inter5. 愛しさは墓穴の下

 ――このまま、時間が止まってしまえばいいと思った。


 遡ること四年前、ウィステリアの森深くで、ツァイトは一本の巨大な林檎の木の前に佇んでいた。

 林檎の実は未だ小さく青い。熟さぬまま地に堕ちたものが、降り積もった木の葉に埋もれて腐りかけている。投げ捨てられたショベルと、乱切りにされた木片。その一部は下手な十字に削られて、簡素な花束とともに林檎の幹に立てかけられている。

 十字の意味は、天地。その魂は肉の縛りから解き放たれて、魔力とともに世界を巡る。そう教えてくれた人は誰だったか。樹木の根元に遺体を埋め、十字を供えて鎮魂を祈る。ウィステリアの伝統に従い、ツァイトが一昼夜かけてたったひとりで作った墓。そこで眠るのは、彼が己の全てを捧げると誓った最愛の主ティルテリアだ。林檎の木を満たす魔力を道標に、彼女の身体に遺された魔力が静かに天地あめつちに広がっていく。その様を幻視し、彼女の永久に続く旅路が安らかであることを祈ってツァイトは涙を流した。

 夜明けの光すら差し込まない森の底で、ツァイトの頬を伝う雫だけが光を帯びる。その黄玉トパーズの瞳は、ぞっとするほど冷たかった。


                    *


 ティルテリアを埋葬したあの日から、どれほどの月日が経っただろう。

 アルバートとヴァンデと再会するまで、ツァイトはユルグの反乱に紛れるように天空塔関係者の殺害を繰り返していた。時計塔の魔術師として集めた情報と手に入れた権利を利用して、身分の上下に関わらず末端の雑用係から研究者まで全ての者を。

 その様子は、復讐に浮かれていたユルグの民の目にすらも不審に映った。彼に皆殺しの理由を問う者が後を絶たなかったのは、ユルグ以外のホーラノアの住人が天空塔を熱狂的に支持していたことを知っていたが故の疑問か。或いは、ツァイトの様子が見るに堪えないほど痛々しかったからであろうか。

 一時期はツァイトのことを天空塔の間者ではないかと疑ったこともあったユルグの民であったが、次第に彼の存在を自然に受け入れるようになり、復讐の理由を聞く者も減った。理由のひとつは、ツァイトが投げかけられる疑問の声の大半を無視し、少なくともユルグの害にはならないから放置したという消極的なもの。しかし最も大きな理由は、彼と同じようにユルグ以外から天空塔に敵対するホーラノアの民が増えたからだった。

 圧倒的な力と狂的とも呼べる信仰を背景に、大陸全土の支配を完遂させた天空塔。しかし、煌びやかな栄光の裏で塔の管理人たる大司教やその支配に不満や恨みを持つ者も少なくなかった。

 魔力無毒化に惹かれた志の浅い反逆者とは違う、長年恨みを募らせつつ機をうかがっていた者達。彼らは実に様々な理由でユルグの兵に参加を志願し、またツァイトに同調して彼に協力を申し出た。

 背に巨大な剣を背負った男は、アスティリエ辺境の村の出身で、厳つい顔ながら心根は優しく正義感の強い者だった。彼は天空塔の神官であることを傘に村人に対して搾取を行う領主に対峙し、繰り返し圧政を止めるように訴えていたが、反乱を機に村の若者を集めて武力行使を決定した。領主を斬殺した後も、同じような村を見つけては解放を手助けしているという。

 ユルグの兵の後ろで看護や補給を手伝う老婆は、元々ユルグにほど近いリーワーフの端に住んでいた。リーワーフはユルグのもの含め幾つかの民俗が混ざっている地方で、老婆も幼い頃から独自の信仰と民間行事を受け継いでいたが、天空塔の台頭に伴いその破棄を義務づけられた。抵抗した夫が殺され、子供達が強制的に大規模農場に徴収されてから、何もできず諦めるしかない人生に嫌気がさしていたという。今、彼女は反乱軍内で娘とその恋人に再会し、彼らのためにもとどんな雑用も請け負っている。

 背中に画材道具を背負った眼鏡の青年は、湖と芸術の街ヴィネッテリア出身の画家だ。芸術にアティリアを組み込むことに魅力を感じ天空塔を受け入れた故郷だったが、彼の芸術は天空塔やその宗教観と相反するものだった。作品を焼かれ、追われる身となっても隠れて絵を描き続けていた男だったが、強い信念のもとに集結する反乱軍の勇姿に感銘を受け、彼らを鼓舞しまだ見ぬ同志を集めるための絵を描くことで協力している。

 他にも、ドンディナンテで線路の敷設に携わった息子を亡くした夫婦、セルティノの劣悪な労働環境に反旗を翻した工場従事者など、数え上げれば枚挙に暇がない。彼らは一様に天空塔を憎み、その関係者を単身撃破するツァイトに憧れを抱いていた。冷徹で強力な魔法使いだと、反乱軍の面々からヒーローのように思われていたのだ。本人は、そのことに驕りも謙遜も見せない。それがさらに人々の目に眩しく映るのだった。

 その日、久方ぶりにツァイトに話しかけてきた人物も彼に憧憬を抱く者のひとりだったのだろう。短剣を幾つか腰に結わえ付けた、反乱軍には珍しい歳若い少女だった。顔立ちは少々きつかったが、見事な金の髪に碧玉の瞳を持ち、天真爛漫で快活な性格は在りし日のティルテリアを思い出させた。

 だからだろうか。かつて幾度となく聞かれ、無視し続けた問い。戦う理由を問う言葉に、初めてツァイトは自身の胸の内を明かした。


「これしか、もう俺には残されていないから」


 そう、独り言のように呟いた彼を、少女は一体どのような思いで見ていたのだろう。語って聞かせるというよりは己に言い聞かせるような心持ちで、ぽつりぽつりとツァイトは話した。最愛の人の話を。彼女を、永遠に失った話を。

 ティルテリアを林檎の木の下に埋めた時、ツァイトは己の心も一緒に埋めているような気がした。敬慕も、愛情も、忠誠も、隠しきれない恋慕も劣情も、全てはティルテリアに捧げるためにあった。彼女を失った今、その感情は自分には不要で。墓穴に一緒に埋めてしまった今、己に残されたのは天空塔に対する復讐心だけだった。

 だから、天空塔関係者は皆殺しにする。そう噛み締めるように言ったツァイトに、じっと聞いていた少女は曖昧な笑みを浮かべた。


「貴方のこと、凄い人だって色々なところで聞いたのだけど……。何というか、とても寂しい人なんですね」


 少女の言葉の意図が、ツァイトには分からなかった。寂しいなんて気持ちはとっくの昔に忘れていた。誰を殺そうと、自分がどんな目で見られようと、もう何も感じないと思っていたのに。それにも関わらず、僅かに軋んだ胸の痛みの理由は――。


「……」


 思考を打ち切るように小さく溜息を吐いたツァイトは、無言のまま少女の前から立ち去った。彼女はそのことを気にした様子もなく、「勝てるように頑張りましょうねー」と微笑んで見送った。

 大股で少女から離れていったツァイトが、不意にぴたりと足を止めた。自分の心に蔓延る怒りと憎悪がきちんとそこにあることを確認するかのように、固く拳を握り締める。

 今更、寂しいと思っても仕方のないことだった。ティルテリアに会いたいと思っても、最早叶わぬ願いだ。ならば、多くの血に塗れようとせめて恨みを果たすこと以外に何ができるというのだろう?

 たとえ、これが彼女の望みではないとしても。全然違っていたとしても、ツァイトがするべきことはひとつだけだった。


                   *


「それは、今も変わらないはずなんですけどね……」


 現在、ヴァンデと対峙し別れた直後のツァイトは、過去の自分を思い出して自嘲気味に呟いた。

 あの時の諦念は、今も変わらない。たとえ憎悪のままに突き進み、親友を手にかける未来が待っていても。

 それでもドンディナンテの森でヴァンデを殺すことができなかったのは、胸を締め付けるような彼の言葉を聞いてしまったからだろうか。


『殺せるものなら、終わらせてくれ。……俺の、運命さだめを』


 あの言葉の意味も、ティル・ノグに行けば知ることになるのだろう。

 ツァイトの視線は既に東を向いている。知識と沈黙の都に。

 行かないという選択肢はなかった。ツァイトにはまだ、するべきことが残されている。

 それは、大司教達を全員殺すこと。ヴァンデの秘密を知ること。


 ――全てが終わったら、今度こそヴァンデを殺すこと。


 暗く澱んだ己の黄玉トパーズの瞳に透明な雫が浮かんだことを、ツァイトはついに知ることなく旅立ったのだった。

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