ep34. その闇を己の罪と知る 

「父さんが、死んだ時……」


 優美な装飾が施された書物に貼り付けられた、手のひらに収まってしまうぐらい小さな紙。そこには、書き手の几帳面さを思わせる角ばった文字が整然と並んでいる。それを指でなぞりながら、ツァイトはぽつりと呟いた。

 大司教の誰かが残した、魔力の瘴気化と世界の異変に関する研究のメモ。そこに記された魔力が人を冒す瘴気に変化したとされる日付は、ツァイトの父である時の賢者ルドウィン・ディア・オズワルドが死亡したと知らされた時と一致していた。

 あの頃のツァイトは、父以外の大司教が天空塔に関わっていることを知らなかった。ただ父が、天空塔の行動に常にはない困惑と焦りを見せていたことには気づいていた。人々が僅かな緊張を見せ、いつもどこか達観しているヴァンデも姿を消している中、毎日どこかへ出掛けてから気落ちして帰ってくる父を、ティルテリアと共に心配しながらウィステリアの家で見守っていた。

 あの頃、ツァイトにはティルテリアしかいないと思っていた。ティルテリアも同じだろうと考えていた。異常な状況だと分かっていたものの、ヴァンデがおらず大人たちが彼女から目を離していることをある意味喜んでいたのだ。まるで、世界の隅に二人取り残されたような感覚。今、この場所で、彼女を守ることができるのは自分だけ。そしてツァイトならきっとそれができると当たり前のように信じていた。

 しかし、この世界にいるのはツァイトとティルテリアだけではなかった。ツァイトの心を占めていたのも、彼女だけではなかった。あの日彼は、一瞬といえど確かにティルテリアの存在を忘れてしまったのだから。

 父の訃報を聞いた時、ツァイトはティルテリアを置いて家の外に出ていた。どうして外出していたのか、何か用事でもあったのか。今となっては理由は定かではない。ともかく何らかの目的でウィステリアの人も疎らな小道を歩いていたツァイトは、偶々その噂を耳にしたのだ。

 それは、本当に偶然のことだった。普段の彼なら、そんなもの冗談だと笑い飛ばしていただろう。或いは多少気にしたところで、一度家に帰って父親の無事を確認するくらいの余裕は見せたはずだ。魔法で個人の生存を確認する方法くらい、いくらでもあるのだから。

 しかし、その時のツァイトは脇目もふらず駆け出していた。天空塔が拠点にしている、父がいたというティル・ノグに向かって。家に独り残されたティルテリアのことなんか、まるで考えていなかった。

 ただ、天空塔が憎くて。憎くて憎くて仕方がなかった。奴らは、ツァイトのもの全てを滅茶苦茶にしていく。愛すべき故郷は往年の穏やかさが陰を潜め、常に息の詰まるような緊張に晒されている。ティルテリアの笑顔が消え、その心が少しずつ壊れていることを知っている。父がツァイトとティルテリアに微笑みを向けながら、ウィステリアを巡って人々を励まし、王国会議に出席し、多忙を極めながら間をぬって何処かに出掛け、瞳に哀しみと悔しさを滲ませながら帰ってくる姿を知っている。

 父は毎日、誰よりも息子とウィステリアのことを思っていた。物心もつかないうちに母を亡くしたツァイトを、男手ひとつで育ててくれた父。息子が魔法に魅了されると暇を見つけては熱心に教えてくれ、まだ幼いティルテリアを守護する任につき、彼女とヴァンデに出会った時は、楽しそうに何時間でも話を聞いてくれた。 時の魔法を極め周囲からの畏敬と羨望を一身に浴びながら、それに驕ることなく常に先を見つめ、自分のことのように他人を想った。かと思えば天才魔法使いとは思えないほど子供っぽい笑顔を浮かべ、ひとつのことを考え始めると他に何も見えなくなり、遂には寝食も忘れてツァイトに叩かれる。おかげで大半の家事はそつなくこなせるようになってしまった。いったい何度「自分のことも少しは考えてください」と言ったか、ツァイトはもう覚えていない。

 それでも彼にとって、父は間違いなくたったひとりの肉親で唯一無二の師匠。ティルテリアとは別ベクトルで誰よりも大切な人であった。

 ツァイトにとって不幸だったのは、そのことが父が亡くなったと聞かされるその瞬間まで頭に無かったことだろう。

 ツァイトもまた、父と同じ性質を引き継いでいる。ひとつのことに一直線で、これと決めると周りが見えなくなる。父の訃報を聞く前、ウィステリアで呑気にティルテリアを護っていた時、ツァイトは確かに彼女のことしか考えていなかった。日々忙しさを増し、家に帰ることすら久しくなっていた父のことなどこれぽっちも考えていなかった。親不孝のようだが、これはある意味信頼にも似ている。彼は当たり前のように父が誰かのために行動していることを、何かを成してウィステリアの家に帰ってくることを信じていたのだ。

 だからこそ、唐突な訃報にツァイトの頭は真っ白になった。その末の、ティル・ノグに突撃という行動だった。

 感情のままティル・ノグに向かった彼だったが、父の死を確かめる前に天空塔に属する騎士にその身を追われることになる。

 その頃から既に、天空塔は着々と力を強めていた。今思えば、ウィステリアの賢者についた者以外も他国から協力者を集めていたのだろう。本拠地であり要塞と化したティル・ノグでツァイトが自由に行動できるはずもなく、魔法の使用も制限され、実にひと月に渡って彼は行動不能を余儀なくされた。

 あの時、ツァイトは己の動けない現状にただ苛立っていた。では、ティルテリアはどうだったのだろう。父もツァイトもいないウィステリアで、独り待ち続けた彼女は。


(あの日、俺はウィステリアで父が死んだことを知りました。ならばこそ、そこにいたティルテリア様が噂を聞いていないはずはありません)


 ティルテリアも父のことを慕っていた。最高の魔法使いと謳われた彼女はウィステリアの全国民に大切にされていたが、やはりオズワルド親子と関わる機会が多かった。ティルテリアは親がいないこともあってか、父を実の父親のように慕っていたように思う。

 そんな彼女は、たった独りで訃報を聞いたのだ。空渡るクジラを見つめながらティルヤ族の無事を願い、少しずつ悪化する大陸の現状を憂い、帰ってこない父と突然いなくなったツァイトに不安を抱いていたティルテリアは、その心持ちのまま大切な人が亡くなったと知らされたのだ。

 それが彼女にとってどんなに衝撃的なものだったかなど、想像に難くない。それが分かっているにも関わらず、ツァイトはティルテリアのことを忘れ、己の衝動のままに駆け出してしまった。

 度重なる不幸で、少しずつ心を壊していたティルテリア。だからこそツァイトは彼女を護ろうと、護れるのは自分だけだと思っていた。が、結局彼女を救うことはできなかった。

 故郷を滅ぼす直接の原因となった瘴気を生み出したティルテリア。彼女が魔力を呪いに変えてしまった根本的な要因はティルヤ族と森林クジラを害し、父を死に追いやった天空塔の人理にも反する所業である。が、心が壊れるほどの絶望に堕ちる最後の枷を外したのは、ティルテリアを孤独のうちに晒したツァイトだったのだ。


「俺は、なんてことを……」


 零れ落ちた声は、みっともないぐらい震えていた。喉がぐうっと引き攣り、視界が僅かに歪んで書物に記された文字が滲む。泣くことは赦されない。これほどの罪を犯した自分に、涙を流す資格はない。それでも、瞳から溢れる雫を止めることができない。

 何か熱いものがせり上がってきて、息をすることすら苦しくなったツァイトは思わず己の胸元を片手で掴んだ。その時、何か硬いものが懐から零れ出た。

 コツッと控えめな音を立てて石の床に落ちたのは、金色の懐中時計。ツァイトと父とティルテリアの魔力が込められた、彼がウィステリアの魔法使いだった頃から愛用している魔法道具。

 静かに光を零す懐中時計にむかって、ツァイトは震える腕を伸ばした。胸に抱き寄せても、時計はコチコチと音を立てるだけで何も語らない。何度も何度もそこに込められた魔力を生きる支えにした。大切な人との思い出に浸ることで、ここまで歩くことができた。だが、繰り返し浸った幸せな虚像は今のツァイトを救わない。どんなに強く願っても、最早彼の罪を赦すことができる者はどこにもいないのだから。


「父さん……。ティル、テリア様……」


 薄暗い教会の地下室に、青年の殺しきれない嗚咽が響く。懐中時計を胸に抱き、何度も父とティルテリアの名前を呼びながら、ツァイトは独り幼子のように泣き続けた。

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