ep35. そこは幸せではなかったかもしれないけれど

 ツァイトと時を同じくして、アルバートもまたヴァンデから聞かされた魔力の瘴気化の真実に驚きを隠せずにいた。

 すっかり冷めてしまった珈琲のカップに口を付けるのも忘れ、アルバートは溢れ出る想定外の事実の数々を処理しきれずに俯いた。対するヴァンデは、ただ静かにカップを傾けている。その真夜中色ミッドナイトブルーの瞳からは、何の感情も窺うことができない。

 ぐるぐると頭の中を巡る情報に目を回していたアルバートは、混乱を鎮めるために一度両の眼を閉じた。


(落ち着け)


 心の中で唱えるのは、かつて勝手に自分を弟子扱いした男が繰り返し彼に言った言葉。

 自分で言うのも何だが、アルテミシアを喪ってすぐのアルバートは他人が見ても分かるくらい荒れに荒れていた。魔物の強靭な肉体を持つことをいいことに、自分のことは全て後回しにして彼女を取り戻す方法を探した。ティル・ノグの大図書館に潜入を試みるなど、無茶した回数も数知れない。

 当時のアルバートはそれでいいと思っていたが、突然行動を共にすることになった魔物研究者の男は彼の無茶な行動を繰り返し叱った。


『ちょっとは周りを見てみろ。視野を広くして、自分にできることを考えるんだ。あんまり無茶苦茶やってると、魔物でもそのうち身体を壊すぞ』


 男の警告に、アルバートはその時意味が分からないと言うように首を傾げた。彼がどうして怒っているのか、本当に分からなかったのである。どんなに無茶でも無謀なことでも、必要ならするのが当然だと思っていた。再び、アルテミシアを取り戻すためなら。

 だが研究者の男は、だからこそ自分を大切にするように言うのだと笑った。


『お前、俺に話してくれただろう? ミーシャちゃんが自分の自由な空を願ってくれたから、だから自分はここにいるんだって。お前はそれを、ミーシャちゃんがいないと意味がないって思うのかもしれない。その気持ちはよーく分かる。でもな、せっかく願われた命なんだ。少しでも大切にするべきだとは思わないか』


 魔獣も魔物も、魔女さえも同じ心を持つ生き物と考えていない奴なんて沢山いるんだからさ。彼はそう言って、何故か切なそうに目を細める。もしかしたら、男も過去に何かあったのかもしれない。何があったのか、彼の故郷でか旅の中でかは分からないけれど。思えば初対面でこそロープで捕まえられそうになったものの、基本的に男は魔獣を傷つけるような行為を避けていた。時折一方的に見せられた研究ノートでも、彼がその自然な生態を重要視し、少なくとも天空塔が銀ティルヤに対して行うような一方的な束縛、搾取ではなかった(実際男は、未だ各地に残っている銀ティルヤの様子やその主人の扱い方に並々ならぬ怒りを見せていた)。

 男に諭されても、アルバートは頑是無い子供のようにすぐに頷こうとはしなかった。唇を噛んで唸る彼の頭を、男は軽くぽんと叩いた。仕方のなさそうな表情で「落ち着け」と言う。


『別に、理解できないならそれでもいい。代わりに「落ち着け」、この言葉だけは覚えておけ。俺が一緒にいられる間はいつでも、何回でも言ってやる。だがもし俺と離れるようなことがあっても、何度でも頭の中で繰り返すんだ。激情に駆られそうになった時、パニックになりそうな時、冷静でいることがお前の生死を分ける。無茶したいならそれからいくらでもすればいい。いいか、絶対に忘れるんじゃないぞ』


 それから彼は本当に、事あるごとに「落ち着け」と言ってきた。まるで暗示のように、繰り返し繰り返し。アルバートも言いつけ通り、時折何か行動を起こす前に頭の中で呟くように意識している。おかげで前ほど無茶をしなくなったし、冷静になったことで危機を逃れたこともしばしばあった。

 最も、あまりの激情に呟くことを忘れることも少なくない。実際ヴァンデと四年ぶりに顔を合わせた時は、直前まで残っていた冷静な部分さえも一気に消えることになった。だが、今は大丈夫なはずだ。情報の奔流と言葉にならない衝動を無理矢理にでも呑み込み、落ち着けと自分に繰り返し言い聞かせる。

 次第に、自分の思考がクリアになっていくのが分かった。もう問題ないだろう。小さく息を吐き、再び押し寄せる情報を注意深く見つめながら、整理するように分かったことを洗い出す。

 まず、魔女と魔物のこと。世界の成り立ちについての話は荒唐無稽過ぎて正直いまいち分からなかったが、魔女と魔物が「国を維持する」という使命を持って存在していることは分かった。ヴァンデがその使命を果たしているか確認する、監視者の役目にあることも。

 恐らく、ヴァンデがアルバートに説明をしているのもその仕事の一環なのだろう。全てが「指示で」ということではないみたいだが。新たに魔物になったアルバートに色々教えて、自分の宿命さだめを自覚させようという話である。

 最も、何をどう言われようとアルバートに宿命さだめや指示に従うつもりはない。誰の指図も受けない、自分はアルテミシアと自由に生きると決めたのだ。他ならぬ彼女を喪った時に。ヴァンデに言われるがままにこの場所で話を聞いているのは、アルバート自身がそれを望んだからに過ぎない。彼が魔物になったのは、アルテミシアがそう望んでくれたから。魔物として宿命を果たすためではないのだから。

 それにしても、妙な話だと思う。特に「必ず一国だけを維持する」というところが。国を維持するだけならとにかく、必ずひとつの国だけというのはどういう意味があるのだろう。他の国を滅ぼしてでも、ひとつの土地で繁栄することができるのは一国だけというのは些か極端過ぎやしないだろうか。ホーラノアだけでも、同じ土地に仲良くできる人だけが住んでいるとは限らない。短い期間でもアルテミシアと共に大陸を巡り、独りでもあちこち歩き回ったアルバートには魔女と魔物に課せられた宿命さだめがどれほど難しいものか分かっていた。

 精霊達が、何故そのような宿命を課したのかアルバートには分からない。だがヴァンデやツァイトはそのせいで運命を歪められたのだ。良い方にも、悪い方にも。

 ヴァンデは前の魔女が宿命に背いたため、ティルテリアと出会うことになった。だがティルテリアをも精霊の意向に背く行為をしたため、精霊は激怒し、天空塔が力をつけ、ティルテリアは絶望することになった。その結果が、ホーラノア大陸全土を覆う瘴気であるという。

 一通り聞いた話を自分の中で纏めたアルバートは、珈琲のカップをテーブルに置きどこか遠くを眺めているヴァンデに向き直った。


「ヴァンデ」

「何だ」


 落ち着いて掛けたはずの声は、僅かに掠れた。対するヴァンデは、瞳と同じく感情を窺わせない声。アルバートは少し目を伏せ、おずおずと問いかける。


「お前は、ツァイトを憎んでいるのか?」


 柄にもなく緊張したのは、ヴァンデとツァイトの気安いやり取りを、その関係が決裂した後のツァイトの身を切るような叫びをアルバートが知っていたからだ。

 ツァイトはヴァンデを嫌いではないと言いながら、心底憎んでいるようだった。だが、よく考えるとより事態を悪化させたのはツァイトの方だ。ティルテリアにウィステリアの外を教えたのも、魔力の瘴気化という最悪の事態が起きたことも、ツァイトが関わっているという。

 ヴァンデはツァイトに殺して欲しいと言ったが、本当にツァイトを殺したいと思っているのはヴァンデではないだろうか。もしそうであったとしても、アルバートは少しも不思議と思わない。だが、ヴァンデは口の端に笑みを浮かべ緩く首を振った。


「俺はツァイトを憎んでいない。俺が憎く思っているのは精霊と天空塔と、俺自身だけだ。……あいつが、本当に俺を殺すことができたらいいのにな」


 自嘲するように零した言葉は、己の宿命さだめを厭うもの。誰よりも広い空を飛ぶことを認められながら、本当は鎖で縛られたままでいる青い鳥。ずっと他人に縛られてなるものかと思っていたアルバートは、その時不意にヴァンデも同じように考えていたことに気づいた。彼が、それをほとんど諦めていることも。


「ティアも、ツァイトを恨む言葉はひとつも言わなかったよ。ただ、あいつは自分のしたことを心底後悔していた」


 ひとつ瞬きをする間に、ヴァンデの表情は元に戻っていた。無表情でも声に僅かな穏やかさが残っているのは、ティルテリアのことを話しているからだろう。


「ティアは後悔すると同時に、孤独がそれほどまでに心を苛むという事実を恐れていた。再び独りになるくらいなら、最初から一人でいた方がいい。そう考えた彼女は、俺がホーラノアに帰ってくるまでずっと家の地下室に閉じこもっていた」


 そう言うと、唐突にヴァンデが席を立った。アルバートにも立ち上がるように促し、しゃがみこんで床板の一部に手を掛けた。その手には、いつの間にか鈍く光る銀色の鍵が握られている。今のホーラノアでは珍しくなった、魔力も何も仕込まれていないシンプルな鍵を使ってヴァンデは床板を動かした。ぽっかりと空いた穴の向こうには、地下室に繋がっているのだろう細い梯子が見えた。


「ついてこい」


 ちらっとこちらを見て一言告げると、ヴァンデは躊躇うことなく薄暗い地下室へ降り始めた。慌ててアルバートも彼について歩く。

 一歩足を踏み入れるごとに、底冷えするような冷気が肌を撫でる。極力アティリアの灯を減らしているのか、目を凝らさないと足場が判別できないほどに暗い。アルバートは梯子を掴んだまま一度全身の感覚を確かめるように目を閉じると、慎重に下へと降りていった。

 その地下室は、それほど深い場所にあるものではないらしい。ほどなくして梯子の末端に差し掛かり、数歩の間を空けて古い木製の扉が現れた。装飾も何もない簡素な扉を、先を歩くヴァンデが無造作に開ける。アルバートも扉の向こうを覗き、梯子とは打って変わって明るい空間に思わず目を瞬かせた。


「これ、は……」


 ようやく明るさに慣れた目で改めて部屋を見たアルバートが、言葉を失って息を呑む。呆然とする彼の横で、鮮やかな緑の葉がかさりと音を立てた。

 その空間は、一言で言うならばミニチュアの廃墟みたいな場所だった。

 床は板ではなく剥き出しの地面で、そこから所狭しと生い茂る樹木の数々。並べられている古い植木鉢やプランターはかつては美しく花々で覆われていたのだろうが、長く手入れをされていないのだろう。名も知らぬ雑草が少し生えている他は、乾いた土が残るだけで植物が育つことのできる状態ではない。一方直接地面に植えられた植物はいずれも勢力が旺盛で、アティリアの光と空間を満たす魔力を帯び、地面に転がる植木鉢や出されたまま仕舞われていない如雨露やスコップを侵食しながら部屋全体を覆っている。

 そんな地下室に生まれた小さな森に隠されるようにひっそりと遺っているのは、時を止めたあまりにも簡素で小さな街のようなもの。

 まず目を引くのは、中央に建っている小石を積み上げて造った塔。古びている割には綺麗に頑丈に造られており、この街でも特に重要な建築物であることが分かる。さらに周囲を囲むのは、小石や木の枝を組み上げてできた小さな家々。大半が崩れてしまっているが、景観を考えて整然と並んでいたことが分かる。中には塔ほどではないが大きな建物も、カウンターなど店舗としての設備を持つ建物もある。遊具のような残骸が転がる広場、小さな煉瓦で設えた花壇。小さくとも憩いの場を兼ね備えた街は、かつてここに住んでいた住人の慎ましくも豊かな生活を偲ばせた。

 まるで、滅んでしまった小人の街の跡地を覗き込んでいるようだ。興味深そうに街を眺めながらアルバートがそう思った時、隣で同じように見つめていたヴァンデがぽつりと呟いた。


「ここは、ティアが匿っていたティルヤ族の最後の砦。……


 故郷という言葉に、アルバートが僅かに瞠目する。ヴァンデは真夜中色ミッドナイトブルーの瞳に切なげな色を落とし、なおも低い声で話し続ける。


「生き残った僅かなティルヤ族を、ティアはここで保護していた。彼らは森林クジラを作ることができない。自由に空を移動することができない。本来の役目を果たすことができない。それでも、生き残った彼らを失いたくないと思っていたんだろう」


 ティルテリアは、誰よりもティルヤ族を想っていた。それこそ自分の道具ではなく、母が子供に向けるような愛情で。

 だから失いたくない、もう嫌な思いをしたくないと思うと同時に、地下室に閉じ込めるという行為がティルヤ族のためにならないことも分かっていた。

 本来の彼らは、自由に空を飛び、大陸を巡って、人々の力になりながら生きる種族だ。たった一年の命。それを、こんなに狭く小さな場所で終わらせていいわけがない。けれど、短い寿命も尽きぬまま誰かの身勝手で命を散らさせたくない。


「相反する二つの感情を抱えたまま、ティアはどうするのが一番いいのか考えていた」


 独り言のように語り続けるヴァンデの言葉を、アルバートは殆ど聞いていなかった。

 ただアルテミシアの故郷だという場所を見つめ、彼女のことを思う。

 二人で旅をしている間、ずっと「故郷に帰りたい」と言っていたアルテミシア。結局彼女が帰ることを望んでいた故郷は天空塔の装置が作り出した空想の産物で、帰りたいという願いすら他人に命じられたものだったけれど。それでもアルバートは、ここにアルテミシアが故郷と呼べる場所があることに安堵した。

 地下室は魔法で植物が生育できるようにされているものの、地上とは比べ物にならないほど狭く種類も少ない。人の助けになるために生まれてきたのに、人に追われて逃げ、こんなに小さな場所で暮らすことになったティルヤ族が、当時何を思っていたのかアルバートには分からない。

 それでも。この小さく簡素な村は、ティルヤ族にとっての――アルテミシアにとっての幸せではなかったかもしれないけれど。彼女が生まれ生きてきた場所が、その確かな証がここにあることをアルバートは嬉しく思ったのだった。

 かつてティルヤ族が生活していた跡を辿るように、小さな建物をひとつひとつ見て回る。そんなアルバートの視点が、ひとつの建物で吸い寄せられるようにすぅっと止まった。

 それは、街でも一際大きく目立つ小石の塔。


「魔女の塔……」


 思い出したのは、アルテミシアが言っていたエリュシオンを管理している魔女が住んでいるという塔。エリュシオン自体は幻想ゆめだけれど、その魔女の塔のモデルはこれだったのかもしれない。

 その塔は、他の建物にはない存在感があった。街でも随一の魔女が住んでいたと言われたら信じてしまいそうなほどの濃密な魔力。僅かに感じる、胸に迫るような切なさと懐かしさ。歓喜と愛情。期待と憧憬に僅かな諦念。溢れんばかりの明るい感情に少しの暗い感情を混ぜたその魔力は、アルバートが胸の内でずっと大切に抱えているものとよく似ていた。

 驚いた彼は、説明を求めるために僅かに口を開く。声を発する前に、アルバートの見つめていたものに気づいたヴァンデが目尻に笑みを浮かべて言った。


「その塔はアルテミシアが住んでいた場所。あいつが、お前を生み出した場所だよ」

「どうして、あそこにミーシャが?」


 アルバートが問いかける。何故、いかにも特別な場所にアルテミシアが住んでいたのか。彼女は特別な存在だったのか。そのことが、自分と彼女に起きた事件と関係あるのか。

 ヴァンデはアルバートの目を見ると、次いで塔の方に視線を移した。


「本来あの塔は、森林クジラの上に建てられるんだ。その理由は二つある。ひとつは、クジラを作った者がその上の街を管理するため。もうひとつは、新たな森林クジラを作るティルヤ族を保護するため」


 ティルヤ族は自分達の力で子孫を増やす方法と、森林クジラの上に移動型の街を作る生活形態を会得した。新たな住処を作って増えた仲間のための場所を用意しより様々な場所で活動できるようにすることは、子孫を増やすことと同じくらい重要なことだったのだ。

 だから、彼らは森林クジラを作る者を大切にした。より魔力を持ち魔法に長けた者を選び、クジラを管理する者とともに塔で守ったのだ。


「だがこの街に塔はいらない。何故なら、街を管理していたのはティア自身だったから。もう人口を増やしてクジラで空を飛ぶことも叶わないから、森林クジラを作る者も必要ない。実際ここに保護された奴らも、誰も塔を使おうとはしなかったよ」

「じゃあ、なんで……」


 アルテミシアは塔に住み、アルバートが作り出されたのか。

 に、知らずアルバートの声が震える。

 ヴァンデは、淡々と答えた。


「アルテミシアは、ティアが作ったんだ。己の持つほぼ全ての魔力を込めて、自分に似せて。お前も、ティアがアルテミシアに作らせた。あるひとつの目的のために」


 アルテミシアが、アルバートが生まれたその理由わけは。二人が出会い、短い旅をすることになったその一番最初の理由は。


「全ては、天空塔を壊すために」

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