ep17. 信仰と独占欲

 ふわっと柔らかい風が、アルテミシアの頬を撫でる。


 ――ミーシャ、ミーシャ。


 誰かに呼ばれた気がして、彼女はうっすらと目を開いた。

 視界いっぱいに広がるのは、紅蓮の炎にも似た夕焼け空。棚引く茜色の雲を切り裂くように舞う無数の蒼い羽根を見て、アルテミシアは深緑の瞳を目一杯に見開く。ほんの少し前にユルグで起きたはずの出来事が頭をよぎった瞬間、彼女は思わずその羽根の主の名を叫んだ。


「ヴァンデ!!」


 確かにヴァンデだった。ウルトに神殿に連れていってもらおうとした時、突然強い風が吹いて、その時確かにヴァンデが現れたのだ。そして、彼が言ったのは――。


「あ、ミーシャ起きた? 大丈夫?」


 バラバラになりそうな思考を遮ったのは、とても明るい、けれど優しい声だった。


「あ、アル……?」


 答えると、横たわっている地面がぐらっと揺れた。柔らかい草が頬を撫でてくすぐったい。それでようやく気づいた。どうやら自分は今、アルバートの背中に寝転がっているらしい。

 アルテミシアはころんっと転がってうつぶせになると、草と花だらけの彼の背中に両手を這わせた。少し湿った土の匂いと甘い花の香り。いつもと変わらないアルバートの感触に、心が少し落ち着く。両手両足をだらんと伸ばしたまま、彼女は小さな声で囁いた。


「ねえ、アル。どうしてあの時、ヴァンデが現れたんだろう。捕まるってどういうことなのかな?」


 問いかけながらも、アルテミシアは特に答えを期待していなかった。ただ、アルバートと話すことで考えを整理することができたら。それだけのつもりだった。

 けれど、答えは意外にもあっさりともたらされた。――アルバートではなく、別の人物から。


「そりゃ、そのままの意味だよ。お前は気づいていないみたいだったけどな」


 飄々とした、けれど冷徹な声が聞こえたのは、アルテミシアのすぐ真上から。

 がばっと起き上がった彼女の前に現れたのは、蒼穹に似た翼をもつ怪鳥、ヴァンデだ。

 人に変化し、アルバートの上に軽々と着地した彼を、アルテミシアはきっと睨んだ。


「ヴァンデ、それはどういうこと? 説明して」


 固い口調で言うアルテミシアに、ヴァンデは軽く溜め息をついた。


「まあ、よくあることだよ。神やら信仰やら言う奴らがすぐに主張する、よくある自分勝手な妄想だ。――自分達だけが特別だっていう、な」


 アルテミシアははっと息を呑んだ。ヴァンデはそれには構わず、無感動な瞳で燃え盛る空を眺めた。


「要するに選民思想っていうのか? あいつらにとって魔法とは、魔力やそれに伴う光も全て自分達ユルグの民のためにあるべきものだと思っているんだ。守り、信仰し、誇りを抱いているからこそ、あいつらはそれを独占する権利があると思ってやがる」


 アルテミシアは目を見開き、口を抑えたまま動けなくなった。


「でも、あの人達は……。あの子達は……」


 必死に反論しようとするが、それ以上に言葉が出ない。

 そうだ、アルテミシアも確かに不思議に思ったのではなかったか。彼らの真っ直ぐ過ぎる信仰に、世界樹への愚直過ぎる信心に疑問を持ち、ウルトの言葉に違和感を覚えた。だからこそ、彼らの信仰を知ろうと思ったのではなかったのか。

 ほんの一瞬だけでも、あまりにも盲目的な彼らを怖いと思ったことは無かったか。

 少しも声が出せないアルテミシアに、ヴァンデはあくまで静かに言葉を重ねた。


「現実を見ろ、アルテミシア。これが真実だ」


 射抜くような鋭い瞳に、アルテミシアの肩が大きく震える。親切だと思っていた人の傲慢さ、その悪意が小さな身体を貫き、へたりこんだまま動くこともできない。そんな彼女にヴァンデの言葉が、容赦なく現実を突きつけてくる。


「あいつらの炎は、あいつら自身にしか向けられていなかったってことだ。自分達が得をするなら、他はどうだっていいと思っている。……まあ、ユルグの歴史や立て続けに起きている悲劇を考えれば多少同情の余地はあるが、それにしたってやり過ぎだな」


 真夜中色の瞳を柔らかく細めて言う彼の言葉は、いっそ優しいほどだった。


「とにかく、お前たちは天空塔を目指せ。自分の目的のためだけに行動しろ。何も信じず、何も同情するな。それらは全て、お前らの望みを阻むものにしかならない。アルテミシアが優しい奴なのは俺も知っている。けれど、それはお前が目的を果たしたときまでとっておけ」


 そこまで言うと、ヴァンデは翼を大きく広げた。立ち去ろうとする彼に、アルテミシアは手を伸ばした。


「待って!! 貴方、どうしてそこまでしてくれるの……?」


 ヴァンデは目線だけで振り返ると、揺るぎない真っ直ぐな声で呟いた。


「俺は約束を果たす。そのために、お前らにここで立ち止まられたら困るってだけだ」


                 *


 舞い上がる淡い色の花弁を、天空を永久に旅する風がさらっていく。ヴァンデも遥か風の旅路の向こう。既に自らの道は知っているというように飛び去っていった。

 アルテミシアは彼の姿が分からなくなるまでじっと見送り、それから精根尽き果てたというように、アルバートの背中にぱたりと倒れ込んだ。


「ミーシャ……」


 心配そうなアルバートの声。彼女はそれを聞いた瞬間、彼の背中に投げ出した両腕にぎゅっと力を込めた。まるで抱きしめるように。自分よりずっと大きな身体を離さまいとするかのように。

 柔らかな草と土の背中に頬を寄せて、アルテミシアはそっと呟いた。


「ねえアル、ユルグの人達は悪い人だったのかな……?」


 消え入りそうな声は、戸惑いと深い悲しみに満ちている。


「アルはユルグを綺麗な街だと言った。私もそう。どんな苦難に晒されても誇りを忘れない人々の姿を美しいと思った。きっとこれからもっと素敵になると、そのために私にできることがあるのならしたいと、あの時確かにそう思った。でも、それは間違いだったの……?」


 目を閉じれば、今でも長老の、ウルトの、街の人々の笑顔が頭に浮かぶ。苦しくても他者を思いやることができる人。街の人全てを家族同然に愛し、力を合わせて自分達の故郷を、その生活を守ろうとしていた人々。アルテミシアは彼らを尊敬していた。彼らの姿に感銘を受け、いつかエリュシオンが見つかったら、力になれることがあるなら何でもしたいと思った。けれど、それは違ったのだろうか。


「……」


 アルバートは、ただ無言を返した。何も言うことができなかった。

 確かに、ヴァンデが言うことも分かるのだ。彼にとって、アルテミシアが何よりも大事。彼女の安全を守り、その目的を最速で叶えるためには、何も見ずどこにも寄らず、ただひたすらエリュシオンを目指して――天空塔を目指して進むのが一番だと分かっていた。

 しかし、それが正しいとはとても思えない。アルバートはここにいるのがアルテミシアだから一緒にいるのだ。アガタに手を差し伸べ、少しの寄り道を厭わない彼女を助けたいと思っているからここにいるのだ。


 「間違いだったのか」と呟きながらも、そうではないと頑なに信じたがっている彼女だからこそ。


 そこまで考えて、アルバートははっと目を見開いた。自分がそう考えたことに驚いた。アルテミシアが大事なのは、ずっと変わらないとはいえ。


(不思議だな。ミーシャは僕の魔女だから、僕を召喚して、あの暗闇から連れ出してくれたから。それだけのはずだったのに)


 今までは、何かに突き動かされるように行動していた。ただやっと見つけた魔女が嬉しくて。ずっと探していた懐かしい存在にようやく巡り会えたような気がして。彼女をただ助けなければならないと思っていた。……それが、本当に自分の意志かも分からないまま。

 だが、今は違う。アルバートはアルテミシアのためにここにいる。それが偶然でも必然でも関係ない。自分は彼女と一緒だからここにいるのだと、それが自分の意志だと胸を張って言うことができる。それが何よりも不思議だった。

 アルテミシアは、今もアルバートの背中にしがみついている。小さな身体から、再び掠れた声が漏れた。


「アル、私……」

「ミーシャは間違っていないよ」


 何か言おうとした彼女を遮るように、アルバートは言葉を重ねた。

 先ほどは何も言えなかった。けれど、今なら。


「ミーシャは、何も間違ってないよ。ユルグの人達が何を考えていようと、その考えがどんなに歪んでいようと、結果的にヴァンデが言ったことが正しかったとしても、ミーシャが考えたこと、助けたいと思ったことは間違いじゃないんだよ」


 何度も繰り返す。アルテミシアが助けたいと思ったことは間違いじゃない。信仰と独占欲の狭間で何もかもが歪んでしまっていたとしても、ユルグの人々の生き様を、その誇りを美しいと思ったことに間違いがあるはずがない。少なくともアルバートはそう信じている。彼は、ユルグの力になりたいと思ったアルテミシアとだからこそ一緒にいるのだから。


「僕はミーシャを信じる。例え誰が何を言っても、全ての人が間違いだと言ったとしても、僕だけはミーシャを、ミーシャが思ったことの全てを信じるから」


 アルテミシアは大きく息を呑んだ。それから、吐息のように密やかな声で囁く。


「……ありがとう」


 儚げな声は、それでも確かに万感の思いがこもっていた。

 本当に嬉しかった。アルバートの言葉が、アルテミシアは本当に嬉しかったのだ。誰かに騙されること、その悪意に晒されることが、彼女にとって初めてのことだったから。何が正しくて何が間違っているのか、もしかして自分はとんでもない間違いを犯してしまったのではないかと不安で仕方がなかった。だからこそ、アルバートの「ミーシャを信じる」という言葉が、アルテミシアにとって何よりもかけがえがなかった。

 少し微笑んで、アルテミシアは仰向けに転がった。燃えるような夕陽はとうに沈み、満天の星が澄み切った夜を彩っていた。空を泳ぐアルバートの動きに合わせて木の葉の黒い影が揺れ、時折桃に似た甘い合歓の木の花が香る。アルテミシアは瞳を閉じた。

 まだ、終わらない旅路。天空塔に着くまで、否、着いてからも何が起こるか分からない。これからも多くの人に出会い、様々なことが起こるのだろう。嬉しいことも、悲しいことも。それでも、どうか。


「どうか、アルは一緒にいて」


 囁きが空を駆ける。二人きりの夜空を。まるで、世界で二人だけになったように。


「これからも色々なことがあると思う。私はきっと沢山悩んで、間違うことだってあるかもしれない。それでも、私はまだ進まなければならない。だから、この先何があろうと、誰が何を考えていようと、どうかアルだけは」

 ずっと、私の味方でいて。


 最後の言葉は、胸の奥で詰まって言葉にならない。それでも確かに、アルバートに届いたはずだ。彼は、アルテミシアを信じると言ったから。アルテミシアも、彼を信じているから。

 眼下の大陸は夜に沈む。瞬く無数の星達は、闇を進む彼らの旅路を、その束の間の休息を静かに見守っていた。

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