memory2. 春の森と優しい人々

 ウィステリアの春は、繰り返す四季折々の景観の中でも最も美しいと私は思う。

 夜明け。陽が昇ると同時に目覚める森。朝露に濡れた木々の葉と、蕾綻ぶ百花。滴る雫と甘い香りに寝ぼけ眼を擦る小鳥達の歌声で、ウィステリアの人々の朝は始まる。

 中央の王城から僅かに離れ、家もそこに住む人も疎らな場所であったとしても、夜明けの歓びと一日への期待が感じられる。毎日繰り返されるその光景を見るのが、私はとても好きだった。

 ヴァンデと出会った私は、自分の母親が魔女であったことを話され、彼と共に母が住んでいた家に住むことになった。


『魔女は、国と人々のために在るんだ』


 ヴァンデにそう言われ、家に遺っていたものから自分の魔女としての力を知った私は、望まれるままに己の力をウィステリアという国とそこに住む人々のために使うことを決めた。困っている人がいれば手を差し伸べ、彼らのより豊かな生活のために新たにできることを探した。

 それは魔女の使命だからというより、「ウィステリアの人々に何かしたくて」で始めたことの方が多い。母とよく似た容姿だったのもあったのかもしれないけれど、見ず知らずの子供に周囲に住む人々はとても良くしてくれた。ヴァンデが家を空けがちの中、彼らがいなければ私はきっとひとりでは生きていけなかっただろう。少しでもその恩返しができるのなら、私にできることをしてあげたかった。

 それに魔法を学び、見つけたことを役立てることで人々に喜んでもらえるのは嬉しかった。母が遺したものを元に新たなものを生み出すのはとても面白く、それを使ってウィステリアがより豊かな国になっていくのを見るのは子供心にも誇らしかったのをよく覚えている。


「今日もいい天気。川のほとりに住んでいるおば様、森でハーブを探したいとおっしゃっていたから良かった。来てくださるかしら」


 薄いアイボリーのカーテンを開け、部屋いっぱいに広がる朝の光に目を細める。少し離れたところに住んでいるがいつも気にかけてくれて、森に入るたびに綺麗な花や薬草を持ってきてくれるおば様のことを思い出す。何か面白いお話ができるといいな。そんなことを考えているだけで、朝の支度をする私の足取りは自然と軽くなる。ふんふんと鼻歌を歌いながら着替え、ショートブーツの足音も軽やかに階段を降りる。とん、たんと響く音に合わせて、家の周囲の木々が織り成す木漏れ日が屋内まで小さな葉っぱの模様で彩った。

 ウィステリアの人々は森と共に生き、森の恩恵を受けて生活している。それは、国土の中でも比較的開けた場所に城を構え、沢山の家が密集する中で暮らす人々も変わらない。森は沢山の恵みと自然の脅威、そして濃い魔力に満たされた異界の地。人々は未知との交流の中で魔法を知り、深め、自分達の生活に役立てることで克服してきた。それは人間の驕りも生んだ。が、全ての魔法やまじない、建国以前から続く風習に森や魔力と共存しようと努力した人々の痕跡が見えるのは純粋に愛おしい。

 いつも方々に広がって纏まらない髪を左右の三つ編みに分けた私は、昨日の夕食に作って残しておいたスープを温め直して朝食の用意をする。二人分。パンを盛る皿は空っぽだが、一緒に食べる人がすぐに持ってきてくれるだろう。

 その時、扉をノックする音が聞こえた。思わず頬が緩む。


「はーいっ!」


 自然と弾む声と共に扉を開ければ、期待していた通りの人がそこにいた。


「おはようございます、ティルテリア様」


 青みがかった柔らかな銀髪に、乱れなくきっちりと纏った白いローブ。細い銀フレームのモノクルが彼の生真面目な性格を思わせるのと対照的に、両手には雑多に袋に詰めたことで溢れそうなパンの山を抱えている。そんなややアンバランスな姿で現れたのは、私の幼馴染であり同じ先生の元で学ぶ魔法使いの卵。自称「魔女の守護者」を名乗るツァイトだ。


「おはよう、ツァイト。いつもそんなに畏まらなくていいのに。幼馴染なんだから」


 ローブのフードを取り、きっちり腰を直角に曲げて一礼するツァイトに私は苦笑する。しかし、彼は首を振って爽やかに微笑んだ。


「これが俺の通常ですから。それに、ティルテリア様に敬意を払うのは当然のこと。俺も父も貴女のおかげでより魔法の研究が進んでいるのですから、感謝してもし足りないくらいです」

「そんなの……。確かに貴方とオズワルド先生は私の魔法について聞いてこんな辺境まで来てくれたけど、今は私の方が学ぶことが多いくらいなのに」


 私は俯いて頬を掻いた。褒めてもらえるのは嬉しいけれど、そういう賛辞には中々慣れない。

 元々母はそう出歩く人ではなく、高度な魔法を使う魔女ではあったが国全体に名が知られているわけではなかった。だが周囲の人を助け、新しい魔法を作ることで、噂が広がって都の人も会いにくるようになった。その最初の人物であり、後に居を構えて訪れる人々の対応に奔走してくれたのが、時の賢者であるルドウィン・ディア・オズワルド先生と、彼の息子であり私と共に先生について魔法を学んだツァイトである。

 彼らは繰り返し母が遺したものの素晴らしさと、それを発展させる私の魔法のセンスを褒めてくれた。私は「神に愛されたような魔法の素質」を持つ「国の力をもって確実に護るべき存在」なのだという。繰り返し王都から会いにくる人の中には、王城での守護を勧める人もいた。

 そんな言葉を聞くたびに、私は戸惑ってしまう。褒められること自体は、誰かに知られることなく亡くなった母の研究も、それに追いつきたくて大切な人達の役に立ちたくて頑張った私の努力も認められているようでとても嬉しい。だが、幾分か過剰な気がするのだ。嬉しいはずなのに、時々都から私を訪ねてくれた人の目を怖いと思ってしまうことがある。

 それはきっと、私がまだ未熟だからだろう。ならば人々の賞賛に見合うような人物になれるよう、もっと努力しなければ。――そう、この時の私は思っていた。

 ツァイトが持ってきてくれたパンをお皿に並べてくれる。私は紅茶を淹れるために沸かしたお湯でカップを温め、残りをティーポットに注ぎ入れる。白いポットの中で舞う赤や橙の花弁が混ぜられた華やかな茶葉は、最近王都で流行っているというもの。いつか先生がお土産に持ってきてくれて私が美味しいと言ったら、ツァイトがお花の種類や混ぜ方を調べて教えてくれた。彼はどうやらその時少し紅茶の調合にはまったらしく、新しい花の組み合わせや淹れ方を試しては私に試しに飲ませてくれる。


『私にも飲ませて欲しいと言ったのですが、「ティルテリア様が先です」と言われてしまってね』


 先生がそう言って苦笑していたことも覚えている。先生の方が王都を頻繁に訪れるし紅茶の善し悪しも分かると思うのだが、私が「美味しい」と言うのをツァイトが喜んでくれているのだと思うのだと思うと素直に嬉しかった。

 紅茶以外にも、先生は王都に行くたびに様々なものをお土産に買ってきてくれた。先生はウィステリアの魔法使いの中でも七人しかいない「賢者」と呼ばれる凄い人。そのこともあって、いくら研究のためとはいえ完全に都を離れるわけにはいかないらしい。彼はそのことを気にしているようで、「一緒にいられない代わりに」と言って様々なお土産を持ってきてくれる。だが、私はそんなものより王都に行くまでの旅路や煌びやかな都の様子などの土産話の方が好きだった。


(いつか、私も実際に見れたらいいな)


 王都で護られるとかそういうのではなくて、都やウィステリアの様々な場所を自分の目で見て肌で感じることができたら。もっと色々なものを見てみたいと、この小さな家で何度思ったか分からない。

 だが、私はそれが難しいことも理解していた。私がこうして平穏に暮らすことができているのは、先生とツァイトという王都の優秀な魔法使いが「守護している」からだ。彼らの口添えがなければ、私はすぐさま王城の頑丈で衛兵だらけの部屋に「招待」されていることだろう。

 幸い、この辺境の森での暮らしは単調だが幸福なものだ。優しい人々と母が遺した沢山の魔法の研究。私は十分過ぎるほど幸せに暮らしていると思う。それでも捨てきれない憧れに手を伸ばすように、先生の語る旅の記憶に自分を重ねて思いを馳せるのだった。

 カップに紅茶を注いでテーブルに並べる。全ての支度を整えて椅子を引いた時、私に向かい合って座ったツァイトが言った。


「そういえば、もうすぐ父さんが帰ってきますよ」

「本当っ?」


 思わず食事に手を伸ばすことも忘れて身を乗り出す。ツァイトはパンにナイフでバターを塗りながら笑顔で言った。


「はい。遅くとも明日の朝には着くと魔法で書簡が届きましたから」


 ツァイトも久々に父親に会えるのが嬉しいのだろう。いつも冷静沈着な声が珍しく弾んでいる。だが、不意に彼はがっくりと肩を下げた。


「父さんが帰ってくると忙しくなるので、あまりこうして食事できなくなるのが残念ですが……」

「ツァイト、先生のお食事も用意しないといけないもんね。魔法の勉強もあるし仕方ないわ。先生がいない間ご相伴してくれただけでも有難かったもの、気にしないで」


 先生が帰ってきてからのツァイトの苦労を思い、私は苦笑しながら首を振った。

 先生は本当に凄い魔法使いだ。様々な魔法を生み出すセンスを持ち、特に時の魔法は他のどんな魔法使いも彼に及ぶ者はいないとされている。他人ひとに教えるのもとても上手い。だが、先生にはひとつだけ欠点があった。家事能力が壊滅的なのである。

 王都にいるときは、王城で他の人といるからまだいい。だがひとりになると掃除・洗濯はもちろんのこと、数日水も浴びず食事も摂らず研究に没頭してしまう。そんな先生の世話をあれこれ焼き、集中し過ぎて食事を忘れていたなら頭を叩いて口に無理やり押し込むツァイトといった構図が、オズワルド家の日常風景となっていた。

 その苦労をよく知っている私が、これ以上ツァイトに迷惑をかけるわけにはいかない。ヴァンデが暫く家を開けていて寂しかった時に、同じく父親が出ていてひとりで食事をしているツァイトが一緒に食べてくれるだけで有難かったのだ。

 それに、私にはひとつ予感があった。


「もしかしたら、もうすぐヴァンデも帰ってくるかも」


 内緒話をするように口に手を当てて囁く。ツァイトは訝しむように眉を寄せた。


「何で分かるんですか。あいつ、手紙を出すようなマメな性格はしていないでしょう」

「勘!」

「ティルテリア様……」


 ツァイトが眉を下げて苦笑する。彼は呆れているようだが、侮らないでほしい。私の勘は結構よく当たるのだ。今日はいつもとは少し違う日になって、きっと夜にはヴァンデが帰ってくる。そんな確信めいた思いが私の中にあった。


(「いつもと違う日」がどういうものかは分からないけれど)


 何も変わらない、単調だけど幸福な日常。もしかしたら、今日起きることはそれを大きく変えてしまうできごとなのかもしれない。

 せめてウィステリアと大切な人は幸せに、平穏に暮らし続ければいい。私は紅茶で喉を潤しながら、そう願わずにはいられなかった。

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私達は「人形」じゃない。~Genesis of Arcadia Whale~ 潮風凛 @shiokaze_rin

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