ep6. ヴァンデと魔女の家

 高く上空から森を照らしていたはずの陽は、既に中空へ下っていた。

 昼下がりの生温い風が、木々の間を駆け抜けてアルテミシアの頬を撫でる。頭上を泳ぐアルバートの背から、小さな薄桃の花弁が零れ落ちた。両腕を伸ばして掴んだ時、蒼色の毛先に僅かに首筋を撫でられた彼女は、くすぐったさに子猫のように身をよじった。

 

「あんまり動くと落ちるぞ」

 

 風に靡く蒼い髪を軽く払ってから、ヴァンデが声をかけてくる。アルテミシアがいるのは、彼の肩の上。そろりと動いて座り直してから、彼女はヴァンデの方を向いた。

 

「大丈夫よ。それよりどこに向かっているの?」

 

 彼と出会った森の一角から移動を提案したのは、ヴァンデの方だった。彼は注意深く周囲を見渡してから、声をひそめて言った。

 

 『倒れる前、数人の男がこのあたりを歩いているのを見た。どこかに移動した方がいい』

 

 ヴァンデは、アルテミシアについてきてほしいようだった。彼女は素直についていくことにした。彼が見たという男達が、アルテミシアが鉢合わせた鳥籠を持った人かもしれないし、ヴァンデは悪い人ではなさそうだったから。上空のアルバートに一応警戒するように伝えてから、アルテミシアは話をするためにヴァンデの肩に乗ったのだ。

 それからずっと、アルテミシアを落とさないように気持ち緩やかな歩調で歩いていたヴァンデは、前を向いたまま答えた。

 

「俺の隠れ家だ」

「隠れ家?」

 

 間髪入れずに聞き返す。この場所に住んでいるようだと思ったのだが、自宅ではないのだろうか。

 ヴァンデは、口の端だけで微笑んだ。

 

「俺は『渡りの魔物』だからな。この国に定住しているわけではないんだ」

 

 そもそも、この森に住み着いているというわけでもないから、大陸の各所に隠れ家を用意しているのだという。

 アルテミシアはそれらの言葉には頷きつつも、直後にこくんと首を傾げた。

 

「ねえ、そもそも『渡りの魔物』っていうのが分からないのだけど」

 

 アルテミシアは、「魔物」という存在もよく知らない。アルバートのような森林クジラも魔物なのだろうか。

 

「あいつは違うな」

 

 ヴァンデが、アルバートを見上げながら答えた。感情の籠らない、短く無機質な返事。

 

「あいつは人に変化出来ないだろう。中央に生えている、巨大な合歓ねむの木が邪魔しているんだ」

 

 魔法に、獣を人に変えるものは存在しない。逆もしかり。人に鳥の翼を生やしたり、獣の姿のまま二足歩行させたりすることはできるが、全てを変えて全く違う生物にすることは絶対にできない。

 それが出来るのは、全身が人でも獣でもない、「魔力」でできている魔物だけだ。

 

「魔物は魔力でできているから、人も獣も関係ない。基本的に、どんな姿になることもできる。ただ、魔物は魔物で自身の魔力に特性みたいなものがあるんだ」

 

 それは、或いは宿命と言い換えてもいい。魔物自身を縛るくびきのようなものだった。課せられた宿命に沿わない行動をしないように、世界に運命さだめられている。

 このようなことを、ヴァンデは淡々と語った。真夜中色ミッドナイトブルーの瞳は、遥か遠くを見つめているよう。低い声が紡ぐ言葉は、まるでアルテミシアではない別の誰かに語っているみたいだった。或いは、自分自身に話しているのかもしれない。

 

「俺は『渡り』。世界の全てを巡る風の魔物。そう宿命づけられている。だから、ひとつの土地に落ち着くことは決してない。いつでも旅をしていなければいけないんだ」

 

 まるで渡り鳥のように、北へ南へ旅を続けなければならない宿命。そうして世界中を駆け、あらゆるものを運ぶ風となるのだ。

 それは、呪いにも似たものだった。自身の帰るべき場所を決められない呪い。

 アルテミシアはヴァンデを見上げ、そっと囁いた。

 

「故郷を出たのも、それが理由……?」

 

 ヴァンデはアルテミシアを見て、ふわっと頬を綻ばせた。

 

「ああ。この服装も故郷のものなんだぜ」

 

 多少アレンジが入っているが、やっぱり着慣れたものは手放せないと彼は笑う。そこに懐かしさはあっても、悲しみのようなものは見当たらない。

 ヴァンデは、宿命を受け入れた強い瞳をしていた。そこに揺らぎのようなものは少しもない。

 そんな彼の表情をじっと見つめていた。が、もうひとつ静かに問いかけた。

 

「ヴァンデって名前も、故郷のものなの?」

 ――その時、ヴァンデの表情が変わった。

 

 それは、見たことがないほどに優しい、けれど胸を締めつけられるほど切ない表情。少し伏せた瞳に映るのは、隠しきれないほど深い愛情と後悔。

 

「いや、これは旅の途中で貰ったものだ」

 

 零れ落ちた声も、暖かな光でそっと包みこむように愛しげ。短く素っ気ない言葉に込められた万感の思いが、聞いているアルテミシアの心にもしんと響いた。

 アルテミシアは優しく微笑んで言った。

 

「とても、大切なものなのね」

 

 ヴァンデが、泣き笑いのような表情で頷く。

 

「約束の、証みたいなものだからな。……と、そろそろ着くぜ」

 

 約束とはどういうことかと聞こうとしたが、その前にヴァンデが話を切り上げた。アルテミシアもこの話は後にしようと思い、とりあえず正面を見る。

 木々の間に隠れるようにひっそりと建っていたのは、築三、四百年は経っているであろう古い家だ。近付くにつれ、全体が少しずつ見えてくる。苔むした赤い瓦に赤茶色の煙突。積み上げられた焦げ茶の丸太の壁には僅かに蔦が這っている。チョコレートブラウンの扉についた小さな飾り窓まで見えた時、アルテミシアははっと息を呑んだ。

 

「どうかしたのか?」

 

 ヴァンデが振り返る。アルテミシアは、努めて声が震えないようにしながら答えた。

 

「この家、私がエリュシオンで住んでいた家とそっくりなの」

「何……?」

 

 ヴァンデが怪訝そうな声を出す。だが、驚いているのはアルテミシアだって同じだ。

 屋根の色、窓の配置、ドアについている飾り窓の形まで、自分の知っている家と何一つ変わらない。もちろん大きさは自分が知っているものよりもずっと大きい。けれども、エリュシオンにあった自宅とよく似た家がここにあるというだけで十分不思議な話だ。

 高鳴る鼓動が鎮まらないまま、アルテミシアはヴァンデとともに家に入る。室内にあるものはとても少なかった。家具もそれほど多いわけではないが、並んだ椅子やテーブル、壁際の戸棚や時計に至るまで、やはり自分の家にあったものとよく似ていた。


「ここは、元々とある魔女が住んでいたんだ」


 きょろきょろと不思議そうに、どこか寂しげな表情であたりを見回すアルテミシアをテーブルに降ろしながら、ヴァンデが話しかけてくる。


「魔力が瘴気化する前は、この森は魔法を使う人にとって格好の住処だった。沢山の人が大量の、そして良質な魔力を求めてこの森に住んでいた。そういった住居の跡が、今でも森のあちこちに残っている」


 魔力が森に多くあるのはよく知られた話だ。樹木は水や土中の栄養とともに魔力を自らの体に取り入れ、葉から放出して循環させる。土中から樹木が放出する魔力は特に質がよく、エリュシオンでも植物はとても大切にされていた。恐らく、かつてここに住んでいた魔女も、樹木が放出する魔力を求めてここに家を建てたのだろう。


「こうした、魔法を使っていた人々の家や施設を、天空塔の奴らは遺跡って呼んでいる。かつて、確かにあった魔法の『遺跡』だとさ。悪くないネーミングセンスだよな」


 ヴァンデは茶化すようににっと口角を上げるが、アルテミシアは首を傾げた。


「待って。それより天空塔って何?」


 問いかけると、ヴァンデは露骨に嫌そうな顔をした。眉を顰め、忌々しげな口調で吐き捨てる。


「天空塔っていうのは、この国、ホーラノア連合国の中心となっている宗教組織だよ。魔力でもって世界を記録するとされる天空神ティルテリアを主神に、魔力と魔法を信仰しているんだと。大陸にひしめき合っていた小国を纏めるほど絶大な力を持っていて、今も空に浮かぶ塔で全体の統治と監視をしている」

「空に浮かぶ……?」


 ぼんやりと聞いていたアルテミシアは、その一言にはっと顔を上げた。期待に輝く瞳をヴァンデに向ける。


「それって、もしかしてエリュシオンと関係があるの?」


 空飛ぶ塔。魔力や魔法との関係。もしかしたら天空塔も、ティルヤ族が住む森林クジラの一頭なのかもしれない。

 そう思って尋ねたのだが、ヴァンデは眉を顰めたまま首を振った。


「いや、分からない。俺はエリュシオンについて聞いたことが無いし、天空塔はアティリアを使って浮かべている人工の塔だ」

「そう……」


 アルテミシアが残念そうに肩を落とす。が、聞き慣れない言葉に再びヴァンデの方を向いた。


「ねえ、アティリアって何?」


 ヴァンデは、それも知らなかったのかと言うように目を見開いた。


「アティリアっていうのは、天空塔が中心になって作っている魔法装置だよ。魔力が瘴気化した今、人間はアティリアを使うことでしか魔力を用いることができなくなった。……天空塔の奴らが、魔法を使っていた人々がいた場所を遺跡って呼んでいるのは話したよな?」


 ヴァンデの問いかけに、アルテミシアはこくりと頷く。この家も元々魔女が住んでいた遺跡だというのは、ついさっき聞いた話だ。

 彼は曲線を描く飴色のテーブルに触れながら、声量を落として語る。


「遺跡にはもちろん、かつて住んでいた人々が使っていた道具がある。中には、魔力の痕跡が未だ残っているものも。そういったものを天空塔はアーキアと呼んで集めている。昔の純粋な魔力が残っている、アティリアの材料として」


 淡々と話しながらも、ヴァンデの顔は渋い。気まぐれに吹き込んだ風が揺らした前髪の向こうで、真夜中色の瞳が憎悪に燃える。両の拳はしっかりと握り締められていた。


「あいつらは、魔力の反応さえあれば何もかも持ち去っていく。壁や床すらも剥いでいく! この家も、随分とボロボロにされた。俺が修復して、家具も少しずつ増やしているが、まだ全然足りない……」


 尻すぼみになっていく声は、隠しきれない悔しさが滲んでいる。魔法装置という未知のものに思いを馳せていたアルテミシアは、ヴァンデの様子を見て小鳥のように小さく首を傾げた。


(ヴァンデは、この家に住んでいた魔女さんのことを知っているのかしら)


 彼の話しぶりは、魔女のことをよく知っているように聞こえた。もしそうなら、是非ともその話が聞きたい。もしかしたら、この家がエリュシオンにあった自分の家とよく似ている理由も分かるかもしれない。

 だが、尋ねる前にヴァンデが再び口を開いた。


「話を戻すが、エリュシオンを探すのに天空塔に向かうのは悪くないと思うぞ」

「どういうこと?」


 期待と不安が半々といった表情で、アルテミシアが問いかける。ヴァンデは先程までの不機嫌な様子が消え、けれど愉快というよりは油断も隙もなく微笑んだ。


「天空塔はこの大陸の中心だ。情報も一番多く集まる。何より空を飛んでいるクジラを探すなら、空高いところを目指すのがいいだろ」


 アルテミシアは少し考えてから、その言葉にゆっくりと頷いた。確かに、見知らぬ場所で闇雲に探すよりは、何か目指すべき道標があった方がいいだろう。


「ありがとう、ヴァンデ」


 礼を言い、すぐに出発しようとするアルテミシアをヴァンデは慌てて止めた。


「待て待て。森林クジラは目立つから、何も考えずに行っても危険だ。それに今日はもう遅い。今日はここに泊まって、明日考えろ」

「でも……」


 アルテミシアは、もどかしそうに窓の外を見た。本当は、早く出発したい。ようやく行くべき場所が見つかったのだから。

 けれど、ヴァンデの言うことも分かる。差し込む光は既に茜に染まり、じきに陽が沈んで暗くなるだろう。何より、まだあの男達が持っていた鳥籠の中の少女のことが分かっていないのだ。再び彼らにあったらと思うと背筋が凍る。

 逡巡しながらも大人しく座り直したアルテミシアの頭を、ヴァンデの長い指先がそっと撫でた。それから彼は、がたりと椅子から立ち上がる。

 沈む間際の、一際強い陽光がヴァンデを照らす。彼はとても優しい笑顔を浮かべ、低く落ち着いた声で話した。


「大丈夫だ。お前がエリュシオンに帰れるように、俺も考えるから」


 言いながら、アルテミシアにそっと両手を差し伸べる。彼女を床に降ろすと、ヴァンデは階段の方を指で指し示した。


「俺は探すものがあるから、アルテミシアはアルバートにさっき言ったことを話してくるといい。二階の窓からなら話しやすいだろ。俺も、見つかったらそっちに行くから」


 もう一度柔らかく微笑んで、足音も立てずに立ち去っていこうとするヴァンデを、アルテミシアが引き止めた。


「ねえ、もうひとつ聞きたいことがあるのだけど」

「何だ?」


 ヴァンデが振り返る。アルテミシアは精一杯背伸びをして、彼を見上げた。


「どうしてヴァンデは、私たちにそんなに優しくしてくれるの?」


 それは、よく考えたらとても不思議なことだった。ヴァンデにとって、アルテミシアもアルバートも赤の他人。いくら彼を助けたからといって、見ず知らずの者にこんなに優しくできるのだろうか。

 彼は驚いたように目を見開くと、次いで静かに目を伏せた。


「ひとつは、これが『約束』だから」


 低く深い声が、天井の仄明かりにぼんやりと浮かび上がる部屋に響く。ヴァンデは胸に手を当てると、今までで一番優しく、けれど胸を締め付けるほどに切ない声で続けた。


「もうひとつは、俺が、お前たちに幸せになってほしいから。俺と彼女にとって、お前たちが幸せになることが救いになるんだ」


 その声は、零れ落ちる朝露のように儚げで、しかしあまりにも強い思いがこもった言葉だった。


「この国は、俺たちにとって救いようのない場所だ。けれど、あの人が暮らした国が、いつも笑顔を絶やさなかった彼女がいた国が、今も僅かでも希望がある場所だって信じていたいんだ」


 それはきっと、未来への渇望。ヴァンデと誰か分からない「彼女」が、アルテミシアとアルバートに託した願い。

 真夜中の空をそのまま映したかのような瞳に、彼の切実な想いを宿した光がきらりと輝いた。

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