ep42. 白き眠りに包まれた街

 師匠と別れてすぐ、アルバートはヴァンデと合流した。

 直ぐに、アルテミシアを取り戻す方法を教えてほしいと伝える。「本当にいいのか」という問いにも、一も二もなく頷いた。もう、迷いはない。

 ヴァンデは驚いたようだった。が、すぐに「……そうか」と呟き、今まで見たことがないほど優しい笑みを浮かべた。


「お前がそう決めたのなら、それでいいんだろうな」


 その言葉はアルバートにというより、どこか遠いところに向かって言っているように聞こえた。多分彼も沢山失敗して、失くしたものも数多くあって、それでも確かに見つけたものがあったことを誰かに報告するように。

 アルバートが何も知らない森林クジラだった頃から、大切な人との約束と自分の願いを叶えるために動き続けたヴァンデ。長く怒りと悲しみを背負い、誰に恨まれてもその信念を曲げることなく突き進んだ彼は、今、自分の中でどのような結末を迎えようとしているのだろう。親友であり、にも関わらず互いに殺意を向け合うことを約束していたツァイトとは、再び顔を合わせたのだろうか。

 アルバートが大図書館で精霊と話し、師匠と会ってその決意を固めている間、ヴァンデがどこで何をしていたのか気にならないと言ったら嘘になる。だが、それはここで尋ねるべきことではないと思った。

 いつかヴァンデが話してくれることがあれば、その時に聞こう。アルバートの、師匠の話と一緒に。もしかしたらその時は、アルテミシアも一緒にいるかもしれない。

 今は、彼女の復活を何よりも優先したいと思った。何せ、ずっとこの時を待っていたのだ。四年間、決して忘れることのなかった彼女の笑顔がようやく現実になる日が来たのだ。

 同時に、ひとつ気になることがあった。それは、師匠が別れ際に話したことだった。


                      *


 アルバートが悩みを打ち明けて決意を新たにした後も、師匠はアルバートと暫く一緒にいた。アルバートが彼を「師匠」と呼んだことをからかったり、昔の思い出話に花を咲かせたりしていた。が、不意に師匠が立ち上がった。驚くアルバートに、優しい瞳で問いかける。


「お前は、これからミーシャちゃんを取り戻しに行くんだろう?」

「……? ああ、そのためにヴァンデを探すつもりだけど」

「じゃあ、俺もそろそろ行くかあ」


 唐突な言葉に、再びアルバートは大きく目を見開いた。てっきり、一緒についてきてくれるものだと思っていた。


「……どこに、行くんだ」


 また、長く会えなくなるかもしれない。漠然とした不安を隠すように、敢えてそっけなく尋ねる。師匠は僅かに口の端を上げて答えた。


「調べもの。言ったろ? 俺はアルバートを――ホーラノアの魔物を救うために、ホーラノアに来たんだ。お前がミーシャちゃんを取り戻しても、魔物や魔獣に対する扱いが酷いこの国の現状は中々変わらないかもしれない。だから、俺は俺のやり方でホーラノアがより良くなる方法を探してみようと思う」


 そんなことを話した師匠は堂々としていて、とても頼もしく見えた。心配御無用! と顔に書いてある。きっと、不安に思うアルバートの心境にもとっくに気づいていたのだろう。彼は大きな手で、アルバートの金色の頭をぐしゃっと掻き回すように撫でた。


「大丈夫だって。俺がいなくても、アルバートはちゃんとミーシャちゃんともう一度出会えるよ。それでも何か俺の助けが必要なことがあれば、いつでも駆けつけてやるから」


 だから、今度会うときはミーシャちゃんを連れてこいよ。そう言われると何も言えなくなる。噛み締めるようにゆっくりと頷いたアルバートの胸を軽く叩いて、師匠は楽しみにしているからなと笑った。

 雲の切れ間から差し込む光が、風に翻る師匠の橙の衣をより鮮やかに魅せる。幅広帽と、肩から掛けた僅かな荷物の他は、特別な物は何も持っていない。それでもどこか堂々とした背中を見ていたアルバートは、しかしもう一度、躊躇うような口ぶりで彼を引き止めた。


「……師匠、もうひとつだけ教えてくれないか」

「うん?」


 引き止めたことに嫌な顔ひとつせず、師匠はすぐにアルバートの方を振り返ってくれた。その優しさに勇気をもらいながら、ゆっくりと呟く。彼の話を聞いた時から、ずっと気になっていたこと。


「あんたはさ、ホーラノアの前の魔物に起きたことを『後から知ることしかできなかった』って言っただろ。でも俺は、ヴァンデに話を聞くまでそのことを全く知らなかった」


 アルバートとて、四年もの月日をただ無為に過ごしていたわけではない。ホーラノア中を歩き回り、調べられることは全て調べた。その内のひとつでも、アルテミシアを復活させる手がかりになればと思って。

 だが、前の魔物のことは全く知らなかった。ホーラノアは彼の者の存在そのものを抹消したいのか、どこを探しても何も見つからなかった。ヴァンデに話を聞くまで、その存在すら知らなかった。


「俺はアルテミシアを失った時、もう二度と誰の指図も受けず自由に生きることを誓った。けど、もうひとつ決めたことがあるんだ」


 あの日、ドンディナンデの森で、アルテミシアを取り戻す決意と共に「もう二度と」という誓いを二つ立てた。ひとつは、誰にも縛られず自由に生きること。そして、もうひとつは。


 ――もう二度と、無知のままでいないこと。


 森林クジラのアルバートは、何も知らなかった。ホーラノアで過去に起きたことを何も知らなかった故に、ヴァンデやツァイトが優しさの裏に隠していたことに気づくことができなかった。天空塔がどんな場所で、そこの連中がどんな考えでティルヤ族や銀ティルヤを扱っているか知らなかったから、アルテミシアを辛い目に合わせてその絶望の深さにもすぐに気づくことができなかった。

 そのことを、アルバートがどれほど後悔したか。


「もう、何も知らないのは嫌なんだ。何も知らずにまた後悔したくない。知って、その上で自分が決めた道を進みたい。それも、『自由に生きる』っていうことだと思うから」


 知ることで、迷うこともある。精霊の言葉を聞いて、アルテミシアの復活を迷ったように。だが、知らずに後悔するよりも、知って迷う方がずっといい。アルバートはそう思った。


「精霊の支配を嫌い、魔女と魔物をひとつの機構システムとして組み込む世界の仕組みを厭い、自分の信念を貫いてヴァンデに殺されたホーラノアの前の魔物は、もしかしたらあったかもしれない俺とアルテミシアの未来の姿だ。彼が何を考えて己の運命を拒否したのか、俺は知りたい。例え、それが悲劇でしかないのだとしても」


 現在いまの結果だけみたら悲劇だとしても、過去の魔物にとっては紛れもなく生きた証だ。アルバートはそれを知りたいと思った。自分達の先達として、後悔しない未来を選ぶために。

 逆光が、アルバートに深く陰を落とす。顔が見えなくても、強く握り締めた拳だけでその思いの深さが分かった。絞り出すような声で、一定の距離を保ちながらも縋り付くようにアルバートは師匠に問いかける。


「師匠、教えてくれ。あんたはどうやって前の魔物のことを知ったんだ?」


 師匠は、暫く黙っていた。何か思い出したくないことが頭を過ぎった時のように、ぎゅっと眉根を寄せて険しい顔をして。むずむずと唇を動かした彼は、ちらっとアルバートを見ると、やがて溜息のように呟いた。


「……北へ、行けば分かる」

「北?」


 予想外の言葉に、アルバートは瞠目する。師匠は苦く笑った。


「ああ。ホーラノア最北の地、ルターシェリエ。あそこが、


                  *


 ホーラノア最北の地、ルターシェリエ。別名「白き眠りの街」。その名の通り一応天空塔からは街として認識されているが、正直なところ統一以前国だったかどうかすらも怪しい。そのくらい何も情報がない場所だった。人も住んでいなければ、移住者を増やしたいと思うほど土地に実りもない地。各地を歩いていたアルバートも、そのくらいの認識でしかなかった。そんな場所に、一体どうして前の魔物の情報があると思うだろう。

 その上、驚くべきことに今ヴァンデがアルバートを連れてきたのもルターシェリエなのだ。

 初めは耳を疑った。一体何がどうなっているのか、理解が全く追いつかなった。ぽかんとするアルバートを見て、ヴァンデもその反応は予想していたのだろう、口の端を上げて少しだけ笑う。


『ま、なんつーか変な場所だ。行ったら多分もっと驚くぞ』


 その言葉は軽く楽しそうだが、真夜中色ミッドナイトブルーの瞳はどこか遠くを見つめているようだった。彼にとっては、楽しく語ることができる場所ではないのだろう。その手で殺した魔物が眠る場所である故に。

 そんな内心の葛藤を気にする素振りも見せず、ヴァンデはアルバートを自身の翼に乗せてやはり一日も掛からずルターシェリエに到着した。


 ――そこは白い霧に沈む、時すらも止まったかのような静寂の都。


 視界を遮る、地の果てまで広がった白く濃い霧。僅かな隙間から垣間見えるのは、草木の一本も見当たらない荒廃した土壌と、一定の規則さえ持たず唐突に現れる不可思議な白い柱。虫の一匹、鳥の一羽もいない圧倒的な静寂に、アルバートは思わずごくりと息を呑んだ。


「な? 変な場所だろ?」


 きょろきょろと辺りを見回すアルバートを見て、ヴァンデが悪戯が成功した子供のように笑う。「ああ……」と曖昧な返事をしたアルバートは、長い間を空けてぽつりと呟いた。


「……何か、凄く寂しい場所だね」


 無数の白い柱は、まさしく深い眠りに落ちた街のようで、あるいは弔う者のいない墓場のようにも見えた。色のない世界。生命の息吹を失った廃墟の成れの果て。それは、見ているだけで胸が苦しくなるような寂しい場所だった。

 師匠は、この場所を見て前の魔物に起きたことを知ったのだろうか。だったら、どこかに手がかりがあるはずだ。急に勢いづいて何かを探そうとするアルバートは、大きな手に腕を引かれた。顔を上げるとヴァンデが苦笑している。


「確かにここは天空塔も進出してないし、魔物が死んだのに相応しい寂れっぷりだけどな」


 「魔物が死んだ」のところで、少しヴァンデの声が震える。だが、彼は再び気づかないふりをした。誘うようにアルバートの腕を引き、軽い口調を崩さないまま告げる。


「だがな、これは偽装フェイクなんだ」

「フェイク?」


 アルバートが首を傾げる。と、不意にヴァンデが霧の中へ一歩踏み出した。腕を掴まれたままのアルバートもよろけるように前に進む。四方八方が霧に覆われて何も見えない中、何か薄く小さいものが頬に張り付いた。


「一体何が……はぁっ??」


 指で摘んだアルバートが、素っ頓狂な声を出した。手の中にあったのは、この場には余りにも似つかわしくない小さな薄桃色の花びらだった。この場所には、花なんて一輪も咲いていないはず。理解が追いつかずただ呆然と花びらを見つめていると、正面からヴァンデの声が聞こえた。


「ほら、霧が晴れるぞ」


 声に促されるまま顔を上げると、確かに霧が薄くなっていた。空中を剣で切り裂くように、白い霧が左右に分かれて散っていく。その向こうに見えた景色に、今度こそアルバートは言葉を失って立ち尽くした。


「これが、本当のルターシェリエだ」


 楽しそうに告げるヴァンデの声も聞こえない。完全に固まっているアルバートの金髪を、無数の薄桃色の花弁が彩った。

 ホーラノア最北の地、ルターシェリエ。自由を愛し、ヴァンデによって殺された魔物が眠るこの場所は、荒廃した霧の廃墟ではない。それは、時を止めた花園。


 ――永遠に枯れることを知らない桜で満たされた、常春の大地だったのだ。

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