ep14. 合歓の木の花が導く旅路を


 朝の青い光に満ち爽やかに透き通った空を、一頭のクジラが渡っていく。

 アルテミシアとアルバートは、ティル・ノグの上空をユルグに向かって移動していた。

 ツァイトはいない。本当は彼を待って一緒に行くはずだったが、アガタが強く反対したのだ。

 彼女は、アルテミシアが探している人物が天空塔の人間だと知るとさっと血相を変えた。肩を怒らせ、とても強い、けれども震える声で訴える。

 

 『あの塔の人についていってはいけません! ましてや、ユルグに連れていくなど……』

 

 強く主張するアガタに驚きつつ、アルテミシアはツァイトの事情について一応弁解を試みた。彼が天空塔に滅ぼされたウィステリアの生き残りであり、塔に対して恨みを抱いていること。アルテミシアとアルバート助けて、ティル・ノグに連れてきてくれたことを。

 しかし、それらを話しても彼女は首を縦に振らなかった。

 

 『それでもいけません。塔の人は信用なりませんし、国の人達もみんなそう考えています』

 

 そこまで言ってから、アガタは僅かに視線を落とした。アルテミシアに強く反発しているというよりは、どこか申し訳なさそうな表情で呟く。

 

 『あたしも、アルテミシア様が言うのでしたらその人を信用したいと思っています。ですが、良い人であっても……いえ、だからこそユルグには来ないほうが良いと思うんです』

 

 ユルグは天空塔の支配を厭い、抵抗し続ける国。そこに住む人々も塔を毛嫌いしている。アガタがアルテミシアの話を信じてツァイトを信用してくれたとしても、そこに住んでいる人々が信じてくれるとは限らないのだ。恐らく、彼らもツァイトも嫌悪感だけが残る結果になる。アガタはそれを危惧してくれているのだろう。

 アルテミシアはそのことに感謝し、何よりも彼女が信じてくれたことを嬉しく思った。だからこそ言い返すことなく素直に頷き、しかし別の事情に頭を悩ますことになった。ティル・ノグを出る方法である。

 正面切って門から出ることはできない。もうすぐティアは終わってしまうし、ティアであったとしても流石に関所の警備はしっかりしてあるはず。

 

 『僕が飛んで越えるのは?壁の高さがどれくらいあるのかは知らないけれど……。この国の人は恐らく森林クジラであるエリュシオンを知らないんだ。きっと地上の人からは見えないくらいには高く飛べるんだと思うよ』

 

 アルバートはそう言ってくれたが、アルテミシアは首を振った。それでも、見つからないかは五分五分といったところだろう。今までならば、天空塔に行くことが目的だったので、いっそ見つかって連れて行ってもらえるのならそれでもいいと思っていた。しかし、今はアガタから預かったものがあるのだ。彼女のために、無事に届けてあげたい。そのためにも、ここで見つかるわけにはいかないのだ。

 その時、アガタがおずおずと何かを差し出した。

 

 『これ、使えないでしょうか……?』

 『それは、魔法陣……?!』

 

 アルテミシアは驚いた。彼女が見せたのは、「気配喰い」の魔法陣だったのだ。

「気配喰い」は召喚魔法陣とよく似ている。ただしこれが召喚できるのは、人の気配を喰らう不思議な生物だけだ。

 彼らは植物の姿をしていると言われる。或いは、虫のような姿をしているともいう。どちらも噂に過ぎず、真偽がはっきりしないのは、彼らが魔法陣の外へ出てくることがないからだ。

 人工的に作られた生物と言われているからか、生育環境に条件があるからか、彼らは魔法陣という門が開いても這い出ることはない。ただ門の奥で口を開け、周囲の生物の気配を喰らうだけ。

 召喚も難しく、魔法陣がなければほぼ不可能。魔法陣があったとしても、それで気配喰いを召喚できる者は少ない。生物として奇想天外が過ぎるので、陣を前にしても想像できないのだ。名前を知っている者もごく僅かだろう。

 そこまで考えて、アルテミシアは首を傾げた。

 

 (あれ? なら、何故私は知っているのだろう?)

 

 エリュシオンでの平和な生活の中では、使う機会のない魔法のはず。あるいは、森での生活の知恵として祖母に教わったのだろうか。

 とにかく、今はそのことは後回しにするべきだ。アルテミシアは軽く頭を振り、アガタの方に向き直った。

 

 『アガタ、これどうしたの?』

 

 彼女はごくっと息を呑むと、恐る恐るといった様子で呟いた。

 

 『えっと、貰ったんです。その子はあたしなんかよりもずっと辛いことをしてて、でもとっても優しくて……。これも、あの子がお仕事のために貰ったそうです。もし何かあったら、これを握って世界樹様――あたし達が信じる存在です――に祈れって。そうしたらきっと逃げられるからって言っていました』

 

 召喚はその人と縁があるものか、願いを叶えるために適した存在を喚びだす。アガタが「逃げたい。隠れたい!」と必死で願ったなら、もしかしたら気配喰いを喚ぶこともできるかもしれない。彼女に魔法陣を渡した人物も、それを期待したのだろう。

 しかし、そんな大事なものをアガタはアルテミシアに渡そうと思ったのだ。妹と弟に小包を届ける、その力になるのならばと。

 アルテミシアは、暫しじっと魔法陣を見つめていた。が、不意に手を伸ばすと小さな声で囁いた。

 

 『【映して。移して。貴方のその素敵な姿】』

 

 再び、仄かに紅い光。それが収まった時、アルテミシアの手に小さな羊皮紙がつままれていた。アガタの手にあるものと同じ。そう、魔法陣のコピーだ。

 目を大きく見開くアガタに、アルテミシアはにっこりと微笑んでみせた。

 

 『ありがとう、アガタ。有難く使わせてもらうわ。でも、そっちは貴女が持っていて。大切なお友達のためにも』

 『は、はい!』

 

 アガタは瞳を潤ませて、大きく頷いた。

 そして二人はアガタと別れ、ティル・ノグとユルグの境付近まで来たのだ。

 

「アル、いける?」

 

 アルテミシアがアルバートに囁く。これから彼は、流れる雲のさらに上まで飛ぶことになる。同時にアルテミシアが魔法陣を使い、衛兵の目を欺きながら眼前の壁を越えるのだ。

 巨大な灰色の壁の威圧を前にしても、アルバートは動じない。彼は頷こうとして、不意に「ミーシャ」と声をかけた。

 

「僕を大きくしてくれないかい? 空の上は風が強い。ミーシャも、ちゃんと乗った方がいいと思う」

「分かったわ」

 

 アルテミシアは、アルバートを抱き締めるように頬を寄せた。ほとんど零距離から、優しい声で囁く。

 

「【貴方が、誰よりも大きく優雅であるように】」

 

 そよ風のような声とともに、アルバートが緋色の閃光を纏う。大きくなった彼の胸びれによじ登ったアルテミシアは、背中に生えた巨大な合歓の木を見上げてわっと声をあげた。

 

「ミーシャ?」

 

 不審に思ったアルバートが問いかける。アルテミシアは彼の背中を駆けながら、弾んだ声を上げた。

 

「アル! 貴方の背中に生えてる合歓の木に、花が咲いているわ!」


 嬉しげな叫び声と同時に、ざわざわと海鳴りのような音がした。揺れる葉陰に、綿毛のような桃色の花。アルバートの背に生えた合歓の木の花が、一斉に花開いていたのだ。

 白から薄桃、そして華やかな皐月色アザレへ。長いおしべが扇状にふんわりと広がり、桃に似た甘い香りを纏う。胸いっぱいに芳香を満たし、アルテミシアは感嘆の溜め息を吐いた。


「綺麗……」


 よく見ると、枝葉の陰にまだ固く小さな蕾が幾つも見つけられた。まだ咲き初めなのだ。これから次々と咲くのだろう。そう考えるとわくわくした。


「そうだわ! ついでにこれも……」


 うきうきと三つ編みを揺らすアルテミシアが取り出したのは、ヴァンデに貰ったお家。合歓の木の下に置いて大きくし、落ちないように魔法で固定すると、丁度ぴったり収まった。

 喜びを頬に浮かべたまま、彼女は家を上から下まで眺めた。外観はエリュシオンにあった家とよく似ている。丸太に見立てた太い枝の壁に、艶やかな赤い屋根が可愛らしい。煙突はないが、代わりにクジラの形をした小さな風見鶏がくるくる回っている。

 焦げ茶色の扉を開けて室内へ。階段が吹き抜けになっている二階建てで、そこまで広いわけではないが、ひとりで暮らすには十分だ。一階にはテラス、二階の寝室には大きな出窓もある。窓を開ければ、心地良いそよ風に香る合歓の木の花を見ることができた。

 ぐーっと首を伸ばして、窓から抜けるような青空を見上げる。と、その時、アルバートの声が聞こえてきた。


「ミーシャ! そろそろ上がるけど大丈夫かっ?」


 空に吼えるようなアルバートの声に、アルテミシアも笑顔で叫び返す。


「大丈夫―! 行きましょう、ユルグへ!」


 次の瞬間、強い空気抵抗とともにアルバートが遥か上空へと舞い上がった。

 吹きつける強風。驚いて飛び去っていく鳥の群れ。千切れ飛ぶ雲または雲の波。立ちはだかる壁を越えて、まだ見たことのない場所へ。

 アガタに貰った魔法陣を握り締め、小声で詠唱しながら、自分達を隠してくれることを、無事にユルグに辿り着くことを強く願う。

 不安はある。けれど、まだ見ぬ場所への期待の方が大きかった。合歓の木の花の優しい香りを纏う素敵な森林クジラが一緒なら、どこに行ったって怖くないと思えたから。

 風が歌う。新たな旅立ちの歌を。それが希望への道筋か、絶望への序章かは未だ神様さえ預かり知らぬことであった。

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