ep43. 桜舞う夢見の跡

 風に乗って、無数の薄桃の花びらがざあっと舞い上がる。太い木々、苔むした岩のような何か。それらの根元を覆うのは、色鮮やかな雛芥子や白詰草。北の空は蒼く高く澄んでいて、先程まで確かにあったはずの白い霧はすっかりどこかに消えてしまった。

 

 (これが本当に、さっきのルターシェリエと同じだというのか)

 

 白い霧に満たされた、無機質な白亜の柱の墓場を思い出す。生気のない寂しい場所から、百花彩る常春の大地へ。一歩歩くうちに突然変化したルターシェリエの姿に、アルバートはただ呆然と立ち竦んだ。

 隣に並んで景色を眺めていたヴァンデが、誰にともなく呟く。

 

「かつて、ルターシェリエで生まれた魔物が外界を拒絶したことで、ここは永遠の春になった」

 

「永遠の春」。それは、アルテミシアの口からも聞いたことがある言葉だ。幻想ゆめに過ぎなかったとはいえ、彼女の故郷エリュシオンも魔法に閉ざされた常春の国だった。もしかしたら、ティルテリアの家の地下にあった本当の故郷も。それが何を意味するのか、アルバートには分からないけれど。

 ひらりと舞い散る薄桃の花びらを一枚、ヴァンデが空中でつまみ上げる。そのまま、頭上いっぱいに大きく枝を広げ、途絶えることなく花びらを降らせる樹木を指し示した。

 

「あの木は、俺の故郷に生えている『サクラ』と呼ばれているものに似ている。故郷だけでなく、多くの国でも同じ木や桜を象ったものを見かけたから、この世界にとって重要なものなのかもしれないな」

 

 その言葉で思い出したのは、ティル・ノグの大図書館やユルグの神殿に刻まれた彫刻だった。アルバートがこの植物について知らなかったのもあるが、桜をはっきりと象ったものは無かった。しかし、今まで見た信仰に関わるもの全てが何らかの形で植物の図案モチーフを取り入れていた。

 いつかヴァンデが語った、魔女と魔物の話。世界の始まりには一本の樹木があったという、遠い昔の物語。人々はそれを心のどこかで覚えているのかもしれない。その遥か古の歴史の片隅に、桜の薄桃色があったことも。

 とりとめなく考えながら、アルバートは頭上の満開の花を見上げていた。一方ヴァンデは俯き、掌に載せた桜の花弁をじっと見つめている。薄い唇が、ぽつりと言葉を紡いだ。

 

「だが、

「えっ……」

 

 アルバートは思わずヴァンデを見た。彼は顔を上げない。

 

「俺が、この場所で魔物を殺した時に生えてきたんだ。突然、溢れんばかりの数でな」

 

 その言葉は俄には信じ難いことであった。だが、今ヴァンデが嘘をついているとも思えない。

 無数の薄桃色の花弁。その一枚をじっと見つめていた彼は、儚い姿に何を重ねて見ていたのだろう。未だ視線は下に固定したまま、ヴァンデは口の端を上げて苦く笑った。

 

「……よくある話だ。ここの魔物に限ったことじゃない」

「そう、なのか?」

 

 一瞬声が上擦る。アルバートの方が、柄にもなく緊張していた。ヴァンデは全く声の調子を変えない。ただ淡々と、事実だけを話していくように。

 

「魔女や魔物は遺体を遺さない。暫くは遺るかもしれないが、そのうち全て魔力に戻って形を失ってしまう。代わりに、その場所に一斉に花が咲くことがあるんだ」

 

 魔女や魔物がヴァンデに殺されるということは、その分国ないし土地が荒れていたということだ。戦争で荒廃し、或いは大規模な火災で全てが燃やし尽くされ不毛の地となった場所でも、瞬く間に無数の花が咲き乱れる。

 

「鎮魂、なのかな」

 

 ぽつりと呟いたのは、アルバートだ。光景を想像した時、真っ先に頭に浮かんだのがその言葉だった。まるで、亡くなった魔女や魔物と、大勢の人の魂を鎮める花のように感じたのだ。

 

「さあな」

 

 対するヴァンデの反応は素っ気ない。長い間を空けて、思い出したように付け加えた。

 

「……俺には弔いというより、もっと哀しいものに見えるけどな」

 

 上げた視線の先にあるのは、立ち並ぶ桜の巨木。地を割り天へと伸びる樹木の姿は、確かに弔いのような優しいものとは程遠い。

 恐らく、この無数の桜は証なのだ。ここで、この場所で魔物が生きていた証。殺されて形を失っても、多くの人々の記憶から消え去っても、この場所で生きていた魔物がいたことを示している。きっと、あらん限りの思いと未練を無数の花として散らせて。

 一陣の風を受けて、立ち並ぶ樹木が大きくたわむ。ヴァンデの掌にあった花弁も、吹き飛ばされてどこかへ消えてしまった。風の行く末を見送ったヴァンデが、「よし」という掛け声とともにアルバートの方を見た。

 

「いつまでもボーっとしてないで行くぞ。お前が目指すべき場所はこっちだ」

 

 小言めいた口調に、文句のひとつでも言ってやろうかと思ったが――止めにした。ヴァンデの顔つきが、明らかに何かを堪えているものだったから。

 再び、並んで歩き始める。二人が足を進めるたびに、地面に降り積もった花びらが衝撃で舞い上がる。地に落ち、土と同化していくのを待つばかりの花。それでもなお、歩いていくアルバートにその存在を主張する。鮮やかな薄桃で視界を覆い、実際には見たことがないはずの、かつてここにいた魔物の姿を霞の向こうに想像させる。

 魔女や魔物は、死んだら花を遺すという。アルバートもいつか遺すことがあるのだろうか。多分、薄紅色の合歓の花を。その時目の前にあるのは、ヴァンデの凶刃? それとも、何か別の理由で?

 ヴァンデは渡りの魔物。世界中を巡り、精霊に命じられるままに魔女と魔物を殺す。その人生の中で、彼は何度も咲き乱れる花を見てきたのだろう。精霊に不要と切り捨てられながら、せめて何か残そうとするように芽吹く花を、ヴァンデはいつもこうして眺めてきたのだろうか。

 彼は自分の心情を語らない。ウィステリアでティルテリアの話をしてから、その内心も弱さも全くと言っていいほど顕にしない。今もまた、真夜中色ミッドナイトブルーの瞳に流星のように過ぎる感情は綺麗に無視し、足音も静かに歩きながらルターシェリエについて語り続ける。

 

「永遠の春というのもそう珍しいものじゃない。魔法で閉ざした空間を作ると、内部は常春の世界になることが多いんだ。それが何を意味するかまでは分からないけどな。もしかしたら、桜と何か関係があるのかもしれないけど」

 

 その言葉で、「永遠の春」と聞いてエリュシオンを連想したことを思い出した。同時に、アルテミシアの本当の故郷のことも。

 

「もしかして、ウィステリアの地下にあった空間もずっと春だったのか?」

「ああ。もう壊れているけどな」

 

 あの時疑問に思ったことを問いかけてみると、ヴァンデはあっさりと頷いた。アルバートは「そうか……」と呟き、人知れず安堵の息を吐く。何もかもアルテミシアの夢と思われたエリュシオン。だがその永遠に続く春は、確かに彼女の故郷にあった光景だったのだ。そのことが、アルバートは自分のことのように嬉しかった。

 

 (もう一度ミーシャに会えたら、絶対に話してあげよう)

 

 口の端から笑みが溢れる。心なしか足取りが軽くなったアルバートとは対照的に、ヴァンデは昼間にも関わらず夜闇を引き摺るように歩く。ふと、俯きがちになっていた顔が中空を見上げた。目を細め、思い出したように呟いた。

 

「ルターシェリエのこの空間も、もうすぐ壊れる運命にあるんだ」

「壊れる?」

 

 アルバートが首を傾げる。ヴァンデは苦笑を崩さないまま頷いた。

 

「もう、ここを閉ざした魔物は死んでいるからな。既に魔力の封じに綻びが生じている。他都市の人間に、ルターシェリエの真の姿が認知されるのも時間の問題だろう」

 

 そう語るヴァンデは、笑っているような泣いているような何とも微妙な顔をしていた。

 彼はルターシェリエの秘密の空間を「もうすぐ壊れる運命にある」と言ったが、未だ壊れていないことの方が異常なのだ。主のいないまま、遺された願いの欠片だけで二十数年もの間閉ざされた世界を維持してきたルターシェリエ。そこに込められた思いがどれほど強いものだったのか、その事実だけでも想像するのに難くない。

 ヴァンデもそんなこと分かっているだろう。分かっているからこそ、あの微妙な表情なのだ。魔物が遺した思いを守りたいという気持ちと、訪れることすら怖いトラウマの場所に大勢の人が手を入れ変化することで、恐怖も罪悪感もいつか消えるのではという気持ちが常にせめぎ合っている。

 長い間空間を維持しながら少しずつ崩壊する様を見せるルターシェリエを、ヴァンデはただ静かに眺めていた。真夜中色ミッドナイトブルーの瞳の奥に閃く、幾千もの感情を押し殺して。一方アルバートが考えていたのは、ここに来る前の師匠との会話だった。

 

 『……北へ、行けば分かる』

 『ホーラノア最北の地、ルターシェリエ。あそこが、

 

 ルターシェリエに行けば、前の魔物のことが分かると言った師匠。アルバートはてっきり、彼が白い霧と石柱の墓場を見てその話をしたのだと思っていた。だが、もしも魔法の封じが師匠のような普通の人間でも破ることができるほど脆くなっていたとしたら。

 

 (師匠はきっと、この場所に辿り着いた)

 

 確証はない。だがアルバートは確信していた。

 師匠は長い間魔獣や魔物の研究をしてきたが、それ以外特別なものは何もない普通の人間だ。彼が元々ヴァンデのように色々知っていたとは思えない。

 師匠はきっと、偽装フェイクを抜けてこの常春の世界に辿り着いた。そして何らかの方法でルターシェリエを閉ざした魔物に起きたことを知ったのだろう。

 

 ――しかし、彼は一体ここで何を見たのだろう?

 

 ルターシェリエに着いた時からずっと感じていた疑問が、ここに来て再び頭をもたげる。永遠に続く春。舞い散る無数の桜ここにはない花。だが、それ以外はいたって普通の場所。今までアルバートが見つけた要素だけで、師匠がヴァンデの説明もなしに前の魔物のことを知ったとは信じ難い。

 ヴァンデから離れないように気を付けながら、視線だけ忙しなく左右に動かして周囲を探る。その時、近くの茂みががさりと動いた。

 

「っ?!」

 

 アルバートがびくりと肩を揺らす。じっと茂みの様子を伺っていると、その陰から一頭の狐が現れた。

 その狐は、通常のものよりもひと回り大きく見えた。金色の毛並みは僅かに緋色の光を帯び、陽光をそのまま紡いだかの如くきらきらと輝いている。

 狐のつぶらな瞳が悠然とアルバートを見つめる。怯えることなく佇む姿と、全身にヴェールのように纏う濃い魔力に気づいて、アルバートは大きく目を見開き呟いた。

 

「魔獣、か……?」

 

 思い出したのは、いつかアルテミシアといた時にティル・ノグの大図書館で見つけた魔獣図鑑。記載されていた様々な魔獣の中に、この狐も載っていたはずだ。確か、原生の狐より長命で知能も高い天翔る狐――。

 

「あっ……?!」

 

 図鑑の記述を思い出すと同時に、狐が地を行くように空へ駆け上がった。湧き上がる風に桜の雨が切り裂かれ、茂みが大きく揺れてその向こうが垣間見える。そこにあった光景に、アルバートは小さく息を呑んだ。

 茂みと木立の向こう、そこから感じたのは濃厚だが優しい魔力と小さな無数の瞳。

 

 ――数えきれないほど沢山の魔獣と獣が、陰からそっと訪問者達を見つめていた。

 

 一体、いつからこんなにいたのだろう。魔獣図鑑に載っていた魔獣だけではない。鳥や狼から小さな羽虫に至るまで、実に様々な生き物が全身に通常では有り得ないほどに濃い魔力を纏っている。彼らは原生の獣とも争うことなく共存し、夢のような常春の世界の片隅で密やかにその生を謳歌していた。

 

「魔獣、多いな……。ホーラノアの他の場所では全然見かけないのに」

 

 木陰から覗く魔力を纏った耳や尻尾を見ながら、アルバートがぽつりと呟く。

 魔獣自体は珍しいものではない。そう、いつか師匠も話していた。魔力が潤沢にある土地では、比較的どこでも簡単に見つかる生き物だと。

 だが、ホーラノアは魔獣を見かけることが少なかった。恐らく瘴気のためと、昔から魔物や魔獣の扱いが悪い国柄によって。各地の魔獣を見ている師匠も「この国では生き物というより道具やその材料といった扱いだ」と嘆いていた。

 一方、ルターシェリエの魔獣は生き生きと自由に暮らしている。それはこの場所が外部から閉ざされているのも理由だろうが、それにしたって数が多い気がした。

 同じ大陸なのに、どうしてこうも大きく違うのだろう。アルバートがひとり首を傾げたとき、魔獣達の群れの向こうに隠れるように立つ一軒の家を見つけた。

 それは正直なところ、本当に家と呼んでいいのか怪しい代物だった。何せ屋根も壁も包丁でケーキを切り分けたかのように半分綺麗に崩れ去り、室内が完全に露出していたのである。


「何だこれ。何で、ここに家が……?」


 ヴァンデに声をかけるのも忘れて、引き寄せられるようにふらりと近づいた。苔むした壁、木片と古い漆喰と桜の花びらがパラパラと舞い落ちる屋根に辛うじて守られた室内を覗き込む。一体何が起きたのか。扉と空間の半分を失った部屋の奥には、揺り椅子と立派な書き物机。その周囲に散乱する山のような書物と紙が見えた。

 知らず息を詰めて、アルバートは踏みしめるたびにギシギシと音が鳴る床を歩いた。床板は所々割れて露出した土から雑草が生い茂り、崩れていない箇所も幾つものひび割れが見えて、気をつけて足を進めないと踏み抜いてしまいそうだ。

 ゆっくりと書き物机に近づき、ようやく散らばった紙の文字が視認できるようになった。厚みのある羊皮紙とインクの掠れた文字に、書かれた時代の古さを知って驚く。ざっくりと見たところによると、これらはひとりの人物によって書かれたものではないらしい。信仰、伝承、小さな事件の記録から誰かに宛てたお祝いの手紙まで、およそ紙に書くことが多いものが雑多に集められている。それらひとつひとつに目を惹かれていたアルバートは、机の上に一際大事に置かれている羊皮紙の束に気づいた。


「これは……」


 風に乗って飛んできたのだろう薄桃の花弁を慎重に払い、少しざらついた紙面に綴られた文字を覗き込む。黒く濃いインクで書かれた、文字の形も大きさもバラバラで文字列もガタガタな文章。まるで、幼い子供が書いたような筆跡。だが、アルバートはそれよりも書かれている内容に驚いた。


『ごめんなさいごめんなさい』『隠れたままでいられないことは分かっていた』『でもせめてこいつらだけは』『これを読んだなら、怖いことをしないで』『僕だって本当は』



「……っ?!」


 言葉に込められた思いの深さに、ごくりと大きく息を呑んだ。名前の記述はない。だが彼にはそんなもの、最初からなかっただろう。見ただけで分かった。これは、この切実な願いを書いた人物は。


 ――この文章を書いたのは、ルターシェリエを閉ざしヴァンデに殺された魔物だ。


 魔物の運命さだめに抗った魔物。彼が遺した記録が、ずっとアルバートが探していたものがそこにあった。

 古い羊皮紙が間違っても崩れないように、両手で慎重に捲っていく。その文章は日記というよりは雑記に近く、時系列はバラバラで今となっては理解し難い内容も多かった。しかし要所要所だけでも、前の魔物がどうしてルターシェリエを魔法で封じたのか、彼がヴァンデに殺されるまで何を考えていたのかは知ることができた。

 数十枚に及ぶ羊皮紙に綴られていたのは、人間への恐怖と興味、魔獣を護ろうとした魔物の複雑な思いだ。ルターシェリエで魔物として目覚めた彼が一番最初に見たものは、原住民を殺した移民が魔獣を捕まえてどこかへ連れ去ろうとする光景だった。

 その時の魔物の恐怖は計り知れない。彼は自分も襲われ、その恐怖のままにルターシェリエ全体を魔力で封じた。移民を殺し、或いは忘れさせ、もう二度と誰も近づくことができないように。「陽炎の魔物」だった彼は、そうすることができるだけの力があったから。


(ルターシェリエにも人が住んでいたのか……)


 まずそのことにアルバートは驚いた。隠され、忘れられ、植物に呑み込まれた土地。だが、かつてはこの場所にも人が住んでいたという。改めて周囲を見渡すと、確かにとても自然にできたとは思えない石を積み上げた柱や規則正しく並んだ穴があることが分かった。辛うじて家の形を残しているのがここだけだっただけで、人が生活していた跡はそこかしこにあったのだ。

 しかし、ルターシェリエに住んでいた人々の生活は、他の地域からの侵略者によって呆気なく崩れ去った。この地で生まれたばかりの魔物が見たのは、まさにその瞬間だったのである。

 どんなに怖く、悲しかったことだろう。彼はその時から、人間に恐怖を抱かざるを得なくなった。だが、ルターシェリエを閉ざして暫く過ごすうちに、人間は怖いだけじゃないということも知り始めたのだ。

 魔物の知識の源は先住民が遺したものだった。魔力は思い。魔法なんて何も知らなかった人々だったが、土地柄豊富だった魔力は彼らが用いた道具に少しずつ思いを遺した。特に文献はインクが特殊だったので、濃い魔力を秘めていた。そこから魔物は、人間がささやかな日々を大切に生きていた記録を知ったのである。

 しかし、人間の新たな一面を知ったところで植え付けられた恐怖が消えることは無かった。自分は魔物。このまま隠れ続けることはできない。それでも、外に出ることも叶わない。ならばせめて魔獣達を守りながら、いつか彼らと人間が共存できる日が来ることを祈ろう。自分のように、先に恐怖を知ることがないように。そう考えていた頃にヴァンデが現れて、精霊の考えのもと魔物は殺されてしまった。

 手記を読むアルバートの胸に、やるせない思いが過ぎる。生まれてすぐに人間の怖さを知りながら、それでも魔物は人を知りたいと思ったのだ。

 改めて室内を見渡す。そこには、確かに誰かが生活していた痕があった。半壊した家で、ルターシェリエに住んでいた人々の暮らしを真似て生活していた魔物。先住民の記録から文字を学び、自分で手記を遺すほどになった。それほど人間に興味を抱き、人と魔獣の共存を願っていた彼がもし今も生きていたならば、ホーラノアはどんな場所になっていたのだろう。


「師匠は、これを読んだのかな……」


 手記を書き物机に戻しながら、アルバートはぽつりと呟いた。恐らく、師匠はこれを読んだのだと思う。魔物と魔獣を愛した彼なら、ルターシェリエの魔物の結末に憤って当然だろう。たとえ魔物が死んだ先にしか、アルテミシアとアルバートが生きる未来は無かったとしても。

 薄桃色の風が吹いた。形を残したままの桜花が、山積みの紙の上に着地する。アルバートは魔物が願いを綴った手記と思いの欠片の前で目を閉じ、静かに黙祷した。

 ヴァンデは言った。この閉じられた常春の世界は消える運命さだめにあると。ならばいつかこの地の真の姿が人々の前に晒されたとき、再び誰かが手記を読むことがあるかもしれない。その頃には、もう少し魔物が願った世界に近づけたらいいと思った。

 机に背を向けると、何とも言えない表情でヴァンデが立っていた。魔獣達からも遠巻きにされ、独り所在なさげに佇んでいた彼は、アルバートと視線を合わせると何かを恥じるように苦く笑った。その瞬間、アルバートはヴァンデが何もかも知っていたことに気づいた。


「……行くぞ。後少しだ」


 近づいてきたアルバートにヴァンデはそう声を掛けただけで、何も言おうとはしなかった。アルバートも何も聞かなかった。二人は無言のまま、ただ並んで歩き続けた。

 最早、どの方角に進んでいるのかも分からなかった。どこを見ても狂ったように桜が咲いていて、時折その間にかつての人々が生活した跡が見え隠れする。歩くたびに人工的な建造物の数が増えていることと、魔力が濃くなっていることだけは分かった。どうやら集落の中心部だった場所に移動しているらしい。

 唐突にヴァンデが立ち止まった。一歩遅れてアルバートも足を止める。真っ直ぐ前を指で示し、僅かに口角を上げてヴァンデが言った。


「さあ、着いたぞ」


 指し示された方を見るように、アルバートが桜吹雪の向こうに目を凝らす。と、その時一際強い風とともに一気に視界が晴れた。天頂から地を満たす陽光が一瞬目を灼いて、思わずギュッと目を瞑る。再び開いた瞳に映ったものに、今度こそアルバートは驚きで言葉を失った。


 ――それは、天突く石の樹。千年の時を経た大木を模したものの、半ばから崩れた姿。


 それは樹形を象った神殿のような建造物だった。他の家々と同じように半壊しているものの、その跡地から本殿たる樹木に似た建物とそれを祭り上げるように囲む数本の柱があったことが分かる。周囲に並ぶ柱は集落の家に使われているものと同じ研磨された石だが、中央の建物は柱の石よりもずっと固く、


「これは……」


 呆然と建物を見上げていたアルバートだったが、辛うじて一言呟いた。二の句を告ぐことができない彼を、ヴァンデが見る。彼は建物を手で示したまま、歌うように告げた。


「これは、。そして、俺達が目的としていた『始まりの樹の根』がある場所だ」

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