ep15. 太古の炎を識る街

 ティル・ノグの壁を越えて、どのくらい経ったのだろうか。眼下にぽつり、ぽつりと家が見えてきた頃、既に太陽は天頂に至ろうとしていた。

 アルテミシアは、アルバートの背中、花咲き乱れる合歓の木の太い枝に腰掛けてユルグと呼ばれる街を眺めていた。

 ユルグは、街というよりも村が集まっているように見えた。小規模な家の集まりが少しずつ間隔をあけて点在している。同心円状に広がる集落の中心に聳える建物は、周囲と比べて一際大きいことが分かった。が、その建物がある集落も、他の村とほとんど変わらず小規模だ。

 これは後から知った話だが、これはユルグが国だったころから変わらない光景らしい。元々小さな村落で独自の生活を送っていた村同士が、神殿を中心に集まり、協力し、やがてひとつの国と呼ばれるまでに力をつけた。大陸南は乾燥し、潮風が強く、多くの植物は塩害にやられて上手く育たない。だが、知りうる知識を互いに持ち寄り、協力し合うことで彼らは生き延びてきたのだ。

 円形に広がる姿を炎に例えて、大陸を巡る吟遊詩人フィリは古くからこの国を「太古の炎を識る国」と詠う。それは、「国」から「街」になっても変わらない。

 アルテミシアは、アガタから「弟と妹は神殿の近くの集落に住んでいる」と伝えられていた。彼らに両親はいないが、神殿近くに住むユルグの長老に育てられたらしい。

 

 『母が神殿に仕える者だったので、神官様が長老のおじいちゃんに頼んでくださったのです。村の人も、他の場所に住む人も、沢山手を貸してくださいました。ユルグはこうやって生活してきたからって。私達も人に手を貸すことを惜しまないようにって……。そう、子供の頃から教えられてきたのです』

 

 そう誇らしげに話すアガタの言葉を聞きながら、アルテミシアはふと思うことがあった。

 

 (ホーラノアも、そうあれたらいいのに)

 

 ヴァンデと出会い、ツァイトと出会い、三つの街を見て多くの書物に触れたことで、アルテミシアにもこの国の現状が少しずつ分かってきた。

 ユルグとホーラノアはとてもよく似ている。そのでき方も、規模は違えど小さな集団が自治をしているという現状も。違うのは、集団同士が協力し合っているか、一部の人が幅をきかせて他者を虐げているか。それだけ。

 

 (もちろん、ユルグにも沢山問題はあるのでしょう。私はまだ、この街を全然知らないのだから。けれど、アガタはとても幸せそうだった。だから、少しでもホーラノアも変われたなら……)

 

「ミーシャ、もうすぐ着くよ」

 

 アルバートの声で、アルテミシアはふっと我に返った。促されるままに、改めてユルグの街を見下ろす。

 南の、砂と磯の香りが混じる風。誘うのは、ただひとつ天空塔に反抗し、信仰と誇りに生きる街。……アルテミシアがまだ、知らない街。そう考えるだけで、少しわくわくしてきた。

 

 (この世界のことは、今は少し置いておこう。まずはアガタとの約束を果たして、エリュシオンに帰らなきゃ)

 

 アルテミシアはひとり、心の中で頷いた。まだ、自分にできることがあるのかすら分からない。だからこそ、今は自分がするべきことを。その先にできることが――アガタと会うことで見つけた、新たな目標を叶えるきっかけが見つかると信じて。

 海猫が雲ひとつない青空に歌う。海面は陽光に白く輝き、木々のざわめきにも似た海の声が二人を新たな場所に手招きする。

 

「行きましょう、アル」

 

 南の空をどんな鳥よりも優雅に泳ぐアルバートに、アルテミシアは溢れるような笑顔で囁いた。

 

 *

 

 アルバートがユルグの地に舞い降りる。大きいまま降りたので周囲が砂埃で覆われ、アルテミシアは何度かくしゃみをした。

 

「ミーシャ、大丈夫?」

「平気よ、アル」

 

 心配そうなアルバートに、アルテミシアが微笑んで答える。地面に降りた彼女は、きらきらとした瞳を目の前に聳える建物に向けた。

 

「それより見て! あれが、アガタが言っていたユルグの神殿なのね」

 

 はしゃいだ声を上げながらアルテミシアが指で指し示すのは、赤茶の土の塊を積み上げて作られた建物。アルバートよりもさらに大きく、高く高く天に伸びている。整然と並ぶ小さな窓。正面に刻まれているのは、太陽と月、根を広げる樹木。古い彫刻ではあるが、精緻な絵画は生き生きと美しく建物全体を優美なものに見せている。地面に刻まれた無数の足跡は、この神殿が人々に愛され長く心の拠り所にされてきたことを如実に示していた。

 アルテミシアは、陽光に輝く神殿を飽きることなく眺めていた。やがて砂埃が晴れ、周囲の様子が明らかになるのに従って、彼女はあちこちから地響きのような音が聞こえるのに気がついた。

 

「ミーシャ、この音は?」

 

 アルバートも気づいたらしい。警戒する彼に寄り添って、アルテミシアも目を凝らす。まだ霞のように淡く残る砂埃の向こうにちらっと靴を履いた足が見えた時、アルテミシアははっと息を呑んだ。

 

 (これは……。これ全部が、足音?!)

 

 いったい何人の……。否、何十人の足音なのかとても想像がつかない。彼女はアルバートにしがみつき、怯えた瞳で周囲の様子を窺った。

 果たして、恐らくこの集落に住むほぼ全ての人がアルバートを取り囲んだ。人数にして八十人余り。老若男女問わず、全ての人が好奇に満ちた視線を森林クジラと小さな少女に向けた。

 張り詰めた空気を縫うようにして、ひとりの男がふたりの前に現れた。杖をつき、豊かな髭を蓄えた白髪の老人が、年齢に似合わぬ鋭い眼光でアルテミシアとアルバートを交互に見つめる。やがて、その銀灰色の瞳に薄らと涙を浮かべた。

 

「……?」

 

 突然のことに戸惑うアルテミシア。それに構うことなく、老人は膝をつきこうべを垂れて感嘆の声を上げた。

 

「母なる樹よ、感謝致します……! とうとう我らにも、救いの手を差し伸べてくださった」

「?!」

 

 咽び泣く老人に対し、アルテミシアは何のことだかさっぱり分からない。もちろんアルバートもだ。互いに目配せし合い、恐る恐る周囲の様子を窺う。すると、老人だけでなく全ての人々が口々に感謝の声を漏らしていることに気がついた。

 

「では長老、あの方々が……」

「伝説の通りだ! 本当にクジラに乗って現れた!」

「母なる樹に愛された者。人々を救うために遣わされた希望の方舟」

「伝説の妖精が、本当に存在するなんて……!」

「ああ、どうかこの国に再びの繁栄をお導きください!」

 

 アルテミシアは数度瞬き、それからやっとアガタが話していた「伝説の妖精」のことを思い出した。

 

 (確かにアガタもとても興奮していたけれど、こんなにも噂になっているなんて)


 恐らくホーラノアに伝えられているティルヤ族の噂、「伝説の妖精」。アガタの様子や、ヴァンデやツァイトもティルヤ族を知っていたことから多少認知されているとは思っていたが。

 口々に騒ぐ声。期待に揺れる幾つもの瞳にアルテミシアは戸惑った。


「えっと、私そういうのじゃなくて……」

「――皆さん、どうか落ち着いてください」


 口ごもるアルテミシアに声を重ねたのは、落ち着いた物腰の年若い青年だった。新緑のくるぶしまで覆うローブを纏い、蔓植物が巻き付いた太い枝を模した杖を持っている。理知的な光を宿す緑瞳に魅入られたかのように、人々は徐々に落ち着きを取り戻していった。


「神官様……」


 長老と呼ばれていた老爺が、青年に声を掛ける。神官と呼ばれた男はちらりとアルテミシアの方に笑みを向けた後、長老に向き直った。


「長老、伝説の妖精が現れたのが嬉しいことは分かりますが、少し落ち着いてください。妖精様が困っているではありませんか」

「しかし……」


 言いよどむ長老。周囲の人々も興奮を抑えきれない様子だ。ここ数年苦渋を舐めてきたユルグを思えば、当然のことだろう。それは、神官もよく知っていることだった。

 だが、だからこそ、彼はここに来た小さな少女とクジラにきちんと話を聞かなければならない。彼らが、本当に伝説の通りの存在なのか、ユルグを救ってくれるのか知るために。

 神官は、手にした杖を地面に強く打ち付けた。まだ年若い男ながら、その威圧はその場の空気を震わせるほどに力強い。彼は人々を安心させるように瞳を和ませ、けれどその威圧に相応しい朗々とした声で話した。


「今は、妖精様を客人としてもてなすべきです。まずは落ち着ける場所を用意して、私が彼らと話しましょう。……神官として、必ずユルグを良い方向に導いて頂けるように話してきます。どうか、信じて頂けないでしょうか?」


 神官が深々と頭を下げる。人々は彼を見て、互いに目配せしあった。暫くして、張り詰めた空気を解すように長老が一歩前に進み出た。


「頭をお上げください、神官様」


 長老は好々爺とした笑みを浮かべ、己よりずっと年下の神官に丁寧に礼を尽くした。


「ユルグが天空塔に虐げられ続けても我らが希望を失わなかったのは、一重に世界樹様と我らが母への信仰を訴え続けて下さった神殿の方々のおかげです。神官様は自らも争いで先代様とお母様を失いながら、我らを親身になって気遣って下さった。そんな神官様を、我らが信じないということがありましょうか」


 長老の言葉に、後ろに並ぶ人々もそろって同意した。にこにこと微笑む彼らの優しさに、神官が堪えきれなくなったかのように、腰を曲げ自分よりずっと小さくなってしまった老爺をぎゅっと抱きしめる。


「私は、当然の務めを果たしているだけです。私こそ、いつまでも子供のまま、貴方方に頼ってばかりで……」

「……子供でいたければいてもいいんじゃ、ウルト」


 不意に長老は、昔の口調で神官――ウルトに語りかけた。


「お主は立派に務めを果たしておる。じゃが、わしはたまに心配になる。優しく生真面目なお主が、焦って大人になろうとしてるのではないかとな」

「そ、そんなことは……!」


 反論しようとした拍子に、ウルトの腕が緩む。長老はその腕を捕まえて、大きく見開かれた深緑の瞳を見つめた。


「じゃが、今のお主は『神官』として在りたいんじゃな?」


 長老の問いに、ウルトは深く顎を引いた。


「はい。私は神官です。両親の思いを受け継ぎ、世界樹様をお守りし、ユルグの民を支えたいのです」


 はっきりと言ったウルトに、長老は再び優しい笑みを返した。


「だったら、それを信じるのが我らの役目です。神官様、迷うことなく貴方様が信じる道を進んでくださいませ。それこそが、世界樹様のお導き。我らユルグの民の希望の道となりましょうぞ」

「――はい!」


 ウルトが再び大きく頷く。長老も、取り囲む人々も穏やかに微笑んでいる。


 ――その一連の様子を、アルテミシアとアルバートは静かに眺めていた。


 アルテミシアは、ウルトと呼ばれていた神官を見た。彼は今、人々の中心で照れたように微笑んでいる。威厳に満ちた様子から一転、年相応の青年になったようだった。長老と、きっとずっと親しんで育ったのだろう。彼らの会話は、もう殆ど覚えていない祖母との思い出すらも蘇るようで、アルテミシアの胸をほんのり暖めた。

 同時に、ウルトが両親を争いで亡くしたことがずっしりとのしかかってきた。ユルグの民は、もう何年も天空塔に搾取され続けているらしい。そういえば、アガタも両親を亡くしたと言っていた。

 彼らは長い間、辛い日々を送ってきたのだろう。「伝説の妖精」を希求するほどに。けれど、アルテミシアは伝説とは違った存在だ。

 今の自分に、ユルグを救う力はない。けれど、できることはしようと思っていた。エリュシオンに帰った時、きちんと救うことができるように。


「やっぱり、綺麗な街だね」


 不意に、アルバートが囁いた。アルテミシアは彼の大きな口に頬を寄せ、くすくすと微笑んだ。


「そうね。今までで一番好きな場所かも。けれど、きっともっと素敵になるわ」


 アルテミシアは笑顔を交わす人々を見た。みんな泥だらけでやせ細っている。けれどその眼は輝き、揺るぎない希望と誇りに満ちていた。まるで、暗闇を照らそうとする炎のように。


 それは、まさにこの街の異名「太古の炎を識る街」の通りに。


 アルテミシアは眩しさに目を細めながらも、きらきらと輝く街の姿をいつまでも眺めていた。

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