inter6. ただ離れて幸福を願う者

 地下にいた時はどれほどそこにいたのか考えもしなかったが、どうやらすっかり話し込んでしまったらしい。床板を押し開けて部屋に戻ると、窓から差し込んでいたはずの陽光は影も形も無くなっていた。

 海鳴りのように轟く風の音。足元から這い上がるような冷気。アティリアの灯ひとつ灯さず、闇と沈黙の中に取り残されたような室内。その中で、ただヴァンデとアルバートの二対の瞳だけがギラギラと輝いていた。

 冷え切った空気に時も凍りそうな静寂を、先に壊したのはアルバートの方だった。


「ティル・ノグにはすぐに行くのか?」


 終始無言で梯子を上った彼が発した言葉は、強い熱を帯びている。前を歩いていたヴァンデは、視線だけで振り返りその深緑の瞳を見た。

 言葉は疑問の形をしていたが、アルバートがすぐにティル・ノグに行きたいと思っていることは明白だった。今すぐにでもウィステリアを発ち、ティル・ノグに向かいたい。精霊に会って、アルテミシアを取り戻したい。そう顔に書いてある。

 当然だろう。彼は、アルテミシアを復活させるためにずっと旅をしていたのだから。どうしてその可能性に思い至ったのかは謎だが。本当に実現するかも分からない曖昧な希望に縋って、四年間その方法を探し続けた。今更、ヴァンデの忠告ひとつでやめるようなやわな考えはしていないと思う。


(大人げないとは思ったが……。まあ決めるかはともかく、精霊に会うという選択肢がぶれることはないか)


 密かに息を吐いたヴァンデの顔に浮かぶのは、自嘲の笑み。

 アルバートの必死さを知り、彼が長く抱えていたそれが自分の言葉くらいで消えないことを分かっていて、脅すような言い方で忠告した。それは精霊を嫌っているからというより、アルバートに嫉妬しているからというのが大きい。


 アルテミシアを取り戻すチャンスがある、アルバートに。


 ティルテリアはアルテミシアとは違う。ヴァンデがどれほど願っても、彼が同じようにティルテリアを取り戻すことはできない。彼女は精霊に、ホーラノアの統一と守護ができず魔女としての使命に失敗したとみなされ、ヴァンデによって処分された魔女だから。魔力によって生かされ限りなく魔女に近い存在でありながら魔女ではなく、それ故にまだ魔女としての使命を持たず精霊の管轄外で死んだアルテミシアとは訳が違う。

 たとえそうと理解していても、求める思いが消えるはずがない。元よりヴァンデは、ティルテリアが魔女として失敗したとは思っていないのだ。彼女は真にホーラノアのため、この大陸で暮らす人々のために行動していた。――その、命の終わりまで。


(ティアは立派な魔女だった。たとえ誰が否定しようとも、俺だけはそう断言できる)


 だからこそ彼女を否定した精霊に怒りを覚えるし、大切な人を取り戻すことができるアルバートに嫉妬している。できることならヴァンデもティルテリアを取り戻し、アルテミシアではなくて彼女を再び魔女にしたいと思う。

 だがそれは、この世界がこの世界である限り天地がひっくり返っても絶対に不可能なことだ。ならばアルテミシアがアルバートのところに戻ってきて新たな魔女になるというのは、他の誰かがなるよりはずっといいと思う。

 問いかけの応えを考えるふりをして、横目でアルバートの様子を窺う。四年間の苦難は感じられるが、それでもまだ若く新芽のような魔物の少年。純粋で真っ直ぐな眼差しはヴァンデと全然違うが、アルテミシアだけを見ている一途さは昔の自分を見ているようで思わず笑みが零れる。ティルテリアのことだけを思い、彼女のいるウィステリアに帰ることだけを希望にして世界を巡っていた日々がヴァンデにもあったのだ。あの頃の自分と同じように、アルバートは今何度も繰り返し思い出しているのだろう。彼がクジラの姿をしていて、隣にはいつもアルテミシアがいた幸せな日々を。

 以前この家で二人と話した時、「どうしてそんなに優しくしてくれるの?」と訊いてきたアルテミシアに言った答えを思い出す。ひとつは、決して違うことのできない約束のため。そしてもうひとつは。


『俺が、お前たちに幸せになってほしいから』


 あの時の言葉は嘘ではない。これだけアルテミシアとアルバートを利用するようなことをしておいて今更なんだと言われそうではあるが、正真正銘の本心だ。約束のためとはいえ、決して許されないことをしたのは分かっている。彼らの思いを無視して道具のように扱うなど、アルバートが激怒して当然だ。それでも、二人には幸せになって欲しい。アルバートが自分の意志でアルテミシアを取り戻すことを選択し、彼らが宿命と苦難を乗り越えることができたなら、このホーラノア大陸にもまだ可能性があるかもしれないと思える。ティルテリアが繋いだ未来が遥か先まで続く可能性が。


『この国は、俺たちにとって救いようのない場所だ。けれど、あの人が暮らした国が、いつも笑顔を絶やさなかった彼女がいた国が、今も僅かでも希望がある場所だって信じていたいんだ』


 アルテミシアを前にして、ぽろりと零れた本音。ティルテリアに対しての人々の所業に激怒し、大陸が崩壊するように呪いのような恨みを抱きながら、それでもどうしても捨てられなかった僅かばかりの希望。あの時願った未来が、本当に叶うかもしれないのだ。


「できるなら、それを『普通の立場』で見たかったけどな……」


 アルバートに聞こえないよう溜息のように呟いたのは、己の運命を呪うもの。

 いつだってヴァンデは、監視者としての立場でしか魔女と魔物を見ることができない。監視し、命じられ、処刑するのが、ヴァンデが今までもこれからも永遠に縛られる運命。

 それでも処刑などせず、できれば他の人と同じように国の明るい未来を願い喜びたいと思うのは間違いだろうか。

 それが許されないのならば、せめてまだ如何なる運命にも縛られていないアルバートを見ていたい。妬む気持ちはある。それでも、彼が自分の意思で全て歩むことができるように。


『この国は歪んでいる。お前たちにとって辛いことも沢山あるだろう。理不尽な選択を迫られることもあるかもしれない。けど、お前は絶対に後悔するな』


 ヴァンデはかつて、アルバートにそう語った。だが、彼は後悔しただろう。他ならぬヴァンデが仕組んだことによって。その償いというわけではないけれど。

 

(ただ、今度は何の裏表もなく見ていられたら)


 選択の先で、彼が二度と後悔することがないように。彼らを自分が殺す未来が来ないように。ただ少し離れたところで、自分では決して届かない幸福を願う者でありたいと思う。

 再び、今度はしっかりとアルバートを見る。返事が遅いことにうずうずしている様子の彼に口元だけ笑みを浮かべた。


「ああ、すぐに行こう」


 闇に閉ざされた森へ、アルバートを促す。どれほど真っ暗だろうと、彼は決して歩みを止めない。そのひたむきさを羨ましく思い、雁字搦めの自分をひっそりと嗤う。


(いっそのこと、ツァイトが本当に俺を殺せたらいいのにな)


 ありもしない幻想にひたりながら。それでも有り得るかもしれない明るい未来を見るのもいいと、僅かな希望を胸中で育てながら。

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