ep13. 疑惑と少女の願い
いつの間にか、目を閉じていたらしい。
目を開くと、闇を映す空と白い尖塔が見えた。ティル・ノグの大図書館内にいたはずのアルテミシアは、建物の脇でアルバートにもたれて眠っていたようだ。胸びれを伸ばし、柔らかな白いお腹を見せたアルバートは、まだ寝息を立てている。アルテミシアは、彼を起こさないようにそっと身を起こした。未だ沈黙の海に沈む街をぼんやりと眺める。
図書館であったことは、まるで道端での眠りの中で見た夢の出来事のようだった。深い森に似た書架。詠うような精霊の声。未だ鼻に残る濃密な緑の匂い、その間をひっそりと漂っていた古いインクの残り香だけが夢と現の境界を繋ぐ。
開いた書物に綴られた文章を思い出す。占い師が捲るカードのように、少しずつ明らかにされた過去と
『【残されしひと枝の娘よ、堕ちた魔女の罪そのものよ。よくぞここまでたどり着いた】』
男とも女とも知れない不思議な声音が耳元で再び聞こえた時、胸元にしまった小さな羊皮紙がかさり、と音を立てた。まるで、あの時あった全てのことは現実だと主張するように。
その時、背後で何かががさりと音を立てた。びくりと肩を震わせて振り返ると、アルバートが目を覚ましていた。揺らめく合歓の木。大きく口を開けて欠伸をした彼を見て、思わず笑みが溢れる。
アルテミシアは、アルバートの背中に広がる小さな草原に再び頬を寄せると、明るい声で囁いた。
「おはよう、アル」
アルバートはアルテミシアの方に視線を向けると、ゆっくりと瞬いた。
「おはよう、ミーシャ。ここは、図書館の外か……?」
不思議そうな声。どうやら、アルバートもいつ図書館を出たのか覚えていないらしい。
アルテミシアは頷こうとして、そこでようやく一緒にティル・ノグに来たはずの人がいないことに気がついた。
「あら、ツァイトはどこに行ったのかしら」
アルテミシア達をティル・ノグに連れてきてくれたツァイトが、どこにも見当たらなかったのだ。
確か、彼とは蔵書室に入った時に離れ離れになったはず。精霊曰く無事ではあるようだが、一体どこに行ったのだろう。
周囲を見渡す限り、人の影はない。街全体を支配する静寂も未だ続いていることから、まだティアが終わっていないと考えられた。
アルテミシアはヴァンデから受け取った鏡と家があることを確認すると、アルバートに言った。
「とりあえず、ティアが終わって人が増える前にツァイトを探しましょう。彼がいないとティル・ノグから出られないし」
「ここには天空塔が無かったから、早くセルティノに行かないといけないもんね」
アルバートはすぐに同意し、アルテミシアを再び胸びれに掴まらせて浮き上がった。
暁を間近に控えた小暗い街を進む。僅かに白む東の空からの光に払われて、星の光は既に殆ど見えなくなっていた。立ち込める乳白色の霧が街の全てを曖昧なものに変え、かき分けて進むたびに異界に迷い込むような心地がする。眼下に見える石畳すらきらきらと輝く様子はとても美しいがどこか不気味で、アルテミシアはアルバートにぎゅっとしがみついたまま、時折現れては消える人影を不安と期待を込めた瞳で見つめ続けた。
しかし、ツァイトはどこにも見つからなかった。空はますます光に満ち、徐々にその色を濃くしていく。霧が僅かに晴れ、白亜の建物や丈夫そうな石壁、立ち並ぶ細い街路樹の姿が明るみに晒されていく。そうしてティル・ノグの街の姿がはっきりと見えてきたことで、同時にこの街の不可解なことも分かってきた。
アルテミシアは汚れ一つない建物の壁に触れながら、不思議そうに呟いた。
「この街、お店や民家がほとんどないのね」
どこを見ても、立ち並ぶのは教会、宗教施設、それに図書館だけ。アスティリエのように、昼間は露店が出るのかもしれないが、それでも商店も民家も一軒も見当たらないのは異常だった。ましてや、この街も元々はひとつの国。セルティノと協調するまで、ティル・ノグも独立した国として機能していたはず。それが統一によってか、生活感を感じさせる建物の一切を失っている。歴史上強国であったことは間違いないと思われるのだが、一体どのような国だったのだろう。
おかしいのは建物だけではない。ティアであるとしても、街全体に大きな違和感があった。……何というか、綺麗過ぎるのだ。
磨かれた石畳にはゴミひとつなく、野良猫どころか鼠の一匹も見つからない。壁は白く滑らか。街に唯一流れる川も、夜明けの光を浴びて水底まで透き通る。裏路地を覗いても、家なし子が身を寄せていることも、浮浪者が蹲っていることもない。
アルテミシアはそれらの事実を見つめながら、頭痛を堪えるような表情で呟いた。
「変だわ。アスティリエにはお腹を空かせている人が沢山いるのに。ツァイトがそう教えてくれたから、助けようと思ったのに。街によってこんなに違うの?」
「ミーシャ……?」
戸惑いを帯びたアルバートの声で、アルテミシアははっと我に返った。二、三度瞬き、ゆっくりと首を傾げる。
「私、今何を……?」
その時、脳裏に閃く記憶があった。
それは、大空を泳ぐ無数のクジラ。舞い散る七色の花弁と共に旅に出る彼らを、『私』は唇を噛み締めて見送っていた。
掟を破ってしまったことを、本当は分かっていた。それでも、大切にしてくれた人を裏切ってでも助けたかった。『私』は魔女なのだから。他の人にはできないことも『私』にはできるのだから。
『そう、魔法は、誰かの願いによって生まれるものなのだから……』
決意にも似た優しい囁き声が聞こえた気がして、アルテミシアはびくっと身を震わせた。誰か分からない声。自分の記憶の奥底から聞こえる、自分ととてもよく似た声。
(この声は誰?この記憶は、本当に私のもの……?)
心細くなったアルテミシアが、アルバートにぎゅっとしがみつく。その時、ケープの内側から黒く光る何かが覗いた。中央に黒曜石が嵌った、魔法陣が描かれた板。ヴァンデが渡してくれた鏡だ。アルテミシアはふと、彼が初めて鏡を見せてくれた時に言っていたことを思い出した。
『悪しきものを跳ね返し、術者の本当の姿を見せる鏡』
(この鏡なら、私の本当の姿を見せてくれる?)
魔法を使うと、透き通る黒曜石。いつも何かが映るのは見えるのだが、何が映っているのかは分からない。この石に映っているのが、自分の本当の姿なのだろうか。
アルテミシアは、鈍く光る石にそっと手を伸ばしてみた。指先で軽く撫でた時、一瞬だけ全く光を通さない漆黒が淡くなったような気がする。夜闇を照らす月のような黄金色の光を帯び、水鏡のようにゆうらりと揺蕩いながら、石はその内に何か像を結んだ。じっと覗き込み、震えるように動く緑色を確かに見つけた時――。
「貴女、もしかして伝説の妖精さんですか?!」
背後から、甲高い少女の声に呼び止められた。
アルテミシアはびくっと肩を震わせると、ケープの内側に鏡をしまった。恐る恐る振り返った先にいたのは、夕陽を紡いだような明るい
アルテミシアは、突然言われた言葉に目を白黒させた。
「伝説の妖精さん……?」
全然聞き覚えがない。しかし、問い返す間もなく少女は興奮した口調でまくし立てた。
「やっぱりそうなんですよね! そのクジラ、銀ティルヤとは全然違う美しい姿! 伝説と全く同じですもの! ああ、本当にいたなんて……!」
「ちょ、ちょっと待って」
頬を上気させ、瞳をきらきらと輝かせる少女を、アルテミシアは慌てて止めた。彼女の前で大きく首を傾げてみせる。
「貴女は一体……? それと、その伝説について全然知らないのだけど、良かったら教えてくれない?」
少女はきょとん、と首を傾げた。が、突然はっと大きく目を見開いた。アルテミシアに向かって深々と頭を下げた。
「あたしとしたことが、本当にごめんなさい! あたし、アガタといいます。ユルグの出身で、そこの教会で働かせてもらっているんです」
スカートの両端を持ち、向日葵のような明るい笑顔を見せるアガタ。彼女はうっとりとした表情で、身振り手振りを交えながら「伝説の妖精さん」について話してくれた。
「ユルグに伝わる古い伝説があるんです。魔女の子供。クジラの背中に乗って世界を渡り、人々を助ける妖精達。彼らの物語は、ホーラノア大陸が生まれた時最初に起きた奇跡とも言われます。よくおじいちゃん達が話してくれて、その時に『これは全て本当のことなんじゃ』って言っていたけど、まさか本当に会えるなんて思ってもみませんでした!」
興奮で息を弾ませながら喜々として語るアガタに頷きながら、アルテミシアは今初めて聞いた古い伝説に思いを馳せた。ヴァンデもツァイトも、ティルヤ族について知っていた。ホーラノアでのティルヤ族とは、このように伝わっているということなのだろうか。だが、アルテミシアはティルヤ族が人助けをしていたという話を知らない。エリュシオンのことを思い返してみても、そういった思い出は特にない。そこだけ作り話だったということだろうか。
(あるいは、私が知らないことがあるのか……)
精霊との出会い、本当に自分のものか分からない不可解な記憶。そしてこの大陸とティルヤ族の関係……。次々と出てくる謎に頭を悩ませていたアルテミシアは、だから、アガタが興奮しつつも切実な表情でこちらを見つめていることに気がつかなかった。
再び、アガタが深々と頭を下げた。突然のことにアルテミシアはびくっと震える。彼女は頭を下げたまま言った。
「実は、妖精さんにお願いがあるのです。もしも伝説の通り人々を助ける存在ならば……。どうか、あたしのことも助けてくれませんか」
「貴女を……?」
アルテミシアが呟く。すると、アガタはスカートのポケットから何かを大事そうに取り出した。それは、丈夫そうな皮でできた、彼女の手のひらに収まるぐらいの大きさの小包だった。
「この中に、ユルグにいる妹と弟への、手紙と誕生日の贈り物が入っています。これを、あの子達に届けて欲しいんです」
「ユルグの?」
ユルグは、ウィステリアと並んでホーラノアの最南端に位置する街だ。ティル・ノグのすぐ南の小さな街。そう、ヴァンデが見せてくれた地図に書いてあった。最も、彼はかの国について何も話してはいなかったけれど。
アガタは両手で小包をぎゅっと握り締めると、人目を憚るように小さな声で囁いた。
「ユルグは元々、ホーラノアの他の国々とは違う人々が独自の暮らしを営んでいたのです」
それは、アガタを見ても分かることだった。ツァイトや、アスティリエで見た人々とは違う浅黒い肌。上手に話してはいるが僅かに感じる独特のなまり。元々、ホーラノアの全ての街は国だったというけれど、それでも彼女ほど異質を感じたことはなかった。
アガタは、首から下げた小さなペンダントをアルテミシアに見せた。彼女の親指の先ほどの木製の珠に、魔法陣にも似た不思議な文様が刻まれている。
「あたし達には、天空教とは違う信仰と誇りがあります。だから、天空塔がホーラノアの統一に乗り出した時も、おじいちゃん達は最後まで必死に抵抗しました。けれど、無駄だった……。結局多くの犠牲を払って得たのは、天空塔に搾取される街という現実でした」
「どうしてそこまで……」
唇を噛み、肩を震わせるアガタに、アルテミシアは思わず問いかけていた。どうして、そこまでする必要があったのか。ホーラノアは広い。所属したくない小さな国のひとつ、どうして見逃すことができなかったのか。
アガタは、ペンダントをかき抱くようにして囁いた。
「ユルグには、とても古くて大きな神殿があるのです。……彼らが『遺跡』と呼ぶ建物のひとつが」
アティリアの動力源である、アーキアの採れる場所。ヴァンデも言っていた。その採掘のために天空塔は、どんな建物も荒らしていくと……。ユルグの神殿も、その被害にあったらしい。
「その神殿は、あたし達の信仰の要でした。『始まりの樹の根』……それを守るのが、祖先からの使命であり、誇りだもの。だから今も反発を続けていて……。けれど、だからこそ天空塔は搾取を続けていて。生活に困った人が、こうして出稼ぎに出ているんです」
それは、悲劇とも呼べる歴史。けれど、アガタは嘆きながらも晴れやかな表情をしていた。
「あたしは、ユルグに生まれたことを後悔していません。ユルグの歴史も、おじいちゃん達が守ってきたものも誇りに思っています。天空塔が何を奪おうとしても、人の気持ちだけは絶対に奪うことはできないんですから」
深い海のような瑠璃の瞳は、消えることのない故郷への誇りに満ちている。
「出稼ぎにきたことも、そのためにあたし達とは違う神殿で働くことも、辛くありません。弟と妹を守れるのはあたしだけだもの。おじいちゃん達にも恩返ししないといけないし。でも、せめて誕生日ぐらいはお祝いしてあげたくて」
それは未だアルテミシアが知らない、兄弟への、姉としての優しさ。知らないからこそ彼女は、そんなアガタに憧れを抱いた。彼女の、困難にあっても強く優しくあろうとする姿を尊敬した。
小包を大切に持って、アガタは再び心を込めて頭を下げた。
「ユルグに荷物を送ってくれるような人もいないし、お仕事をお休みさせてもらうわけにもいかないんです。本当はこっそり行くつもりだったけど、それではおじいちゃんも弟も妹も喜ばないと分かっています。だから、お願いです。どうか、これをユルグに届けてもらえませんか?」
必死の形相で、アルテミシアに訴えるアガタ。アルテミシアは彼女に優しく微笑むと、ずっと黙って話を聞いていたアルバートにそっと声をかけた。
「アル」
それだけで意図を汲み取ったアルバートが、アガタに近づく。柔らかなお腹が彼女の手に触れる間際まで近づいた時、アルテミシアが小包に手を伸ばして囁いた。
「【小さき子は、今日も腕に抱かれて】」
そよ風にも似た優しい声が響き、小包が緋色の輝きに包まれる。アガタがはっと息を呑んで、自分の手を見つめる。
それもそのはず、彼女の手に収まる程の大きさだった小包が、いつの間にか首から下げているペンダントトップと同じくらいにまで縮んでしまったのだから。
アルテミシアは小さくなった小包を丁寧な手つきで持ち上げると、自らのケープの内に仕舞いこんだ。呆然とした表情のアガタを見上げ、花開くような笑顔を見せる。
「分かったわ。心配しなくても、私達が必ずユルグに届けるから」
「い、いいのですか?」
アガタが大きく目を見開く。アルテミシアは深く頷いた。
「あのね、私は今、自分の故郷を探しているの」
彼女が話すのは、故郷エリュシオンの話。絶対に帰ると誓っている、自分の居場所の話。
「私は、何があってもエリュシオンに帰らないといけない。それは決まっていること。でも最近不可解なことが続いていて、ずっと悩んでいたの」
多くの謎。アガタと出会う前まで感じていた、「自分が自分ではないかもしれない」感覚。エリュシオンには帰らないといけないけれど、それら不可解なことがアルテミシアの頭を悩ませ、道の先を歩むことを不安にさせていた。
「でも、だからこそ、貴女が輝いて見えたんだと思うの」
アルテミシアは心を込めて言った。ありったけの尊敬の念を込めて。
「貴女の優しさを、どんな悲劇に見舞われてもくじけないユルグの民の誇りを、私は尊敬するわ。私が、貴女の力になりたいの。だから、どうか私にこれをユルグまで届けさせてちょうだい」
アルテミシアの言葉を聞いて、アガタの瞳に涙が浮かんだ。透明な雫をぽろぽろ零しながら、繰り返し礼を言う。
「ありがとうございます! 本当に……本当に、どう感謝したらいいのか……」
アルテミシアは震えるアガタの手に自分の小さな手を重ねて、穏やかに微笑んだ。
「いつか、貴女が大切な自分の故郷に帰れることを願っているわ」
いつか再び、彼女が大好きな故郷へ帰れるように。けれどまずは、自分がエリュシオンに帰るために。そして必ず、故郷の人々に伝説のようにホーラノアの人々を助けるように言うのだ。伝説を真実に変える。新たな目標ができて、アルテミシアは期待と喜びで胸がいっぱいになった。
明け烏の声が響く。頭上いっぱいに広がる空の向こうには希望しかないと、この時のアルテミシアは信じて疑わなかった。
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