断章 Tylle te Lia
memory1. 始まりは雪の祝福を
真っ白な空間に黄金色の光が満ちていく。その色はアルテミシアに贈ったサンダーソニアのものか、それともずっと夢見ていた黄金のドラゴンのものだろうか。
怯える心を振り切り、アルバートの声が導く方へ駆けていく少女の背をティルテリアは見送った。
新しい、小さな魔女。彼女のことが羨ましいとは思わない。ティルテリアは罪を犯して罰を受けたのだから、世代交代は当然だ。ただ、アルテミシアがホーラノアの未来を担う新たな魔女になることを嬉しく思う。
(私にも、少しでも繋げられるものがあるのなら)
何度も後悔した。あどけない
金に輝く髪を靡かせ、ひたむきに駆けていくアルテミシアは在りし日のティルテリアを思い出させる。人々の優しさに包まれた少女時代。複雑な世間と自分の弱さを思い知った日。長い年月が経った今でも鮮やかに甦る辛くも愛しい日々を、ティルテリアは思い出していた。
*
始まりは暗闇だった。
明かりひとつない真っ暗な部屋は、幼い私が両手を伸ばすと壁に当たってしまうほど狭い。人の気配どころか生き物の気配すらないその場所でたった独り座り込んでいた私は、けれど少しも寂しいと思わなかった。外で誰かが見守ってくれていることを、いつかきっと自分も外に出られることを分かっていたから。
ひよこが卵の外を夢見るように、蝶が蛹の向こうを思い描くように、私は扉のない部屋の向こうを想像した。いつも見守ってくれる人の姿は分からないけれど、「彼女」の声も気配もいつも優しくて、きっと外は暖かくて素敵な場所なのだと思っていた。
まさか、「彼女」――母が亡くなることで外に出られるとは思っていなかったけれど。
そして、私の運命が始まる日が訪れる。その合図は、無いはずの扉の鍵が外れる音だった。
「えっ……」
カチャンと響いた音に、私は驚いて顔を上げた。初めて出した声は酷く掠れていて、とても聞けたものではなかった。が、元より聞くような人はどこにもいない。両手を伸ばした先の壁もなければ、ずっと見守ってくれていた人もいなかった。何も分からないまま、唐突に私の視界は真っ白な光に包まれた。
一瞬、光の眩しさに思わず目を閉じる。が、慣れる間もなく再び開こうとしたのは、今まで感じたことのない冷たさが瞼に触れたから。
「……っ」
再び、ひやりとした触感。今度は姿もはっきりと確認した。空から舞い降りる白い小さな粒が肌に触れた時、思わずぴくっと震えてしまうような冷たさを感じるのだ。
この時の私は、まだ雪というものを知らなかった。今までいた暗い部屋はとても小さな世界で、しかも私はそこが小さく狭い場所であるということを理解していなかった。傍から見たらどんなに小さな部屋だったとしても、私の中ではそこと見守る母だけで自分の世界が完結していたのである。
それが突然見渡す限り白と銀の光に包まれた場所に放り出され、頼みの母はどこにもいない。何もかも手探りなこの状況でおっかなびっくり立ち上がった私は、とりあえずどこかへ歩いていくことにした。
(どこかへいけば、きっと「あの人」にも会えるはず)
顔も知らない、だがずっと見守ってくれた人を想って私は深く頷いた。もう死んでいるなんて考えもしなかった。本来なら自分が目覚めた理由や今後の生きる術についての指標が沢山遺されているのであろう、背後にぽつんと建つ家を見ることもなかった。何も分からないまま、何かを理解するために、しんしんと降る雪の中を歩き始めた。
厚く積もった雪は所々柔らかいところがあって、何度も足を取られて転んだ。多分母は私が雪の上どころか、家に背を向けて外を歩くことも想定していなかったのだろう。身に纏う服はネグリジェのような薄いワンピース一枚。靴どころか靴下すらも履いていない裸足はあかぎれと霜焼けで簡単に傷つき、白銀の地に赤い跡を点々と残した。
私が放り出された場所は、深い森の中だった。夜明けの木立。雪を避けて枝で羽を休める小鳥が、少ない食べ物を求めて徘徊する痩せた鹿が、足を引き摺るようにして歩く幼い少女の姿を興味深そうに見つめている。初めて見る彼らの姿に興味を惹かれることなく、私はただ真っ直ぐに歩いた。舞い降りる雪に全身を濡らしながら、進む道の先に求める者がいると信じて。
どのくらい歩いたのだろう。私は沢山歩いたように感じたが、距離としてはそれほど長くなかったように思う。何度も雪の中に倒れこんだ。足どころか全身が震えて使い物にならず、舞い降りる氷片は容赦なくその量と鋭さを増していく。それでも歩いた。何も見えない。何も見つかっていない。あの人にまだ会えていない。そのまま立ち止まるという選択は無かった。
そう思っても、進むことができる距離はどんどん短くなっていく。歩きたいのに、もう足が動かない。歩くことができない。そう思った時、目の前にのっそりと歩く蒼と黒の大きな人が現れた。
蒼いのは背まで届く長い彼の髪で、黒いのはこれまた引き摺るほどに長い外套だった。全身を私と同じように雪と血と泥で汚し、同じように疲れきった様子で腰を曲げてふらふらと歩く男。母を殺すためにウィステリアを訪れ、その殺害を終えたばかりのヴァンデである。
もちろん、当時の私はそれを知らない。ただ、突然現れた男に驚いていた。彼は一体誰なのだろう。それは分からなかったが、疲れきった姿は自分と同じように沢山歩いてきたことを感じさせた。時折傾ぐ身体は自分よりずっとへとへとに見えて、私は思わずヴァンデに手を差し伸べた。
その時になって、ヴァンデはようやく顔を上げて私を見た。彼の
「お前は……?」
ヴァンデは一言戸惑うような声を上げた。少し間抜けた感じに口がぽかんと開く。が、直後彼は俯いて溜息を吐き、表情を消した。一切躊躇う素振りを見せず、腰に差してあった細長い銀の刃を抜く。その刀身は赤黒く汚れ、曇っていた。母を殺したばかりの刀。
だが、やはり私はそれを知らない。だから鋭い刃には目もくれず、ただヴァンデを見つめていた。冷たさとほんの少しの哀しさを滲ませた、美しい瞳のひとを。
ヴァンデはあの日の私を、「刀の怖さも、生も死も何も理解していないのが哀しかった」と語る。同時に、もしそれを理解していたなら自分の手を取らなかっただろうと思っている節があった。
――だが、本当にそうだろうか。
私も考える。例えば普通の子供のように母と過ごしている日常を。出掛けた母が殺され、目の前にいるヴァンデがその犯人だと知っている可能性を。
もしかしたら、私はヴァンデを怖がったかもしれない。怯え、怒り、力の限りその胸を拳で殴ったかもしれない。そんな想像ができるくらいには、今の私は人が家族に寄せる想いを知っている。大切な人が側にいることの温かさを、その人を亡くしてなお心に燻る熱を知っている。
だが、それでも私は握って暖めたいと願ったはずだ。大きく怖い身体の端で隠れるように覗く、寒さに震える小さな手を。
(それこそが、彼の本質だと思ったから)
木々を覆う氷のような鋭く冷たい雰囲気の中に、必死に隠している暖かな春の息吹のような優しさこそが。
厳寒の頃、吐く息も凍る季節。私達はこうして出会った。精霊と何か言葉を交わしたヴァンデが、刀を納めて私に手を差し伸べる。私は喜んで飛びついた。精霊と何を話していたとか、どういう理由でとかはあまり気にならなかった。ただ雪の中、歩くことができなくなった私の傍にある手が嬉しかった。もう少し、歩けそうだと思った。
理由を知った今も、あの時の喜びは忘れられない。
「一緒に帰ろう。これから、俺とお前が帰る場所へ」
その言葉を貰った時の嬉しさを、忘れられない。
だから今でも、あの日の雪は祝福だと信じていた。これから、どんな運命が待っていたとしても。
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