ep29. それが幸せと彼女は言った
「ティア」――ティルテリアの名前を口にするたび、ヴァンデは愛しげに目を細める。天空神と呼ばれた魔女。魔女のクローンとして生まれ、ティルヤ族を生み出し、天空塔に祭り上げられ、最後はヴァンデ自身の手によってその生涯を終えた女性。彼女についてヴァンデがそっと明かすのを、アルバートは知らず息を詰めて聞いていた。
酷く緊張していた。その理由は、多分彼も思い出していたからだろう。ヴァンデとティルテリアの出会いに重ねるように。アルテミシアと出会った、彼女がここに喚んでくれた、夢のようなあの春の日を。
語るヴァンデは、アルバートの追憶に気づいていなかった。人に教えるというよりは神に罪を告白するような感じで、ひたすら譫言のように呟く。
「あの日、俺はティアも殺そうと思った。それが、精霊の命令だと思ったからだ」
母親の血に濡れた刃を向けても、ティルテリアはきょとんと首を傾げるだけだった。魔女の予備として作られ、家から出ることなく過ごしてきた少女。そんな彼女の、生と死も知らないあどけない笑顔にヴァンデの毒気が抜けた。
思わず刃を下ろしティルテリアをまじまじと見つめた彼に、精霊は意外な言葉をかけた。
「奴らは、俺にティアを監視するように言ったんだ」
精霊は魔女のクローンであるティルテリアに異常な警戒を示した。彼らはヴァンデにティルテリアを監視させ、彼女が魔女としてどれほどの才能を持つのか調べるように言ったのだ。
「通常、魔女には魔物がつく。だがティアには魔物がつかず、俺がその役目を担うことになった」
本来の処刑任務もあるから常にとはいかないが、一番近いところでティルテリアを監視し、彼女が「魔女のクローン」としてどれほどの出来か調べる。それが、ヴァンデに与えられた指令。
そして、いつまでもヴァンデの心に鮮やかに残ったまま消えない、ティルテリアと過ごす日々が始まった。
「それは嘘にまみれた、あまりにも短い――けれど確かに『幸せ』な時間だった」
ティルテリアは、とても素直で優しい少女だった。最初からオリジナルの魔女に言われていたのだろう。ウィステリアの民を愛し、その守護と発展に尽力した。人々は突然現れた幼い魔女に始めは戸惑っていたが、次第にその存在を受け入れ、高度な知識と国を思う慈愛に敬愛の心を捧げた。母親から受け継ぐ持ち前の探究心も忙しい日々の中では鳴りを潜め、そのおかげかあの日を堺に精霊がティルテリアに対して何かするということもなくなった。
しかし、ヴァンデへの処刑執行命令は続く。そもそも彼は、ひとつの土地に留まることができない「渡りの魔物」。常に世界を巡り続ける
それでも幾度となく同じ屋根の下で過ごし、時には魔法使いの卵だったツァイトにどやされたり、ティルテリアとともに森の中を駆け回ったりするうちに、ヴァンデは己の心に知らない気持ちが湧き上がるのを感じた。
それは、長い殺戮の日常では感じることができなかった気持ち。酷く戸惑うが決して不快ではない、暖かく不思議な感情。
日々強くなる気持ちに驚いていた頃、ヴァンデは久々にティルテリアと再会した。
数年の月日を経ても変わらない笑顔を向けてくれる彼女は、しかしいつの間にか大人の女性に成長していた。長く豊かな金髪は陽の光を受けて艶やかに輝き、ほっそりとした身体も要所に女性らしいふくよかさが見られるようになった。
急激な変化にヴァンデは衝撃を受けた。まるで自分ひとりが置いてけぼりをくらったようだと思った。駆け足で出迎えてくれるティルテリアの前で思わず足を止めて立ち尽くした時、不意に彼女がヴァンデの胸に飛びついた。たたらを踏みつつも受け止めた彼に、顔いっぱいに弾けるような笑みを浮かべて言う。
『おかえりなさい、ヴァンデ!』
優しい声と目眩のするような暖かさに、ヴァンデは処刑の度に傷ついてきた己の心が癒されるのを感じた。同時に、あの不思議な気持ちも。
その夜、ヴァンデは庭先で星を見上げるティルテリアの元を訪れた。季節は二人が出会った冬に差し掛かろうとしており、凍えて澄んだ空気に無数の星が色とりどりの光を撒き散らしている。夜にいてなお太陽を幻視させる黄金色の光を纏い、鼻を赤くしながらも新緑の瞳を綺羅々と輝かせて空を見上げるティルテリアに、ヴァンデは温かな珈琲が入ったマグカップを渡した。
珈琲の原料となる豆の産地はホーラノア大陸より南方の国。ウィステリアで当たり前のように飲まれるようになった珈琲は、他国と盛んに交易ができるようになるほどこの国が強く豊かになった証だった。
その成長には、間違いなく隣にいるこの魔女も貢献している。日を追うごとに知識を高め、魔法もめきめきと上達したティルテリアは、それ以上に人々を想う優しさでもってウィステリアを支え続けた。助けを請われればどんな人物にでも分け隔てなく手を差し伸べ、災害のような危険があれば身を挺して国を守る。誰よりも献身的に国に力を尽くして魔女の務めを果たす彼女にヴァンデは密かに安堵し、子供の頃と同じように髪をわしゃわしゃと撫でて褒めたたえた。
『もう、やめてよヴァンデ! 子供じゃないんだから……』
非難の声を上げながらも、その顔は幼い娘のようなあどけない笑みに満ちている。ひとしきり撫で回した後、二人は並んで珈琲を舐めながら話をした。
話といっても、殆どティルテリアが喋ってヴァンデは聞いているだけだ。彼の任務は機密が多いので仕方がないことではあるが、それでもティルテリアは嬉しそうだった。ウィステリアで起きたこと、人々の暮らしぶり、新しく考えた魔法や道具など彼女の話題は多岐に渡った。
瞳を輝かせて嬉しそうに語るティルテリアだが、不意にその眼差しが遠くを見ることがあった。憂うというよりは、何か先を見据える真剣な瞳。このまま自分の手を離れてどんどん遠くに行ってしまいそうな彼女に、ヴァンデは震えた。
冷めてしまった珈琲の苦みが喉に残る。例えようもない不安を押し隠すように、彼はゆっくりと口を開いた。
ぽつりぽつりと呟いたのは、最近幾度となく湧き上がる不思議な気持ちのこと。珍しく自分から口を開いたヴァンデにティルテリアは驚いた様子だったが、次第に子供を見守る母親のような優しく穏やかな笑みを浮かべた。
一通り心の内を語り、口を噤んで俯いたヴァンデをマグカップを置いたティルテリアが抱きしめた。細い腕を彼の腰に回したまま、小さな子供に言い聞かせるようにゆっくりと囁く。
『それが幸せというのよ、ヴァンデ』
星の瞬きのように澄んだ声音が、ヴァンデの鼓膜を優しく震わせる。
『私は、貴方とウィステリアの人々に出会うことでその気持ちを知ったの。ヴァンデも幸せを知ったのね』
『幸せ……』
嬉しそうなティルテリアに抱きしめられたまま、ヴァンデは口の中でその言葉を呟いた。それは、長い時を生きてもなおヴァンデが知らなかったもの。ティルテリアが彼に教えてくれた、初めての気持ちだった。
「俺は、ずっと自分がティアを支えているつもりだった」
いつか精霊が再びティルテリアに目をつけないように、彼女を処刑しなければならなくなる日が訪れないように、ヴァンデは必死で幼い魔女を育てた。それこそ、半ば父親か兄のような気持ちでティルテリアを気にかけていた。
「でも、違ったんだ。支えられていたのは俺の方だった。いつの間にか、ティアは俺の幸せに、帰る場所になっていたんだ」
監視の後ろめたさを感じながらも、それでもティルテリアの住むウィステリアは確かにヴァンデの家だった。落ち着ける場所に帰る喜びを、そこで誰かと過ごす幸せをヴァンデは知ったのだった。
次第に熱っぽくなるヴァンデの昔語りを聞きながら、アルバートが思うのはやはりアルテミシアのことだった。彼らの幸せな日常を聞くたびに、忘れられない思い出で胸がつきりと痛んだ。
(ミーシャは、幸せだったのだろうか)
ヴァンデが幸せを知った話を聞きながら、アルバートは自問する。あの短い旅は確かに幸せだった。少なくともアルバートにとっては、アルテミシアと過ごした日々は何にも代え難い幸福だった。しかし、彼女はどうだったのだろう。理不尽に終わった旅でも、せめてほんの少しの幸せを与えられたのだろうかと。
遠い記憶に思いを馳せるアルバートを、一際低いヴァンデの声が引き戻した。
「……だが、幸福はそれほど長く続かなかった」
「何故?」
震える声に淡々とアルバートが返す。ヴァンデはひとつ息を吸い、苦虫を噛み潰したような表情で言った。
「ティアが、大陸の均衡を崩したからだ」
それが、幸せの崩壊の、そしてアルテミシアとアルバートが関わった全ての出来事の、始まりだった。
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