達が交わした約束だった」


 四年前、事あるごとにヴァンデが繰り返し言った「約束」という言葉。このためにヴァンデはずっとホーラノアで動いてきたのだ。長い時を待ち、アルテミシアとアルバートを天空塔に導き、ついに約束は果たされた。



 淡々と語っていたヴァンデの声が、一段と熱を帯びる。


「俺の敵は天空塔だけじゃない。精霊を、それにこのホーラノアの民全てを俺は許さない。ティアは、魔女の使命を果たすためにずっと努力していた。ティルヤ族だってその一環だ。あいつは賞賛の裏で、いつも血の滲むような努力をしてきたんだ」


 ヴァンデは知っている。誰よりも彼女が優しいことを。自己満足の研究にうつつを抜かした母親と違い――否、その母の存在があったからこそ、人々のためにとずっと考えていたことを。


「その恩恵を受けていた奴らが、情勢が変わった途端手のひらを返したように冷たくなった。魔力の瘴気化が起きた時なんか、ティアいなくなれば何もかも解決するみたいな考えまで広まり始めた。この大陸は、ティアがいたからこそここまで発展してきたというのに」


 誰もがティルテリアを否定する。それでも、彼女は己を犠牲にしてでもホーラノアの人々のために天空塔を壊したいと考えた。

 だから、ヴァンデは願ったのだ。自分はティルテリアを殺すことしかできない。彼の存在は、彼女を否定することしかできない。それでも、ティルテリアの存在がホーラノアにとって意義のあるものだったと。


「天空塔が堕ち、大陸は混乱に陥った。塔を恨んでいるのは俺達だけじゃない。戦争が起きることは必然。そこで生まれた恨みと苦しみが、ティアが死んでなお魔力の瘴気化を加速させる。当たり前だろう? 魔力が瘴気となったのは、ティアだけのせいじゃない」


 語りながら、真夜中色ミッドナイトブルーの瞳が爛々と輝く。そこに映るのは、抑えきれない怒気と溢れようとする高揚。


「魔力が歪んだのは、ホーラノアが歪んでいるからだ。遅かれ早かれ堕ちていたはずのものを、ティアが必死で守ってきたのに過ぎない。それが今、世界に示されている。この世界にティアがいないということがどれほどの不幸なのか、今まさに証明されているんだ!」


 最後は叫ぶように言い放ち、ヴァンデは狂ったように笑った。宿命に抗い、一国を混乱に陥れてでもティルテリアがここに生きていたことの意味を証明しようとした。これこそが、今の今まで抱え続けたヴァンデの悲願だったのだろう。

 だが、笑い続けるヴァンデを冷めた目で見ていたアルバートは抑えきれない怒気を孕んだ声で言った。


、ミーシャは死んだのか」

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