ep32. 己の闇を暴け
ティル・ノグにある教会のひとつ。その地下室で、ドサッと何か重たいものが落ちる大きな音が響いた。
抱えていた本が手から滑り落ちたことにも気づかないで、ツァイトは震える声で呟いた。
「これは、どういうことですか……」
低い呟きには困惑の響き。当然の反応だろう。彼にはとても信じられないことが、認めるわけにはいかないことがその本には書かれていたのだから。
その時ツァイトが読んでいたのは、最初に手に取った手記の半ばに当たる部分だった。古く難解な言い回しで著された神と天空塔を称える文章を半目で流すように読み進めていた彼は、ようやく移り変わった話題に安堵すると同時に、羅列された名前を見て思わず目を見開いた。
新章に記されていたのは、かつて天空塔の成立に貢献し、後にその最高位にまで上り詰めた現大司教の名鑑と経歴。そこに書かれた全ての人物が、かつてウィステリアが王国だった時代、賢者の地位についていた者達だったのだ。
ウィステリア王国の賢者といえば、魔法における知識と技術がそのまま地位に直結するかの国において、最高位の魔法使いであると国と王に認められた者だけに与えられる称号。それぞれ他者にはない抜きん出た能力を持ち、同時に並々ならぬ努力と研鑽を積んだ者七人だけが名乗ることを許された名誉の証のはずだった。
かつて、今は亡き父が賢者の地位にあると知った時、幼いツァイトの心は誇りに満たされた。いつか必ず父の魔法を超え、賢者の称号を得てみせると宣言したものである。そんな息子に、父は魔法の手ほどきをしながら繰り返し語ったものだった。
『己の魔法が何のためにあるのか、どう使うべきなのかを常に考えなさい。魔力は世界の全てを巡るもの。その一部を借りて魔法を使う私達も、世界の一部であることを知りなさい。世界がより良くなるように考え、自分より他者への優しさと強さを理解した者こそ賢者と名乗る資格を得るのです』
ツァイトはその言葉に感銘を抱き、自分よりも国のために身を粉にして働く父に敬意を抱いた。己もそうありたいと願ってティルテリアを護る責を果たしながら魔法の研究に打ち込み、父と共に働く賢者も同じ考えだろうと当然のように思っていた。
しかし、父以外の賢者は現在故郷の仇である天空塔の大司教であるという。何故、ウィステリアの栄誉たる賢者の称号を持つ者達がそんな唾棄すべき組織に協力しているのだろうか。
――いや、それは多分少し違うでしょう。
己の考えに小さく首を振ったツァイトは、怯えるように少し身体を震わせると僅かに唇を噛んで俯いた。
本当は彼も、とっくに真実にたどり着いていた。あまりにも非現実的であり、自分の心情的にも認めたくなかっただけで、もうこの事実しか有り得ないと分かっていた。
この本に載っている人物は天空塔の最高位である大司教まで上り詰めた者達であり、かつて天空塔の成立に関与した功労者。つまり彼らは天空塔に協力していたのではなく、彼らこそが天空塔を作って父やティルテリア、その他多くの人々を苦しめてきたのだ。
振り返れば、思い当たる節はいくつもあった。天空塔を浮上させるための機構や銀ティルヤに用いられているのは、ウィステリア外にはまだあまり広く認識されていないはずの高度な魔法技術。魔力と魔法を讃える天空塔の方針。教会を訪れる前、侍女を虐げていた神官の発言。
『その魔法は何だ?! 何故、たかが時の魔法でそんな騎士に勝る戦闘力を得られる……?! あのオズワルド様とて、他人と争うような魔法はお嫌いだと仰っていたのに……』
あの言葉は、まさしく彼が賢者としての父を知っていたことの、彼ら天空塔の高位にいる者達がかつてのウィステリアに関わっていたことの証明だったのだ。
はっきりと理解してなお、ツァイトは事実を認めることを拒んだ。何年経とうと忘れられない思い出が胸を焦がす故郷。かの国は理不尽に滅び、だからこそ仇である天空塔に憎悪を向けることで今まで生きてきた。それが、今更間違いだったなどと。仇は愛すべき故郷にあったなどと認めることができようか。
(天空塔は故郷を滅ぼした、ティルテリア様を奪った憎むべき仇で……。そうでないと、俺は今まで何の為に……)
膝からがくりと力が抜け、ツァイトはよろよろとその場にしゃがみ込んだ。顔を上げることができず、伏せた視界の端に先程手から滑り落ちた書物が見えた。
書物は、落下した拍子に開く頁を変えたようだった。名鑑のさらに先に著されていたのは、殴り書きのような大司教の私記の数々である。
いったい、誰がこのような文書を纏めたというのだろう。日付もバラバラな議事録、魔法やアティリア研究の公的なレポートから個人的なメモまで、とにかく天空塔と大司教達が行っていた研究に関する情報を徹底的に集めているように見える。ツァイトはその、前半の目眩がする程壮麗で形式ばった文章と後半の雑然とした様子のギャップに違和感を覚えた。
しかし、苦労してひとつひとつの文章を読み進めていくうちに、次第に違和感は薄くなっていった。この文書を纏めた者を含め、大司教達はただ魔法の深淵を知りたかっただけなのだ。天空塔を建設して飛ばすといった欲求の根源も、ホーラノアを支配するという目的より先に自分達の技術の限界を知りたいという望みがあったことを文書の端々から窺うことができる。
魔法使いというのは元来そういうものだ。己の欲望のままに、ひたすら知識の泉の底を、自分の魔法の限界を探り続ける。そうして人一倍魔法を極めた者が賢者と呼ばれ、多くの魔法使いの好奇心の副産物が結果的にウィステリアをより強くしてきたのに過ぎない。
父はツァイトに、より他者のことを考えて魔法を使うように語った。ツァイトは父を敬愛し、その教えも常に自身に言い聞かせている。だが彼は同時に魔法使いだ。より高みを、魔法という知識の全てを知りたいという
文書はさらに、大司教達のもうひとつの欲望を浮き彫りにした。自分達だけが魔法を支配したい。その技術と恩恵を独占したいという望みだ。
彼らはウィステリアだけで魔法の恩恵を独占したいと考えた。魔法は古くから他国は知らないウィステリアだけの技術で、その利権は当然自国にあるというのが彼らの考えだった。
しかし、ウィステリア最高の魔法使いと謳われたティルテリアは、かつて他国を憂い森林クジラに乗せてティルヤ族を大陸中に送った。
ツァイトは彼女の行動を心から賞賛した。流石はティルテリア様と思った。しかし、大司教達は違ったのだ。
他国が魔法を理解し力をつける前に大陸を支配するという考えは確かに傲慢かもしれない。その支配のやり方にツァイトは今も憤りを感じるし、ティルテリアを捕え道具のように利用したことは決して許せるものではない。
しかし、彼の冷静かつ優秀な部分は考えてしまう。その独占欲と傲慢さは自分も持っているのではないかと。
そう、ツァイトはずっとティルテリアを想っていた。敬愛し支えていきたいと願う彼の心。その裏側には、確かに彼女を自分だけのものにしたいという醜い独占欲があったのだ。
生涯の主と誓う時いつも片隅にあった支配欲。彼女の為に何もかも捨てる覚悟は依存と隣り合わせであり、常にヴァンデに敵対心を向けていたのは、ティルテリアを自分のものと考えて彼に嫉妬していたからに他ならない。
ティルテリアがヴァンデに殺されたと知った時、ツァイトは目もくらむほどの怒りに支配された。それは大切な人を殺された怒りであり、同時に自分だけの彼女を奪われた怒りでもあったのだ。
その醜い心は、天空塔の所業を否定できても責め立てることができない。そのことに、ツァイトは酷くショックを受けたのだった。
「俺は、ただ天空塔に、ティルテリア様や故郷にしたことの報いを受けさせたかっただけで……」
ぽつりと呟いた言葉は、思った以上に醜く震えていた。
「それだけ」。それはかつて、天空塔との戦場でひとりの少女に言った言葉である。
『これしか、もう俺には残されていないから』
ティルテリアを喪った時、ツァイトは確かにそれが自分の本音だと思った。天空塔への憎悪に堕ちた心が叫ぶまま、塔の関係者を殺してきた。彼らが悪いと決めつけて。
復讐、それだけ。そう言い聞かせながら、一体どれだけの人を殺してきたのだろう。自分の中に同じ闇があることに見ないふりをしながら、どれだけの命を奪ってきたのだろう。
天空塔を憎むことで己を正当化しながら。心の底に彼らのそれと同じ色をした深い闇を抱えていることに気づかないまま。
ガタガタと肩が震える。脚が自分の意思では動かせなくて、立ち上がることができない。身体全部が自分のものでは無くなったかのように、呼吸すらままならない。
自分が、今まで憎んできた者と同じものを持っていたことが。嫌いで嫌いで仕方がなかった天空塔のことを納得できてしまうことが、ツァイトに酷く衝撃を与えたのだった。
「彼らもまた、
震える唇で恐る恐る呟いた時、ふとひとつの疑問が頭の中をよぎった。
(大司教はウィステリアの賢者で、自分と国の魔法を守るために天空塔を作った。ならば、何故瘴気で故郷を滅ぼした……?)
ツァイトはずっと、天空塔がウィステリアを滅ぼしたのだと思っていた。彼らが発生させた瘴気が、故郷を決して人の住めない呪われた森に変えたのだと。
だが、大司教達は瘴気の発生に関わっていないという。それどころか、残された文書には世界中に発生した瘴気にどうにか対応しようと苦悩する様子が記されている。どうやら、瘴気の影響を抑える薬によって大陸中の支持を集めたのはその結果論に過ぎないらしい。
ホーラノア全体を包む瘴気は、故郷を滅ぼすことになった直接の原因は、何故発生したのか。天空塔ではないのならば、また別の黒幕がいるとでもいうのか。
深まる謎にまたしても予想の右斜め上からの回答を示したのは、書物に残されたとある大司教の研究メモだった。
彼は、魔力の瘴気化は何者かの「心」が原因であると結論付けていた。その上で、瘴気の発生と同時期に多くの森林クジラとティルヤ族が姿を消し、実験用に捕獲していたティルヤ族の様子がおかしくなったことから、彼らの大元の製作者が原因ではないかと考察している。
ティルヤ族と森林クジラの生みの親。ツァイトは世界中で誰よりも大切な彼女の名前を呆然と呟いた。
「まさか、ティルテリア様が……?」
迷い子のような、か細く儚い声。今ここに、そんな彼に答えてくれる者は誰もいなかった。
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