ep31. 幸福は誰のものか
「大陸の均衡を、崩した……?」
アルバートが、ヴァンデが言った言葉を鸚鵡返しに呟く。その表情は明らかに困惑していた。深緑の瞳が「何を言っているのか分からない」と訴える。
彼の反応は至極当然のことと言えた。だからヴァンデは説明のために口を開きかけ、不意に真一文字に引き結んだ。アルバートが疑問を投げかけるよりも早く、
「……ひとまず、話は中でしよう」
茂みの向こう、数本の木々に囲まれた先には見覚えのある小さな家が建っていた。それは、かつてアルバートとアルテミシアがヴァンデに初めて会った時にも訪れたヴァンデの隠れ家――古い魔女の家だった。
すたすたと早足で歩くヴァンデにアルバートは何か言おうとして、短い溜息だけを吐いて大人しく後ろを歩いた。さっきの様子は気になるものの、「話は中で」と言ったのだ。きっと、すぐに話してくれるだろう。話そうとしても言葉にできない感覚はアルバートにも覚えがあったので、少しくらい待つ構えだった。大切な人のことなら特に。
約四年半ぶりに訪れた魔女の家は、相変わらず物が少なくがらんとした印象だ。居間の椅子にアルバートを座らせたヴァンデは、湯を沸かしながら何か考えこんでいる様子だった。エリュシオンでアルテミシアが夢見た家とそっくりだというこの家を座ったままあちこち眺めていると、唐突にぼそりと呟く声があった。
「ティル・ノグに行く前にウィステリアに寄ったのは、お前をここに連れてくるためだった」
居間に現れたヴァンデが両手に抱えているのは、独特な苦い香りを放つカップ。アルバートも師匠みたいな男に貰ったことがあるので覚えがある。南方の国原産で、今や大陸全土で飲まれるようになった、ヴァンデとティルテリアの思い出にも出てきた珈琲だった。
カップをテーブルに置き、続けてミルクや砂糖を取りに行こうとしたヴァンデを引き止めて、アルバートは首を振った。飲んだことがあると言うと、少し驚いたようだった。戦時中、珈琲はまた少し珍しいものになっているらしい。
ヴァンデは、アルバートの向かいの椅子にどっかり腰を下ろすと続きとばかりに話し始めた。
「もう気づいているかもしれないが、ここはかつてティアが住んでいた家だ」
ティルテリアが魔女によって生み出され、決して短くない年月を過ごし、そしてティルヤ族を生み出した場所。それがこの家だった。
ウィステリアを守護する魔女としての功績が認められ、かの国から手厚い庇護を受けるようになったティルテリアは、更に新しい魔法の研究に打ち込んでいた。
彼女が魔法を生み出す目的はいつも変わらない。より、ウィステリアの人々の役に立つために。だから目指すべきは、ヒトを助け、ヒトの生活を更に豊かにする魔法。
「そして生まれたのが、ティルヤ族だった」
植物から生まれ、たった一年の命しかない代わりにありとあらゆる魔法に秀でた人形。ヒトの傍にあり、ヒトを助けるための知識と力を有した小さな魔女。
彼らはティルテリアの指示に従い、ウィステリアの人々のためによく働いた。ある時はその小さな身体で人々の心を和ませ、ある時は有り余る知識と魔法の技術で人々の生活を支援した。
「ティルヤ族の誕生を人々は喜び、ティアに惜しみない賞賛を浴びせた。俺も、彼女が長い間苦労して仕上げたものが報われたことが本当に嬉しかった」
精霊は僅かに警戒の色を強くしたが、ヴァンデは心配していなかった。彼女は母親とは違う。自分の知的好奇心よりもまず他人を思う、誰よりも優しい人だから。きっといつまでも魔女としての使命を全うし、自分の監視なんか要らなくなるだろう。そう思った。
「一方、生まれ落ちたティルヤ族も小さな変化を見せた。彼らは一年という余りにも短い生を繰り返すうちに、徐々に己の『意思』のようなものを身につけていったんだ」
「森林クジラも、その上に国のようなものを作るという社会構造も、ティルヤ族が自分の頭で考えたことだ。彼らはティアが長い年月を掛けて作り上げた、
子を成し、知識や技術を後世に伝えることを知った時点で、もう彼らを「人形」と呼ぶことはできない。あくまでもティルテリアが母体であり彼女の命令には絶対的に従うが、それだけを良しとせず思考を深め「ティルヤ族」というひとつの種族を確立したのだ。
ヴァンデの話を聞きながら、アルバートはアルテミシアと初めて会った時のことを思い出していた。
青葉に光満ちる春のウィステリア。あの、運命の日の一幕。君は僕の魔女じゃないのか。そう問いかけたアルバートに、アルテミシアはとても誇らしげな声で言ったのだ。
『確かに、私の名前はアルテミシア・ティルヤ=エリュシオン。エリュシオンに住むティルヤ族の魔女だわ』
エリュシオンは機械によって作り出された幻で、アルテミシアの故郷はこの世界のどこにもない。それでもあの言葉には、ティルヤ族としての確かな誇りが含まれていたのではないだろうか。アルテミシア自身も忘れていた、最初から人形として作られた彼女の種族がその運命を超えてでも掴み取った、確かな矜持が。
「ティルヤ族の変化を、ティアは純粋に喜んだ。彼女はティルヤ族を我が子のように愛し、その小さな変化を見守るのが楽しいのだと俺に語った。一方ウィステリアの民も、ティルヤ族がより良く進化していくのは己と国の発展に繋がるだろうと概ね好意的に受け止められた」
愛する人の喜び。守るべき民にも良からぬ顔をする者はいない。そんな喜ばしい話をしているというのに、ヴァンデの口調には驚くほど抑揚が少ない。眉間に皺を寄せて固い口調で話しているのは、この先の未来が暗いものでしかないからだろうか。それとも、そもそもティルヤ族の変化が見受けられた時点で、ヴァンデの背を暗い悪寒が駆け抜けたからだろうか。
あの時からヴァンデは、ティルヤ族の変化にそれほど良いものを感じなかった。驚異的とも言える自我と社会性の獲得に底冷えするような恐怖を感じたのは、同時に一段と警戒心を強めた精霊のせいもあるかもしれない。自分の、彼らの本質である魔力が恐怖を感じている。何か良からぬことが起きるかもしれない、その予感を強めている。
果たして、予感は現実のものとなった。
「事態が急変したのはそれから数年後、ティアがウィステリアの外を知ったことからだった」
その頃、ウィステリアは緩やかな発展を続け着実にその富と地位を増していたが、他の地域はそうではなかった。ホーラノア大陸全体が近年稀にみる大飢饉に見舞われ、魔法を知るウィステリア以外の各国で深刻な数の餓死者を出していたのだ。
ヴァンデはあえてティルテリアにウィステリア以外の地域を教えていなかった。心優しい彼女のことだ、知ってしまえば助けようとすると分かっていた。たとえ魔女の禁忌に触れると分かっていても。自分の国以外を救って統一を阻害しては、精霊の怒りを買うと知っていても。
だが、ヴァンデが世界を巡る旅に出ている最中、彼女は知ってしまった。世界情勢に精通する時の賢者と、彼の息子で一番弟子を名乗っていたツァイトはティルテリアとヴァンデにとっても昔馴染み。このふたりの何気ない会話で、ティルテリアは自分が暮らす狭い狭い世界の外を知ってしまったのだ。
「ティルテリアは、森林クジラに乗せてティルヤ族をウィステリアの外に放った。彼らは本当によくやったよ。遂には『救国の妖精』として噂になるほどに、ホーラノア全体に散らばり、あっという間に各国を救ったんだ」
良くやったと言いながら、ヴァンデの表情は酷く暗い。それはティルテリアがしたことが人物としては英雄クラスのことでありながら、魔女としては最悪に近いことだったからだろう。
「魔女が大陸の統一を阻害するのは御法度。勿論精霊は大激怒だ。一方ウィステリア内でも、魔法を国の叡智とし他国に流出することを嫌うものがいた」
それがウィステリアを支え、魔法の発展に一番熱意を上げていたウィステリアの六人の賢者達だった。
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