ep33. 幸福の崩壊

 物語の舞台は再び、アルバートとヴァンデが話すウィステリアに移動する。

 「賢者とは何か?」というアルバートの問いに、かつてこの地にあったウィステリア王国とその頂点にいた七人の魔法使いについて淡々と語ったヴァンデは、溜息のような声で続けて話した。


「その頃、ウィステリア内でも大きく二つの勢力の対立が活発化していた。王家を中心とし近隣諸国との交流を活発化させようとする勢力と、他国を侵略し魔法をウィステリア内だけで独占することで国を護ろうとする、六人の賢者を中心とした勢力だ」


 対立の根本的な原因は、やはりティルテリアが森林クジラを大陸全土に放ち、ティルヤ族達が近隣諸国を救ったことにあった。徐々に力を増し、伝統と魔法によって独自の特色すら現れた国々に、ウィステリアは危機感を覚えたのだ。

 和平政策を推し進めようとする王家に反発した賢者は、ティル・ノグを拠点に何とかウィステリア一強時代を取り戻そうとした。


「ティル・ノグを?」


 ここで、アルバートが疑問の声を上げた。ティル・ノグは元々ウィステリアの近隣諸国のひとつ。しかも、天空塔が大陸統一を果たす前は他の諸外国と覇権を争った強国のひとつではなかったか。

 大陸の者であれば当然出るだろうその指摘に、しかしヴァンデは緩く首を振った。


「ティル・ノグはその時既に国としては崩壊している。賢者が隠蔽していただけで、実際には最早奴らによって乗っ取られた国だったんだ」


 強国だと偽られていた、国に在らざる場所。にわかには信じ難い事実だったが、アルバートには思い当たる節があった。

 例えば、初めてティル・ノグを訪れた時に感じた、異様なまでの静寂。かつて大陸一、二を争った大国とは思えない圧倒的な白さ。そう、あの街は綺麗過ぎるのだ。かつてアルテミシアと語ったように、教会を除く生活感を感じさせる建物がない。道を歩いても人々の暮らしを感じさせるものは殆どない。、そんな不自然さがあるのだ。

 流石に、本当に一度消したのだとは思わない。しかし、ティル・ノグが国では無かったと言われたらそれはそれで納得できるのだった。

 ヴァンデも、アルバートがある程度理解したことを察したのだろう。僅かに視線を向け、再び話を大司教に戻した。


「賢者達は手当り次第に森林クジラを捕獲してティルヤ族を手中に収めたが、いかんせん数が多かったから効率良くとはいかなかった。ティルヤ族が勝手に増えていった分もあるだろうけど……全く、ティアもどれだけ沢山作ったのやら」

 

 それまで、固い表情で話していたヴァンデの目元が僅かに緩んだ。呆れたような、それでいて愛おしむような切なげな微笑。それだけでアルバートは、彼がティルテリアをどれほど想っていたのかを感じた。結果的に悪いことになっても、ティルヤ族とホーラノアの人々を心底愛したティルテリアをとても大切に思っていたのだと分かってしまうような表情だったのだ。

 きっとその時、ヴァンデはティルテリアをきつく叱ったのだろう。どうして国の外に目を向けたのかと怒り、心無い言葉も沢山言ったのかもしれない。けれど彼は心の底では、まだ見ぬ人を思って行動を決断した彼女だからこそ愛しく思っていたのだ。たとえそれが、彼の立場上決して認められないことだとしても。

 ヴァンデが追想にふけっていたのは、ほんの僅かな時間だけだった。すぐに表情を戻すと、固い声で話を続ける。


「試行錯誤を繰り返していた賢者達に近づいたのは、同じく状況を打開しようとしていた精霊だった」


 精霊の話をする時、ヴァンデは一際嫌そうな顔になる。眉根を寄せ、口をへの字に曲げながら、彼は憎々しげに吐き捨てた。


「奴らは以前から賢者が作った図書館に興味を持っていた。常日頃からその動向を密かに見守っていたみたいだが、目的が同じと知って加担することにしたらしい」


 図書館というのは、ティル・ノグの象徴ともいえる巨大図書館のことだろう。以前、あの森のような図書館で出会った精霊が語った内容ははっきりとは分からない。それでも彼らが歓喜し興味を抱いていたことはあの場所を満たしていた魔力から感じられた。それと、何故か僅かに郷愁めいたものも。ティル・ノグを知識の都たらしめている図書館までもが賢者達の建造物というのは驚きだが、確かに魔法や天空塔に関する書籍が多く収蔵されていた。

 賢者達と精霊に共通する目的というのは、もちろん魔法をウィステリアだけの技術にするというものだ。ウィステリア一国による大陸の統一を推進する精霊にとって、ティルテリアの所業はまさしく激怒すべきものだった。本当はすぐにでもヴァンデに魔女を殺させるつもりだったようだが、賢者達の行動を見て方針を変更することにしたらしい。ヴァンデ曰く「最小限の干渉で済むのなら、精霊にとってその方が都合がいい」ということらしい。


「加担つっても、奴らは自分達で何か行動を起こすことができるわけじゃないから助言だけだけどな。……とにかくそのせいで賢者の行動は活気づき、ティルヤ族と森林クジラは瞬く間に大陸から姿を消してしまった」


 例えば森林クジラがいる場所をそっと精霊が囁くだけで、賢者が捕獲する効率はぐっと上がるだろう。そうして、一時期は大陸のどこにでも現れ国と人々を救っていたティルヤ族と森林クジラは、「伝説」と言われるほど珍しいものになってしまったのだった。

 当然、捕まったティルヤ族の待遇も想像に難くない。ヴァンデは真夜中色ミッドナイトブルーの瞳に激しい怒りを宿らせ、賢者達の所業を語る。


「捕獲されたティルヤ族は、全て賢者の非人道的な実験の材料に使われた。当然のことではあるが、奴らはティルヤ族を生物とも考えていない。ある者は身体をバラバラに解体され、ある者は大規模な魔法のエネルギー源として消費され、全ての者が苦痛のうちに仮初の小さな命を散らしていった」


 ヴァンデの話を聞きながら、アルバートは深緑の瞳を伏せてかつて確かに存在した自分やアルテミシアの兄弟姉妹を想った。他人の都合によって人形のように使い捨てられ、たった一年の命すら全うすることなく壊れていったティルヤ族達。過去から現在いまに至るまで誰かに搾取されることが彼らの宿命だったとしても、自分達だけはその運命の軛から逃れることを誓った。

 儚い命の消滅は、ティルヤ族と森林クジラだけの悲劇ではない。更なる絶望をホーラノアにもたらした。全ては、魔力が中心にあるが故に。


「賢者の奴がどう考えていようとも、ティルヤ族には心がある。アルバート、お前なら分かるだろう? 魔力によって生み出された心だ」


 アルバートは深く頷いた。森林クジラの頃からアルバートを作っているのは、アルテミシアが込めた魔力によって生み出された心だ。彼女の願いによって与えられ、今は自分だけのものだと確信している。この心があるからこそ、彼は今まで歩いていくことができた。

 アルテミシアは、どこにも感情を見出すことのできない銀ティルヤにも心を感じた。個性と意思を得て、種族の誇りと存続の価値をも知ったティルヤ族が心を持っていないはずがない。

 ヴァンデもまた、ティルヤ族が持つ心を肯定した。しかし同時に彼は、その全てがティルテリアに繋がっているのだと語った。


「魔力は心。それがどんなに形を変えたとしても、ティルヤ族の心は魔力を通してティアと繋がっている。ましてやあいつは、ティルヤ族のことを自分の子供のように大切に思っていたんだ。そんな彼らの絶えることのない苦痛は、少しずつティアを侵していった」


 毎日のように続く、ティルヤ族の絶望と怨嗟の声。遠く離れたティル・ノグで響いているはずの悲鳴は、しかし距離も時間も越えて確実にティルテリアがいるウィステリアまで届く。今まで庇護と賞賛しか受けてこなかった彼女の心は、日に日にその力を強める暗い絶望に押しつぶされて今にも壊れてしまいそうだった。


「それでも、周囲の人に支えられることでティアは何とか自分を保っていたんだ。――だがある日、彼女の心が完全に崩壊する決定的な事件が起きてしまった」

「っ!」


 アルバートが小さく息を呑む。ヴァンデは僅かに唇を噛み、酷い後悔に顔を歪めて絞り出すように言った。


「それは、ツァイトの父であり他の賢者に最後まで反対し続けた時の賢者ルドウィン・ディア・オズワルドの死。ティアの養父であり師でもあった人物がティル・ノグで捕まり、殺害された時のことだった」


 ルドウィンの死を知り、息子であるツァイトは怒りのままにティル・ノグに向かって駆けていった。ヴァンデはその時ホーラノアにいない。独り残されたティルテリアの心が崩壊するのは必然といえるだろう。

 そして彼女の生み出した極大の絶望はホーラノア中のティルヤ族の絶望をも巻き込み、やがて大陸全土を覆う魔力の瘴気が発生したのだった。

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