ep8. 洋服と小さなアルバート

 窓の外に、気持ち良さそうに夜風を受けるアルバートが見える。白銀の光に輝くのは、舞い上がる七色の花びら。

 室内に戻ったアルテミシアは、クローゼットの取っ手に掛けられたリボンを改めて見た。

 窓の外からでも分かる程に鮮烈な深紅。繻子サテンの柔らかな生地で出来ており、艶のある布地が風で靡くたびに、しっとりと煌めくのが綺麗だった。

 

 (こんなリボンで髪を結べたらなあ……)

 

 自分の髪を三つ編みにしている、白く薄汚れたリボンを摘みながら心の中だけで呟く。紅いリボンはアルテミシアの髪を結ぶには長過ぎるけれど。

 それにしても、このリボンは誰のものなのだろう。ヴァンデが使っているとは思えない。この家に元々住んでいたという魔女のものだろうか。

 

「それなら、ここは魔女さんの部屋だったのかな……っ?!」

 

 何気なく室内を見回したアルテミシアは、思わず息を呑んだ。

 部屋の調度品には、特に変わったところはない。見上げる程大きいだけで、何の変哲もない少女のための家具。

 しかし、驚くべきところは確かにあった。シンプルなアイボリーのカーテンも、淡い桃色のシーツも、飴色の机や椅子、本棚やクローゼットも全て、なのである。

 

「どういうこと……?」

 

 この家に来てから、何度目になるか分からない驚きを込めて呟く。知れば知るほど、ヴァンデが隠れ家にしているこの「遺跡」は不思議なことだらけだ。

 その時、かたんっと音を立ててクローゼットの扉が動いた。中から覗いているのは、濃い赤の布。


「服……?」


 呟いて、アルテミシアはそっと扉を開いた。現れたのは、ひと揃いの服だった。覗いていたのは、ボルドーのケープ。他にも繊細なレースで飾られたオフホワイトのブラウスとダークブラウンのキュロットがハンガーに掛けられて行儀良く並んでいる。上に備え付けられた棚からはベレー帽の焦げ茶の布と飾りの紅いリボンが見え、床板にはショートブーツまで用意されていた。

 アルテミシアはケープの布に触れ、ひとつひとつ繰り返し見てから、震える声で呟いた。


「やっぱり同じ……。どうして……?」


 そう、大きさは違うものの、やはりアルテミシアがエリュシオンで着ていたものと全く同じなのだ。

 同じ家、同じ部屋、同じ服。ずっと昔の、全く知らない人のもののはずなのに。ここまで似るということがあるのだろうか。

 そこまで考えたアルテミシアは、きょとんと首を傾げた。


(もしかして、私はこの魔女さんを知っているの……?)


 確証はない。けれど、何らかの関わりはあると考えるのが妥当だろう。

 それに、何故かこの家は懐かしい感じがするのだ。家が、部屋が似ているからかもしれない。しかし、きっとそれだけではない。家全体の空気感が、「自分はこの家を知っている」と教えている気がする。

 だが、覚えている限りアルテミシアはエリュシオンから出たことがない。そもそも、ドラゴンが襲った時のようなイレギュラーがない限り島から出られないというのに、一体いつこの家に来たというのだろう。


「お祖母ちゃんと一緒にいた時も、何も無かったと思うし……」


 言いながら、アルテミシアは頭を掻いた。沢山のことを教えてくれ、住む家を遺してくれた祖母だが、アルテミシアはもうあまり顔が思い出せない。小さい頃のことだし、悲しかったから忘れてしまったのだろうと、今まで気にしたこともなかった。けれど、祖母のことを思い出そうとすると、何だか頭の中がムズムズするのは何故だろう。まるでそこに、もっと重要な「何か」が隠されているかのような――。


……?)


 ふっとそんな考えが頭に浮かんだ時、部屋の扉が控えめにノックされた。


「アルテミシア、入るぞ」


 現れたのは、ヴァンデだった。手に何やら小さな石板を持っている。


「ヴァンデ。探し物は見つかったの?」


 彼が差し伸べた手に捕まる。作業台のような、がっしりとした樫の机にぴょんっと飛び降りたアルテミシアは、ヴァンデが机に置いた石板を覗き込んだ。


「何これ? ……魔法陣?」


 古めかしい石板に緻密に刻まれた文様は、魔法陣の形をしていた。但し、恐らく「門」として使うものではないのだろう。その証拠に、本来空白になっているはずの部分に黒い黒曜石オブシディアンがはめ込まれている。


「これを、アルテミシアに渡そうと思ってな」

「私に?」


 アルテミシアが首を傾げる。ヴァンデは頷いて、話しながらマントの裏を漁った。


「魔力が瘴気化して、人に害を及ぼすようになった話はしただろう? もちろん人はその調査を進めた。その結果、ひとつの薬を開発したんだ」


 そう言ってヴァンデが取り出したのは、見覚えのある赤い薬。


「これは、魔力の影響を緩和するための薬。完全に害を無くすことはできないが、少しだけなら抑えることができるんだ」


 アルテミシアは、艶々とした真紅の粒を見つめた。が、不意に顔を上げる。


「これって、私がヴァンデに飲ませたものよね? ヴァンデもそれが必要なの?」


 彼は魔物で、人ではないのに。アルテミシアがそう言うと、ヴァンデは苦く笑った。


「魔力に影響を受けるもので、痛みを感じる者は誰もが必要だ。例え痛みを感じることができなくても、何らかの影響を受ける可能性がある。魔力っていうのはそういうものだからな」


 お前も痛いから魔法を使えないのだろう? そう言われて、アルテミシアは翼を出そうとした時の激痛を思い出した。恐らくあの時の痛みも、ずっと肌に感じているチリチリとした違和感も魔力の影響だろう。


「だが、アルテミシアにこの薬は効かない」


 ヴァンデは溜め息のように呟き、再びマントの裏にしまった。アルテミシアは目を丸くする。


「え、どうして……?」


 説明を求めるようにヴァンデを見つめるが、彼は首を横に振った。


「理由は知っているが、今は言えない。……だがまあ、そもそもお前の大きさじゃ飲み込めないだろ」


 からかうように笑うヴァンデに、アルテミシアは頭を抱えた。確かに、あの薬はアルテミシアの頭くらいの大きさがあったのだ。口に入れるのも一苦労だろう。

 アルテミシアは唸るが、ヴァンデは「落ち着け」と言ってぽんぽんと頭を叩く。その指先が指し示すのは、机の上の古い石板だ。覗き込むと、アルテミシアの碧の瞳が中央の黒曜石に映りこんで鈍く輝く。どこかに吸い込まれてしまいそうなほど、果てのない黒。


「これは、鏡らしいんだ」

「鏡?」


 ヴァンデが呟く。低い声は、まるで黒い水鏡を揺らすまいとするように抑えた音で響く。


「ああ。悪しきものを跳ね返し、姿。……ほら、ここに書いてある言葉を読んでみろ」

「言葉……?」


 アルテミシアが、ヴァンデの指を目で追う。すると石板の真下、魔法陣にギリギリ被らないところに、そこだけ金色で何かが刻まれていた。

 それは、見たことがない文字。けれど、確かにアルテミシアだけは知っている言葉。


「【私は私。貴女は、貴女】……?!」


 恐る恐る呟く。次の瞬間、魔法陣が金色に輝いた。

 眩い光を放ちながら、一瞬だけ真っ黒な黒曜石が色を失い透明になる。透き通った表面に映ったものが何か確認する間もなく光は消え、机の上には元の石板が置かれているだけだった。アルテミシアは食い入るように石板を見つめ、呆然と呟く。


「一体、何が……? それに……」


 ぺたりと机に座り込んだ彼女は、一見何も変化がないように見える。だが、確かにアルテミシアは自身の変化を感じとっていた。


(ぴりぴり、しない……?)


 ずっと肌に感じていた、ぴりぴりとした感じがなくなっていた。魔力に込められていた、絶望や怒り、悲しみの気配も淡くなっている。これなら、魔法を使うことができるかもしれない。

 アルテミシアの顔がぱあっと輝く。期待のこもった笑顔でヴァンデを見上げた。


「ねえ、ヴァンデ。これなら……」


 そこまで言って、アルテミシアは言葉を止めた。ヴァンデが、何故か険しい目でアルテミシアをじっと見つめていた。正確には、彼女の背中辺りを。


「どうしたの? 私の背中に何かついてる?」


 アルテミシアが問うと、ヴァンデははっと目を開いた。僅かに視線を逸らして首を振る。


「いや、何でもない。それより魔法は使えそうか?」


 露骨に何かを隠したヴァンデが気になったが、今は聞かないことにした。代わりに、満面の笑顔で大きく頷く。


「ええ、魔力の感じが全然違うもの。これなら、ある程度の魔法は使えそうよ」


 早速、試しに使えないだろうか。空でも飛んでみようか。うずうずしながらそんなことを考えるアルテミシアの肩を、ヴァンデの指がぽんっと叩いた。


「魔法使えそうならさ、あいつを小さくしてやったらどうだ?」

「アルを?」


 ヴァンデが示すのは、古い木枠の窓。その外で、ずっと二人の話を聞いていたアルバートだ。

 窮屈そうに顔を窓から出していた彼は、ヴァンデを見るとむっと目を細めた。ヴァンデは気にすることなくアルテミシアに視線を戻した。


「この森に滅多に人は訪れないが、あれだけの大きさのクジラは目立つだろ。小さくして、部屋にいれてやったらいい」

「そうね」


 アルテミシアはあっさり頷いた。ヴァンデの言うことはもっともだ。このまま、アルバートだけを一晩野ざらしにする訳にもいかないだろう。それに、個人的にやってみたいこともあった。

 窓枠によじ登ってアルバートに近づく。ごつごつと固い肌をそっと撫で、幼子に教え諭すような優しい声で囁く。


「【小さき子は、今日も腕に抱かれて】」


 柔らかく澄んだ声が響き、薔薇色の光が花弁を纏うようにアルバートを包み込んだ。

 鮮やかな光は徐々に収束し、再び部屋に静寂の帳が降りた時――。


「小さくしろとはいったけどさ……。そんなに小さくする必要、あったのか?」


 一部始終を見ていたヴァンデが、呆れた声で呟く。

 その視線の先には、ヴァンデの手のひらぐらいの大きさまで縮んだ森林クジラと、彼にぎゅうっと抱きつくアルテミシアがいた。

 小さくなった合歓の木や他の木々を傷つけないようにアルバートを抱きしめ、白く柔らかいお腹に頬を寄せた彼女は、ヴァンデにちらっと視線を向けるとにっこりと幸せそうに微笑んだ。


「いいじゃない。一度、アルをこうやって抱きしめてみたかったのよ」


 今なら、自身の小さな身体でもアルバートを抱くことができるから。彼の体はほんのりと温かく、濃い緑と甘い花の香り、そしてお昼寝をする子猫のように優しくて穏やかな魔力を感じた。どこか懐かしく、心をホッと安心させる不思議な気配。

 抱きしめられたアルバートは、少し戸惑っているようだった。僅かに身動ぎしてアルテミシアを見る。


「ミーシャ……?」


 震える声で呟いたとき、アルテミシアがアルバートのお腹に額を押し付けた。


「一緒にいてくれてありがとう、アル」


 零れ落ちた囁きは、雨粒のようにアルバートの心にそっと沁みた。そのあまりの愛情深さにはっと目を見開く。やがて、彼はくすぐったそうに目を閉じて微笑んだ。


「こちらこそありがとう、ミーシャ」


 身を寄せ合ったまま、くすくすと笑い合う。窓の外、満天の星空が二人を祝福するように包み込んでいた。

 幼い恋人同士のような二人を見守っているのは、もうひとり。窓から少し離れたところで、ヴァンデが優しい、けれど泣きそうな表情で小さな二人を見つめていた。

 どのくらい時が経った後だろう。不意に、ヴァンデが二人に向かって手を差し伸べた。細い指で持っているのは、魔法陣が描かれた石板。


「これはアルテミシアに渡しておくよ。また、痛くなったら使ったらいい」

「どのくらいもつの?」


 石板を見つめながら、アルテミシアが問いかける。ヴァンデは「分からない」と言うように首を横に振った。


「はっきりと決まっているわけではないが、恐らくそう長くもつものではないだろう。……だが、あまりしょっちゅう使わない方がいい。

「どういうこと?」


 アルテミシアが首を傾げる。が、ヴァンデは答えなかった。彼は背を向け、窓の反対側に歩き出す。部屋を出てしまうのかと思い、咄嗟に声を出す。


「待って!」

「……どうした?」


 振り返ったヴァンデは、虚ろな瞳をしていた。明らかな拒絶に、アルテミシアは思わず動きを止める。

 「戻れなくなる」の理由を聞けなくなった彼女は、代わりに別の言葉を叫んだ。


「そのクローゼットの中にある服を、私に譲って欲しいの!」

「はあ?」


 ヴァンデが目を丸くする。驚くのは当然。だが、アルテミシアも本気だ。

 彼のすぐ後ろにはクローゼットがある。アルテミシアがエリュシオンで着ていた服とそっくりのものが入った、あのクローゼットが。


「その服、私がエリュシオンで着ていたものとそっくりなの。だから譲って欲しくて。無理なお願いだって分かっているけど……」


 頭を下げて頼み込むアルテミシアを、ヴァンデはじっと見つめる。息が詰まりそうなほどの沈黙が部屋を支配する。

 不意に、ヴァンデが視線をクローゼットに向けた。扉を開けたところで、視線が下を向く。


「そっか。……そんなところも『あいつ』なんだな」


 低く抑えた呟きは、アルテミシアには届かなかった。

 ヴァンデが振り返る。アルテミシアは緊張するが、彼は先程の拒絶が嘘だったかのような穏やかな笑みを向けた。


「分かった。持っていくといい」

「え、いいの?」


 てっきり断られると思ったのだが、ヴァンデは再び頷いた。服を出してベッドに並べてくれる。アルテミシアはぱあっと顔を輝かせた。


「ありがとう!」


 弾む足取りでベッドに近づき、再び呪文を唱えた。見る間に服がアルテミシアに丁度いいサイズになる。ヴァンデは帽子や靴、リボンもアルテミシアに渡してくれた。赤い綺麗なリボンにアルテミシアの顔が自然と綻ぶ。

 クローゼットの中で着替えた。白いワンピースを脱いだ時、背中に大きな穴を見つけて恥ずかしくなる。ボタンをかけ間違えないようにゆっくりと着替え、三つ編みも編み直してベレー帽を被った。

 クローゼットから顔を出すと、アルバートとヴァンデが何やら話し込んでいた。内容は聞こえなかったが、真剣な表情をしていたので一段落するのを見計らって声を掛けた。


「ど、どうかな……?」

「とっても似合っているよ!」


 恥ずかしそうに出てきたアルテミシアを、そう言って真っ先に褒めたのはアルバートだった。アルテミシアがはにかむように微笑んで頬を掻く。「ありがとう」と囁いた。

 一方ヴァンデは、呆けたような表情でアルテミシアを見ていたが、口の端を僅かに釣り上げた。


「ま、いいんじゃないか」


 それを聞いたアルテミシアがぴょんっと飛び上がった。ヴァンデの腕にしがみつく。慌てて差し伸べられた手には登らず、そのままがっしりとした腕に頬ずりした。


「ヴァンデもありがとう。服のことだけじゃなくて、沢山助けてくれて。貴方がいなかったら、私、どうしたらいいのか分からなかった。本当にありがとう」


 ヴァンデはそれを聞いて、はっと大きく目を見開いた。が、やがて穏やかに目を細めると、伸ばしていた手でアルテミシアの背を軽く叩いた。


「大変なのはこれからだ。……早く、お前の帰る場所が見つかるといいな」

「ええ!」


 優しい声に、アルテミシアが大きく頷く。そうだ。全てはこれからだ。早くエリュシオンを見つけなければ。そのために、アルテミシアは今ここにいるのだから。

 降り注ぐ無数の星に、願いを。美しくも儚げな光が、再び決意を固めるアルテミシアを彼方から見つめていた。

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