ep37. 彼女の自由を証明したい
ヴァンデの話を聞きながら、アルバートはずっと怒っていた。ティルテリアがティルヤ族を皆殺しにしたという話を聞いた時――「天空塔に好き勝手されるのはアルテミシアで終わりにしたいと彼女は思ったんだ」みたいなことを、ヴァンデが誇らしげに語っていた時から。
己の身を犠牲に天空塔を終わらせるという、一見荒唐無稽とも思われる計画。その発案の根底には、非人道的に扱われるティルヤ族への憂いがあったことは分かる。ティルヤ族を滅亡させてでもその搾取を終わらせ、天空塔という組織自体を完全に崩壊させることで放置すれば長く続いたであろう悪しき連鎖を断ち切ろうとしたのは感嘆すべきことである。
運命に抗い、ホーラノア全体を変えようとする壮大な計画。その要に、アルテミシアの存在があったことは分かる。彼女はその為に作られた。分かっているのだ、そのようなことは。――それでも。
「それでも、ミーシャが死ぬ必要はなかった」
ぽつりと呟いたアルバートの声は、悲痛な色をしていた。震える身体。爪が肌を裂き、血が滲むほどに握り締められた両の拳。噛み締め過ぎてうっすらと赤くなった唇。押し寄せる感情の波を堪えきれず、僅かに涙を滲ませた深緑の双眸。その裏で思い出していたのは、四年経ってなお脳裏に焼きついて消えない、アルバートがアルテミシアを喪った記憶だった。
忘れたことなど、一度もない。忘れようにも忘れられない記憶。「置いていけない」と微笑む優しい笑顔。透明で綺麗な彼女の涙。光に包まれるような、どこか懐かしい歌声。
何度も夢に見た。暖かで明るい笑顔に幻と分かっていても荒んだ心を癒され、このまま消えないでくれと縋って願い、しかし最後は必ずアルテミシアが消えてしまうところで終わる。その度に飛び起きて、ガタガタ震える全身を必死で押さえつけて心を落ち着けた。溢れて止まらない渇望と繰り返す喪失の痛みに気が狂いそうになりながら、その度に彼女の最期の言葉を念じるように心に刻んでまだ前に進むことを己に誓った。
『どうかその自由な空に私も連れてって』
誰よりも自由を願ったアルテミシアを取り戻して、本物の自由な空を一緒に飛ぶため。
アルテミシアは、アルバートの自由を願ってくれた。自分達の旅が誰かの手のひらの上にあったと知って、果たせなくなった願いをアルバートに託してくれた。
だから、アルバートも示したい。ホーラノアで生きる全ての人に。彼女がこの世界で生き、溌剌とした瞳であらゆるものを見つめ、時に困難の中で迷い悩みながらもアルバートと共に旅をした、その意味を。
たとえ、始まりはその生の理由を決められ、道具のように生まれ落ちたのだとしても。
「正直、俺はお前らの恨みも証明もどうでもいい」
ヴァンデの底なし沼のような
積年の思い。大陸の命運を揺るがすような計画。それらに比べたら些細なものかもしれない。けれど、アルバートにとっては何よりも大事なことがあった。たったひとつ、絶対に否定しなければならないことが。
「ただ俺は、お前らが……ホーラノアにいる奴らが、ミーシャを道具みたいに言うことが許せない」
ヴァンデとティルテリアだけじゃない。ティルヤ族を自分達のもののように扱い、人格と尊厳を身に付ける彼らを喜びながら、自国の利益のため自由な空を禁じた過去のウィステリアの民。当たり前のように
この大陸の誰もが、アルテミシアをひとりの少女として見ていなかった。――それでも。
「ミーシャはここにいた。四年前、確かにこの大陸で生きていた」
あの時誰よりも傍にいたアルバートだからこそ、声高々に語りたい。瞬きするほどの短い間でも、確かに彼女が遺した旅路の軌跡を。
「俺は、あの時確かにミーシャと共に旅をしていた。仕組まれたものとか、期間の短さとかは関係ない。ミーシャは俺の背中に乗り、旅路の中で様々なことを俺に教えてくれたんだ」
誰よりも優しいアルテミシア。疑うことよりも信じることを、跳ね除けるよりも差し伸べることを知っていた少女。どんなことにも興味を持ち、些細なことにも感動し、迷いながら自分の進むべき道を探す、誰よりも素敵なアルバートの魔女。
最初は利害の一致のようなものだった。アルテミシアにとって自分の脚になるのならどんな召喚生物でも良かったのだろうし、アルバートも目の前にいたのが誰であったとしても自分の魔女と喜んだかもしれない。
しかし、彼は旅の中でアルテミシアだからこそなのだと確信した。ひたむきに生きる彼女だから一緒にいたいのだと分かった。たとえ始まりは予定調和の出会いだったのだとしても、この思いは紛れもなく自分の本心であると。アルバートの全ては、あの旅から始まったのだ。
「だから、俺はミーシャを取り戻す。もう誰にも縛られない。誰の指図も受けない。ミーシャは誰よりも自由に生きられる。あいつがいれば、俺だってどこにでも飛べる。それを証明するんだ」
それが、ドンディナンデの森でアルバートが心に刻んだ誓いだった。
語りながら、アルバートは一度もヴァンデから目を離さなかった。何もかもを吐き出すように話し尽くした彼は、静かに佇むヴァンデを見て嘆息する。――できることなら、掴みかかって殴ってやりたいぐらい怒っていたけれど。
「だからヴァンデ、知っているなら教えてくれ」
アルバートの声が震える。彼は必死だった。あれだけ怒りを覚えた男に、土下座してもいいと思うくらい必死だった。
「ミーシャを、取り戻す方法を」
それを知るためにアルバートは四年の月日を耐え抜き、今ここにいるのだ。
アルバートの誓いと必死の懇願を、ヴァンデはただ黙って聞いていた。彼が今何を考えているのか、ぴくりとも動かない表情から知る術はない。気の遠くなるような長い沈黙の後、ヴァンデは僅かに憂いを帯びた瞳をアルバートから逸らして呟いた。
「アルテミシアを取り戻す方法は、ある。俺がホーラノアに戻ってきた理由の半分は、お前にその方法を伝えるためだった」
「えっ……」
アルバートが驚きで僅かに瞠目する。そのように都合のいいことがあるというのか。
だが、喜ばしい話であるはずなのにヴァンデは全然嬉しそうじゃなかった。むしろ苦いものを飲み込んだように顔をしかめ、いかにも嫌そうにぼそっと呟いた。
「言ったろ? 精霊が、アルテミシアを魔女にしたがっているって」
その言葉で、アルバートもようやく思い至った。
ドンディナンテの森で、ヴァンデと最悪な再会をした時のこと。襲いかかったアルバートに、彼が言った言葉。
『多分あいつらは、アルテミシアを魔女にしたいと思っている』
あの時ヴァンデははっきりと告げなかったが、「あいつら」というのは精霊のことだったらしい。嫌そうな顔をするわけだ。ヴァンデは、幾度となく精霊が嫌いだと言っていたから。
嫌うだけの理由も知っている。ヴァンデの理不尽な運命は、決して逃れることができない殺戮の宿命は、全て精霊の指示のもとにあったのだと聞いたのはついさっき。
(俺は、どうなのだろう)
アルバートは己の胸の内で考えてみた。自分は精霊について何を知っているか。どう思っているか。彼らの願うままアルテミシアを魔女にすることを、どう考えるのか。
「お前がアルテミシアの復活を切望しているのは分かっている。だが、精霊もまたアルテミシアを魔女にすることで何か得られるものがあると考えている。あいつらの考えに乗るっていうのは、そういうことだぞ」
ヴァンデの脅迫めいた忠告が頭の中を滑っていく。実のところ、アルバートは精霊についてあまり詳しくない。彼の中にある知識はヴァンデが話したことと、アルテミシアと一度だけ邂逅したことがあるだけ。
古いインクの香りが漂う書架の森。詠うように響く精霊の言葉。
「おい」
唐突に、ヴァンデがアルバートに声をかけた。アルバートの薄い肩がぴくりと跳ねる。
「ティル・ノグに行くぞ」
「は……?」
「どうせ連れていくように言われている。詳しいことは自分で聞け」
どうやら、何も答えないアルバートにしびれを切らしたらしい。さっさと扉をくぐるヴァンデを、アルバートは慌てて追いかけた。
ヴァンデはむっつりと押し黙ったまま地下道を歩いていた。が、梯子に手を掛ける直前、不意にアルバートの方に目をやった。独り言のような小声で呟く。
「全て、お前が決めたらいい。俺は何も強制するつもりはない。――何かに従うという形でも、お前はアルテミシアを取り戻したいと思うのか」
梯子の先から光が溢れる。地下室に住んでいたティルヤ族が夢見た光。何よりも渇望した自由への
だが、その向こうで待つのは明るい未来だけではないと、空と風を識りながら自由を持たない魔物が囁く。
「魔女と魔物は、宿命に縛られ運命に生きる者だ。お前達が望んだものが、そこにあるとは限らない」
「誰にも従わない。指図されない」と語ったアルバート。だが、その誓いを曲げることでしか大切な人を取り戻せないとしたら。取り戻した先にも、望むものがないかもしれないとしたら。
「選ぶのも、決めるのもお前自身だ」
アルバートは一言も返さない。ヴァンデもそれ以上は何も語らず、黙って梯子を上った。
ティル・ノグへ。二人それぞれを待つ者がいる場所へ行くために。
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