ep7. 信じること、願うこと
二階の部屋の扉は、ほんの少しだけ開いていた。柔らかな琥珀の光が階段の方まで漏れている。
アルテミシアはそっと扉の隙間から中に入った。外はとうに陽が沈んでいる。が、ヴァンデが明かりをつけておいてくれたらしい。天井から吊るされた貝細工の球から、午後の陽だまりにいるかのような暖かな光が放たれていた。
(あれも、アティリアなのかな)
僅かな魔力を感じたアルテミシアは、そう予想をつけた。けれど少し不思議だ。外のぴりぴりと痛い魔力に対し、こちらは全てを包み込むかのように優しい。アーキアの古い魔力を使うだけで、こんなにも違いが出るのだろうか。
すべすべに磨かれた板の床を歩く。どうやら、ヴァンデは普段この部屋を使っていないらしい。階下よりも人の気配が淡く、無機質な感じがする。
それでも、家主の愛情を示すように隅々まで手入れが行き届いていた。きちんと掃除され、床にも棚にも埃ひとつ見当たらない。丁寧に磨かれた窓は開け放たれ、少し肌に冷たい夜風が吹き込んでくる。海鳴りのような、深い森のざわめき。狼の遠吠えと梟の鳴き声。夜になっても尚静まらない森の音に、惹かれるように窓に近づいた時だった。
「待ってたよ、ミーシャ」
「きゃあっ」
狭そうに窓から顔の一部を覗かせて、アルバートが現れた。驚いたアルテミシアがぺたりと尻餅をつく。
「もう、びっくりさせないでよ」
頬を膨らませてむくれてみせると、アルバートは慌てて謝った。
「ごめんごめん。ミーシャがやっと来てくれたから、嬉しくてつい」
大きな体をくねらせて照れたように笑う彼が可愛くて、思わずアルテミシアも笑ってしまった。星が銀砂のように零れる夜空に、二人の小さな笑い声が響く。
ひとしきり笑った後、アルバートが聞いた。
「それで、あいつと何を話したんだい?」
ずいっと顔を近づけてくる。アルテミシアは呆れた顔をしてため息をついた。
「あいつ、なんて言っちゃ駄目でしょう? 親切にしてもらったんだから」
それから、アルテミシアはヴァンデが語ったことについて一通り話した。アルバートは頷きながら聞いていたが、最後に少し顔をしかめた。
「……あいつ、本当に信用していいの?」
「どうして?」
アルテミシアは首を傾げた。ヴァンデはとても親切にしてくれた。疑う理由なんてないと思うのだが。
アルバートは困惑した表情のまま、言葉を選ぶようにアルテミシアに問いかけた。
「ミーシャは、黄金のドラゴンにエリュシオンを襲われて、偶々この森に落ちたんだろう?」
「ええ、そうよ」
アルテミシアは頷く。どうしてドラゴンが故郷を襲ったのかは分からないが、この森に落ちたのは本当に偶然だ。
アルテミシアの返事を聞いて、アルバートが続ける。
「ヴァンデは、ミーシャと僕を助けるのは誰かとの約束だからと言った。これって変じゃないか? 偶然にしては出来すぎているよ」
その言葉に、アルテミシアも目を見開く。確かに、よく考えたら不思議なことだ。アルテミシアはたまたま森に落ち、偶然倒れているヴァンデを見つけた。世界を巡る彼はたまたまこの森にいて、偶然誰かと助けることを約束していたアルテミシアとアルバートと出会った。こんなことが、本当に起こり得るのだろうか。これでは、まるで……。
「まるで、私が今日辺りに森に落ちるのを知ってたみたい……?」
呟いて、まさかと思った。こんなこと、とても信じられない。
しかし、アルバートは深く頷いた。
「僕も有り得ないと思う。でも、そうとしか考えられないよ」
不意に、アルバートが窓から身を乗り出した。黒く艶やかな瞳がアルテミシアを見つめる。
「正直、僕はヴァンデのことが信じられない。ミーシャはどう思う?あいつのこと、まだ信用できると思う?」
アルテミシアは、目を閉じて少し考えた。昼間話したヴァンデの言葉と、先程気づいた不審点が、頭の中をぐるぐる回る。
やがて、彼女はゆっくりと目を見開いた。小さな碧玉の瞳が、大きなアルバートの黒瞳を力強い光で射抜く。
「私は、ヴァンデを信じるわ」
朱の唇が紡ぐ言葉に、揺らぎは少しも見当たらない。そこには、とても単純なひとつの理由があった。
「ヴァンデはいい人だと思うの。彼は、誰かのために頑張る人だから」
ヴァンデと話した言葉に、嘘はひとつも見つからなかった。彼の宿命も、それでもひとりの人を愛した狂おしい程の想いも、全て本物だと感じた。語る言葉の陰に切ないまでの愛情を感じ、何度胸が苦しくなったことか。
ヴァンデが、何を考えてアルテミシアを助けるのかは分からない。彼と誰かの「約束」の内容も。それでもいいと思った。ただ、誰かをひたむきに想うヴァンデを信じてあげたかった。
それに、この森に落ちると彼が知っていたのかもしれないという事実は、悪いことだけとは限らない。裏返せば、どうしてエリュシオンをドラゴンが襲ったのかヴァンデが知っているかもしれないのだ。
(最も、彼は「エリュシオンは知らない」と言っていたから、教えてくれないかもしれないけど……)
口に出さず、心の中だけで呟く。それも含め、ヴァンデがアルテミシアに隠していることはあるのかもしれない。それでも、「幸せになって欲しい」と言った彼の言葉に、偽りなどないと思った。
アルテミシアの言葉を、アルバートはただ静かに聞いていた。緊張で僅かに顔を強ばらせたままアルテミシアはその様子を伺っていたが、やがて彼の瞳がゆっくりと蕩ける。
とても優しく微笑んで、アルバートはアルテミシアに頷いた。
「分かった。ミーシャが言うなら、僕も信じるよ」
「えっ、いいの?」
アルテミシアが驚く。てっきり、ヴァンデと関わるのは今日限りにした方がいいぐらい言われるかと思っていた。彼が怪しいのは、よく分かっていたから。
戸惑うアルテミシアに、アルバートは柔らかい光を瞳に宿したまま深く頷いた。
「ヴァンデは怪しいけれど、ミーシャは信じられるから。ミーシャは僕の魔女だから、君が言うなら信じるよ」
ひたむきな眼差しは純粋で、一寸の曇りもない。心からアルテミシアを信じている表情。そんな顔を向けてくれるひとが、ここにいることが嬉しくて、ありがたくて。
――だからこそ、アルテミシアは不思議に思った。
「ヴァンデは、私とアルを助ける理由を『約束だから』と言った。それを私は信じたわ」
アルバートから目を逸らさないまま、アルテミシアがぽつりと呟いた。突然何を言い出すのかと言うように、彼が目を細める。
息を吸って、吐いて。アルテミシアの碧の瞳がアルバートを見つめる。
「それじゃあ、アルは? アルはどうして、私を信じて助けてくれるの?」
ナイフのように鋭い問いは、アルバートが言葉を挟む隙を与えない。
「どうしてアルは、私を信用してくれるの? つい数日前に会ったばかりで、貴方の魔女っていうのも後付けの約束に過ぎない。きっと、貴方の大魔女様は他にいるわ。私もエリュシオンが見つかったら必ず帰る。だから、それまでだけの関係のはずなのに」
恐らく、そう長くはない主従関係。エリュシオンが見つかったら、アルバートがどうするのかは分からない。けれど、きっといつか傍からいなくなるだろう。彼には本当の主がいるはずで、いつかその人が見つかると思うから。
(きっと、その方がいい。アルが私の味方になってくれるのは、彼が私を自分の魔女だと思っているからだもの。それなら、本当の主が見つかった方が絶対にいい)
自分は、それまで一緒にいられたら構わない。ただ、この見知らぬ土地で自分の味方になってくれた。それだけで、アルバートには感謝してもしきれないのだから。
アルバートはじっとアルテミシアを見ていたが、やがてそっと大きな口を開いた。
「ミーシャが僕を喚んで、あの場所から出してくれたから」
「あの場所?」
召喚される前にいた場所のことだろうか。そう問いかけると、アルバートは苦笑しながら頷いた。
「あそこは、ただ真っ白な場所だった。森林クジラや、何頭かの魔力を持った動物はいたけれど、彼らは殆どがただそこにいるだけ。動く者も、ましてや喋る者もいなかった」
アルバートが言っているのは、多分魔力でできた空間のことだろう。高濃度の魔力を持った動物は魔獣と呼ばれ、魔力さえあればある程度生きていられる。そう、アルテミシアも聞いたことがあった。だから、彼らは動こうとしなかったのだろう。そして、魔獣に喋ることができるものは存在しないはず。
アルテミシアが考えている間も、アルバートの言葉は続く。
「誰も、何もしない。そんな場所で、僕だけがずっと何かを探していた。確かに誰かと一緒にいたはずなのに、いつの間にか離れ離れにされた。そのことだけが頭に残っていた。その後誰かから、森林クジラにティルヤ族の魔女がいることを教えてもらったんだ」
それからずっと、アルバートは自分の魔女を探したいと思っていたのだという。
しかし不思議なことに、自分でその空間から出ることは叶わなかった。どこまで行ってもただ真っ白でふわふわとした空間が続いていた。半ば諦めていた時、アルテミシアに喚ばれたのだという。
「ミーシャは、僕を喚んで外に出してくれた。それだけでも感謝しているんだ。もしミーシャが本当は僕の魔女じゃなくても、君がどんな目的で僕を利用しようとしても、最終的には別れてしまうのだとしても、僕は構わない。君が歩む道を信じるよ」
アルバートは、そう言って上機嫌に笑った。少年のように邪気の無い、真摯な瞳。けれど、アルテミシアはそこに一抹の安堵と怯えが潜んでいるのを見つけた。一緒にいてくれる人がいることへの安堵と、すぐにでもこの人はいなくなるのではという怯え。
結局、アルテミシアとアルバートは似た者同士なのだ。二人とも、ようやく巡り会えた相手に喜び、その存在に感謝しながら、相手がいなくなってしまうことに怯えている。アルテミシアは、思いがけない出来事と見知らぬ土地への不安と恐怖から。アルバートは、恐らく自分が初めて出会った「ティルヤ族の魔女」であり、彼に森林クジラについて教えた誰か以外で唯一まともに話せた相手だったから。
どんな形であれ、アルバートはアルテミシアを求めている。誰かの代わりには違いないけれど、彼は自分にずっと一緒にいてほしいと願い、離れることに恐怖を感じている。それが分かったから、アルテミシアはその思いにつけ込むことにした。
「そう、ありがとう。……私も、アルの言葉を信じるわ」
ぽつりと呟くと、アルバートの大きな顔が笑みの形を作った。
嬉しそうな彼を見ながら、心のうちでひとり思う。
(私は、エリュシオンに帰ることを望みながら、ずっとアルといたいと思っている)
それは、相容れないはずの思いだった。アルバートを喚んだのは、エリュシオンに帰るためなのだから。それは変わらない。変わらないはずなのに、どうして彼と話していると、ずっと急いているはずの心が穏やかになるのだろう。どうして彼の優しい言葉が、その綺麗な眼差しが、胸にほんのりと暖かく、けれど少し痛く響くのだろう。どうして、道具として喚んだはずの彼が、こんなにも愛しく思えるのだろう。
自分の中でぐるぐると巡る感情を持て余し、おもわずくしゃりとワンピースの裾を握り締めた時、唐突にアルバートが艶やかな黒瞳をアルテミシアに向けた。
「ミーシャはどう思っているのか知らないけれど、僕はまだ、君が本当に僕の魔女であることを信じているよ」
アルバートの言葉にアルテミシアは、はっと顔を上げた。次いで訝しげな顔をする。自分は彼の魔女ではない。大魔女ではなかったのだから。そう、何度も言ったはずなのだが。
アルバートは窓から顔を引き、大小の星々が煌く空を見上げた。既に地平線の先に沈もうとしているのは、糸のように細い三日月。月と星の頼りない光が、それでも葉を夜風に揺らすアルバートの合歓の木を仄かに照らす。
「ミーシャは、どうして魔法というものが存在するのか知っているかい?」
不意に、アルバートがアルテミシアに問いかけた。アルテミシアは首を傾げる。魔法も魔力も、周囲にあるのが当たり前だった。空気と同じ。今更、その存在の理由なんて考えたことが無い。
「魔法は、人の願いを叶えるものなんだ。人の思いを汲み上げ、形にするために生まれたもの。だからこそ、魔力は人の強い思いに機敏に反応する。人の心を知りたいから」
これも聞いた話なんだけどね、とアルバートが苦笑する。その声も、夜風に紛れてしまいそうなほどの小声。
「術者の強い思いが必要なのは、どの魔法も変わらない。召喚魔法だってそうだ。そしてもうひとつ、魔力には重要な特性がある」
その時、一筋の光が空を駆けた。天空に尾を引く流星。儚い光の行く先を見届けたアルバートは、願いを込めるようにそっと囁く。
「それは、人の記憶に影響を受けるということ」
アルバートの言葉はひたむきで、必死で。
「記憶があるからこそ人は強い思いを抱くのだから、当たり前ではあるんだけどね。特に召喚など対象が必要な魔法は、術者が意図していなかったとしても深層で知っているものを喚び出す。そう考えるのが妥当だ。だから、だからきっと……」
そう、この先に導かれる言葉だけを信じたいと願うように。
「ミーシャが僕を喚んだのは、僕がミーシャの記憶のどこかにあったから。ミーシャが僕の魔女だからだよ」
それだけを今まで信じてきたのだというように、ただひたすらに真摯で一途な声だった。
アルテミシアは小さく溜め息をついた。暫く目を伏せていたが、やがてアルバートを見て微笑んだ。
「そうね……。そうかも、しれないわね」
本当はアルテミシアも、そうであればいいと思う。だが、多分違うだろう。アルバートの魔女は他にいるはず。アルテミシアではない。魔法が記憶の影響を受けるのだとしても、彼を喚んだのは偶然だろう。
けれど、アルバートがそれを願うなら、今だけでも彼の魔女でいようと思う。どっちにしろ、彼が必要で大切なことに変わりはないのだから。今だけは、魔法が繋いでくれた小さな縁に感謝しようと思った。
アルテミシアが窓から身を乗り出す。それを見たアルバートが、掬い上げるようにして背中に乗せてくれた。柔らかい草に包まれた背中をごろりと寝転がり、両手でかき抱くように腕を伸ばす。アルテミシアの腕の長さでは、アルバートを抱きしめるのにはとても足りない。
(でも、いつかアルバートを抱きしめてみたいな)
ひとつのことを願い続ける、無垢な少年のような彼のために。ありったけの感謝と愛情を込めて。
そう取り留めもなく考えた時、窓の向こうに何かが見えた。
「あれは……」
まるで吸い寄せられるように、ひとつの場所に目を向ける。琥珀色の光の中、飴色のシンプルな家具で統一された部屋で一際鮮やかな
――それは、真紅の花弁のようなリボン。
クローゼットの取っ手に掛けられたそれは、甘やかな夜風を受け、アルテミシアを招くようにゆらりと揺れた。
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