ep3. 大きな植物の森

 ズキッと頭に響く頭痛で、アルテミシアは目を覚ました。


「ん……?」


 見覚えのない場所に首を傾げる。遠くで鳥の声が聞こえた。それと、海鳴りのような深い木々のざわめき。青葉を透かして零れ落ちる陽光が眩しい。柔らかく湿った地面は、土と枯葉の混ざった匂いがする。

 どうやら、森の中にいるらしい。そう考えながらよろよろと半身を起こした時、何かが隣でがさりと動いた。

 ぼんやりとした頭のまま視線を横に動かし……アルテミシアは思わず声を上げて飛び上がった。


「……!? きゃあ!」


 現れたのは、一抱えもの大きさがある巨大ミミズだった。

 のそりと動く、細長い生き物。ヌルヌルとしたその身体は瞳を持たないはずなのに、何故かじっと見つめられている気がして、アルテミシアはびくりと震えた。そのまま、じりじりと後退る。ドンッと背中がぶつかったのは、見上げても果てが見えないほどに大きなにれの巨木だった。舞い落ちる葉も、周囲に咲く花も上に乗れるほど大きい。


「何で、何もかもこんなに大きいの……?」


 心細くなって呟く。その時、不意に自分がエリュシオンから落ちてきたことを思い出した。

 帰らなきゃ、そう強く思った。それは、不安から来る願望というより、使命感にも似たあまりにも強い思い。ドラゴンに襲われて家が無くなっていても、人が誰もいなくなっていても、何があっても自分はあそこに帰らなければならない。


(落ちてきた……ということは、エリュシオンは空の上?)


 アルテミシアは上を見上げた。エリュシオンが上空に浮いていることは知らなかったが、今まで一度も出たことがないのだ。そんなこともあるだろう。何故魔法防壁があるのに落ちてしまったのかは、未だ謎のままだが……。

 とにかく空にあるなら、上に行けば見えるはず。アルテミシアは翼を出すために呪文を唱えようとした。が、はっと気付く。そういえばあの時、魔法を使うことができなかったのだ。あれも、理由が分からないままだった。


(どうして、魔法が使えなかったんだろう……?)


 暫く首を捻っていたが、答えが出るはずもない。とりあえず使ってみた方が早い。使えなかったら、別の方法を探すしかない。

 ひとつ深呼吸をして、心を落ち着ける。そっと呪文を唱えた。


「【翼を】……痛?!」


 魔法は発動した。が、背中に緋色の蝶の翅が現れた瞬間、全身に激痛が走った。

 何かが背中に打ち込まれたかのように、鋭く激しい痛み。我慢して飛ぼうとするが、羽ばたく程に増す痛みに、堪えきれず地面に戻ってしまった。


(一体、何が……?)


 未だ背中に残る痛みに首を傾げる。普段魔法を使う時は、こんな痛みはないはずなのに。

 とにかく、魔法で戻ることはできそうにないと分かった。別の方法を探さなければ。


「まずは、ここがどこなのか調べないと……」


 呟いて、よろよろと立ち上がる。どこに行くあても無いが、移動しないことには何も始まらない。ふらつく足で歩き出そうとした時、後ろから地響きのような音が聞こえてきた。


(大きな音。どんどん、近づいてきているような……)


 何かががたがたと揺れる音に、数人の男の話し声も聞こえてくる。アルテミシアは慌てて楡の木の影に隠れた。

 現れたのは、黒いマントのような服を着た二人の男だった。革の丈夫そうなブーツと、同じく革の手袋。背中には旅荷物を満載している。二人とも見上げるほど大きい。足元に近づいたらあっさり踏み潰されてしまいそうだ。とっさに隠れて良かったと、アルテミシアはほうっと溜め息をついた。

 それから、はたと気付く。エリュシオンに帰るために、あの人達に話を聞けばいいのではないかと。上空に行く方法は分からなくても、ここがどういう場所かは分かるはずだ。

 恐る恐る近づき、声を掛けようとした。が、アルテミシアはびくりと震えると、大慌てで木の陰に舞い戻った。今見たものが信じられないというように目を見開き、がたがたと全身を震わせる。


「何、あれ……?」


 戸惑う心のまま呟いた言葉は、恐怖に満ちていた。暴れる心臓が痛い。震える身体に鞭打って、再び男達の方を覗き見る。

 果たして、それが見えたのは偶然か否か。


 男の一人が持っていたのは、銀髪の少女が入った鳥籠だった。


 歳は、恐らくアルテミシアと同じくらい。柔らかな白銀の長髪に、透き通るような真っ白の肌を持つ美しい少女だ。しかし、その灰の瞳は感情を持たないかのように虚ろで、足首をいましめている銀の鎖が痛々しかった。

 どうして彼女が捕らえられているのか、考えるだけの余裕は残っていなかった。幸い男達はアルテミシアに気付くことなく通り過ぎたが、彼女の脚は歩く気力を失ってぺたりと地面に落ちた。

 歩かなければ。どうにかして、エリュシオンに帰らなければならない。そう思っているのに、立ち上がることができない。あまりにも怖くて。


「どうしたらいいの……?」


 不安で、知らずアルテミシアの頬を一筋の涙が伝った。声も出さずに、ひっそりと泣き始める。その時、男達が歩いていた場所に一枚の紙が落ちていることに気づいた。

 周囲を警戒しながら、這うようにして近付く。厚手の紙は羊皮紙らしい。アルテミシアが横になれるほどの大きさの紙は古びて黄ばんでおり、金色のインクで何やら不思議な文様がびっしりと描かれている。アルテミシアは、その文様に見覚えがあった。


「召喚魔法陣……?」


 召喚魔法陣とは、文字通り何かをぶために使うものだ。普通、魔法を使うのに必要なものは何もない。召喚も、魔力さえあれば身ひとつで何でも喚ぶことができる。しかし、召喚には大量の魔力が必要だった。そこで、使う魔力を減らすために魔法陣というものが作られたのである。

 魔法陣は、聞くところによると暗示に近いものらしい。その効果は絶大で、魔法陣を見て何か喚びたいと思えば、具体的なものが決まってなくても術者の望みにあったものを喚びだすことができるという。

 アルテミシアは食い入るように魔法陣を見つめると、「これなら……」と呟いた。


(これで空を飛べるものを喚べば、エリュシオンに帰ることができるかもしれない)


 魔法だから、先程のように痛みは多少伴うだろう。けれど、飛ぶ時のように長い間継続する痛みではないし、魔法陣を使うために必要な魔力はそう多くないから多少ましなはずだ。

 アルテミシアは両手を羊皮紙の上にそっと置くと、魔法陣を見つめたまま小さな声で囁いた。


「【これは、扉。世界と我を繋ぐもの】」


 呪文を唱え始めた瞬間、紙に描かれた文様が輝くと同時に再び激痛が襲ってきた。全身を襲う痛みを堪えながら詠唱を続ける。


「【汝、始まりの樹の子よ。我と縁繋ぎし子よ。我が呼び声に応え、この扉より現れろ】……!」


 最後の言葉まで唱えた瞬間、魔法陣が一際強く輝いた。はあはあと荒い息のもと、アルテミシアは目を閉じて必死に祈る。


(どうか、私に空を飛ぶものを。私を、エリュシオンに連れて行ってくれるものを……!)


 木々が、何かを予言するように激しく騒めく。木々にとまっていた鳥達が、我先にと逃げていく。

 そして、巨大な黄金の光が陣の中から飛び出した。


「……?!」


 あまりに巨大な光に、アルテミシアは思わず息を呑む。

 上空に浮かんだ光は、徐々にひとつの形に纏まっていった。灰色の、アルテミシアが百人は乗れそうなほど巨大な体。黒く丸い瞳と大きな口。大気を水のようにかく胸びれと尾。背中に生える様々な植物と、その中でも一際大きな合歓ねむの木。

 彼は尻餅をついているアルテミシアを見下ろすと、少年のように高い無邪気な声で言った。


「やっと、呼んでくれたんだね。僕の魔女」


 それが、アルテミシアと森林クジラのアルバートとの出会いであり、数奇な運命とこれ以上にないほどの奇跡の始まりだった。

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