ep4. 森林クジラアルバート
魔法陣から現れた巨大クジラの無邪気な瞳が、アルテミシアを見つめる。
アルテミシアは、彼が言った「僕の魔女」という言葉に、小さく首を傾げた。
「私、貴方と会ったことがあるの?」
クジラは、その答えに驚いたようだった。大きく目を見開いて言う。
「え、君が僕の魔女じゃないのかい?」
「どういうこと?」
アルテミシアが問いかけると、クジラは「これは聞いた話だけど」と前置きをしてから話し始めた。
「僕達森林クジラは、一頭につきひとり、主となる魔女がいるらしいんだ」
曰く、森林クジラはティルヤ族という小さな魔女の一族を乗せて空を飛ぶのだと。その時、ひとりの魔女を自らの主とするらしい。
アルテミシアは、クジラの灰色の身体を見た。確かに彼の身体はとても大きく、アルテミシアにとっては島と言っても差し支えない。さらに、クジラの言った「ティルヤ族」という名称。彼女は自らの名前を思い返した。
「確かに、私の名前はアルテミシア・ティルヤ=エリュシオン。エリュシオンに住むティルヤ族の魔女だわ」
貴女は、ティルヤ族の誇り高き魔女。そう祖母に教えてもらった記憶もある。祖母以外身寄りの無かったアルテミシアにとって、名前に入っているその種族名は、自らがティルヤ族であることを強力に示してくれる宝物だった。
確かにティルヤ族という種族は存在する。けれど、クジラの話にはひとつ不可解な点があった。
「でも、ティルヤ族が『小さな魔女』ってどういうこと? 私達はこれが普通よ?」
周りが大きいんじゃないのというアルテミシアに、クジラは「君たちにとってはそうなんだろうね」と言った。
「そんなことどうだっていいよ。君達を乗せるのが僕達の役目で、僕の魔女が君かもしれないってだけの話だ。そもそも、聞いた話でしかないし」
そこまで言って、不意にクジラの瞳が柔らかく蕩けた。嬉しそうな、弾んだ光が艶やかな黒瞳に浮かび上がる。
「それより、君の名前を知れたことの方が嬉しいよ。アルテミシアっていうんだね。いい名前だ。僕と少し似てるよ」
「貴方の名前は……?」
彼の言葉に、興味を持ったアルテミシアが尋ねる。良い名前だと言われたからかもしれない。
クジラは尋ねられたことが嬉しいのか、くるりと空中で一回転をして言った。
「アルバートだよ。この名前だけは覚えていたんだ」
嬉々として話すアルバートに、アルテミシアが「ちょっと待って」と言う。
「それだけは覚えていたって、どういうこと?」
アルバートは、少し目を伏せて言った。
「僕、生まれてから暫くの記憶があまり無いんだ。ずっとふわふわとした不思議な空間にいて、そこで森林クジラについて教えてもらった。それからずっと、『僕の魔女』に呼ばれるのを待っていたんだ」
誰に教えてもらったのか、アルバートは言わなかった。アルテミシアも深くは聞かなかった。ただ、溜め息のように呟く。
「でも、私は貴女の魔女ではないわ。それは、きっと大魔女様のお役目だもの」
「何か、知っているのかい?」
アルバートの巨体が横に動く。首を傾げているという意味らしい。アルテミシアは空を見上げた。故郷エリュシオンが泳いでいるであろう、遥か彼方まで澄んだ青空を。
「まだ半信半疑だけど、貴方の言うことが正しいのならエリュシオンも森林クジラなのでしょう」
驚きはしたが、それほど不思議なことでは無かった。エリュシオンが空中に浮かんでいることさえ、今日初めて知ったのだから。
それに、エリュシオンも森林クジラだと仮定すれば、その仕組みについても見えてくるものがある。
「エリュシオンは、常に大魔女様の魔法で管理されているの。その魔法も、国となるクジラの魔女になる時にかけるのなら分かると思って」
ずっとかけられている、エリュシオンの魔法。誰もが当たり前と思って疑わないのは、きっと最初からかかっているからだ。それならまあ、納得はいく。
「私は、ずっと森でおばあちゃんと暮らしていたんだもの。大魔女のはずがない。だから申し訳ないけれど、貴方の魔女ではないと思うわ」
「そっかあ……」
アルテミシアの断言に、アルバートはしょぼんと目を伏せた。アルテミシアは「申し訳ない」とは言ったものの、強気の表情でアルバートを見て微笑む。
「でも、それこそどうでもいいことだわ。エリュシオンがクジラでも、私は帰らなければならないの。そのためにアルバートを喚んだんだもの。ねえ、手伝ってくれるでしょう?」
「どうでもよくない。僕はずっと探していたんだから」
アルバートが不満げな口調で言う。それから、思い出したように付け足す。
「それにさ、君、魔女だから飛べるんじゃないのかい?」
今度は、アルテミシアが肩を落とした。苦虫を噛み潰したような顔で呟く。
「それが、痛くて飛べなかったのよ」
思い出すのは、アルバートを召喚する前。翅が現れた時の激痛。
あの時の痛みもそうだが、アルテミシアは周辺を満たしている魔力に僅かな違和感を覚えていた。
「確かに、この場所にも魔力はある。でも変なの。エリュシオンの魔力とは何かが違う気がするのよ」
エリュシオンの魔力は、包み込むように優しかった。大魔女の魔法の影響もあるのだろうが、常に柔らかく穏やかで、内側のものを守る気配を感じていた。
けれど、ここは違う。魔法を使わない時はごく僅かではあるが、常に肌にぴりぴりとしたものを感じる。漂う気配は、絶望と怒り。そして僅かな悲しみ。一体、どうしてこんなにも違うのか。この土地に来たばかりのアルテミシアには分からないけれど。
そこまで考えて、アルテミシアはふとアルバートを見上げた。
「ねえ、貴方は何も感じないの? 魔力で飛んでいるのでしょう?」
森林クジラというものがどういうものなのか、アルテミシアはあまり知らない。けれど、アルバートの体はとても大きいのだ。魔力で飛ばない限り浮き上がらないだろう。常に魔力を用いている彼も、何か感じているかもしれない。
けれど、アルバートはずっときょとんとした瞳でアルテミシアを見つめるだけ。
「何も感じないよ。まあ、僕は今まで痛みというものを感じたことが無いから、どうとも言えないんだけれどね」
「そうなの?」
アルテミシアが目を丸くする。痛みを全く感じたことがないとは、全く想像がつかない。森林クジラとはそういうものなのだろうか。
アルバートは、自身の痛覚について深く考える気はないらしい。会話を切り上げると、ぐっと潜るようにアルテミシアに近づいて来た。周囲の木々がざわざわと揺れる。大きな空気の動きに、驚いた鳥がどこかへ飛んでいった。
地面スレスレに近づいたアルバートは、上空にいるのを見下ろすよりもずっと大きく見えた。アルテミシアは彼の目ほどの大きさしかない。
そんな彼の大きな黒瞳がアルテミシアを見て、ふわりと柔らかく蕩けた。
「そんなことより、君の事情は分かったからさ。僕の背中に乗ってもいいよ。空、行きたいんだろう?」
「いいの?」
アルテミシアの瞳がぱあっと輝く。アルバートの巨大な口の端が僅かに持ち上がった。
「一応、君に召喚されたんだしね。でも、ひとつだけ条件をつけるよ」
「何?」
「アルテミシアが、『僕の魔女』になること」
アルバートが繰り返し言った言葉。けれど、アルテミシアは否定したはずだ。そう言おうとしたが、続くアルバートの言葉がアルテミシアの動きを止めた。
「僕は大魔女がどういうものなのか知らない。だから、アルテミシアが違うというのならそれでもいい。でも、僕はずっと『僕の魔女』を探していたから、喚んでくれた君になって欲しいんだ」
アルバートの声には、とても強い思いが篭っている。アルテミシアは溜め息をついた。
「分かったわ。でも私、今は貴方の上を維持するような魔法は使えないわよ。それに、エリュシオンには必ず帰る。それは譲れない」
「分かっている。それでいいんだ。ただ、君が僕の主としてずっと一緒にいてくれるのなら、それで構わないよ」
(それって、主に拘らなくても私を乗せて飛べば叶ったことじゃないの)
アルテミシアはそう思ったが、声には出さなかった。何となく、彼の気持ちが分かったから。
きっと、彼は寂しかったのだ。誰もいない中、唯自分にもたった一人の主がいることだけに縋って生きていたのだろう。その気持ちは、アルテミシアがアルバートを召喚した時の思いとよく似ている。アルテミシアは確かに空を飛ぶために彼を求めたが、同時に恐怖と不安だらけの異国で「味方が欲しい」と思ったことも事実だった。
アルバートの背によじ登る。彼の背中には何種類もの草花と木々が生えていて、鮮やかな色合いを見せていた。その中でも、中央に生えた
「綺麗な木ね」
アルテミシアは、合歓を見つめて感嘆の溜め息をついた。大きく太い幹。広がる枝と細い濃緑の葉。いくつもの小さな蕾は、陽光に透けて淡い
焦げ茶の幹にそっと触れた。ごつごつとした触感。内側を流れる豊かで力強い魔力を感じる。優しい力は、不思議と懐かしく感じた。
アルテミシアは、アルバートよりもずっと小さい。今は、彼のために魔法でできることも何もない。けれど、エリュシオンではずっと植物を育てていたのだから、せめて彼の背中の小さな森だけは守ってあげよう。この地に落ちて初めて感じた優しい魔力に心を解されながら、アルテミシアはそう思った。
アルバートは暫く気持ちよさそうに目を閉じていたが、やがてゆっくりと見開いた。
「じゃあ、そろそろ上がるよ?」
その言葉とともに、ぐんぐん上昇する。アルバートの背中から空を見渡したアルテミシアは、大きく目を見開いた。
「エリュシオンが、どこにもない……?」
どこを見渡しても、エリュシオンと思われる森林クジラはいなかった。
広がるのは、果てのない蒼穹。ぺたりと膝をつき、吹き抜ける風を受けるままにアルテミシアはただ呆然とすることしかできなかった。
「きっと、どこかに移動したんだよ」
慰めるようにそう言ったのは、アルバートだった。彼は優しい口調で続ける。
「まだ、そんなに遠くに移動していないはずだ。この国の上空を探せば見つかるはずだよ」
「一緒に、探してくれる?」
柔らかな土の背中に触れ、アルテミシアは縋るように言った。
「どうしても、エリュシオンに帰らないといけないの。だからお願い、一緒に探して」
必死で頼む。と、アルバートが体を小さく揺らした。笑ったようだ。
「当たり前だよ。アルテミシアは、僕の魔女なんだから」
よろしく、と明るい声で言うアルバート。アルテミシアの瞳から、涙が一筋流れた。緑柱石から零れ落ちた雫が、
「ありがとう……。うん、よろしくね」
柔らかな初夏の風が、生い茂る葉とアルテミシアの黄金色の髪を揺らす。未だ、この先に何があるかは分からない。不安も恐怖も残っている。けれど、全てはエリュシオンに帰るために。アルバートとこの風に乗ってどこまでも行こう。アルテミシアはそう心に誓って、見果てぬ空の向こうを見つめ続けるのだった。
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