ep22. 愛情と不信

 普段は昼夜を問わず活気に溢れているセルティノだが、今宵は豊かさの象徴たるアティリアの光の代わりに紅蓮の炎が街を染め上げ、いたるところから轟音と悲鳴が響き渡る。

 鈍く重い闇に沈む空を、アルバートは全速力で飛んでいた。背中から舞い上がる草のきれや色とりどりの花弁が、夜闇に溶けるように消えていく。

 彼の心の中は、後悔でいっぱいだった。ひとりで塔の中に行かせたこと。ヴァンデの言葉を信じて、塔の外で待ったこと。天空塔を破壊してアルテミシアを連れ出した時の、絶望に染まった瞳が忘れられない。もっと早く彼女の傍に行けたなら、連れ出すことができたなら、そんな思いをさせることも無かったのかもしれない。今更考えても仕方ないと知りつつ、それでも苦く燻る悔しさにアルバートは歯を食いしばった。

 背中に乗せたアルテミシアは家に入ることもせず、ただ呆然と草の中にへたりこんでいる。その背には、夜風にさわさわと音を立てる苦艾アルテミシア。一言として声を発さない彼女を心配しつつ、クジラの身体では背中の彼女を覗うことができないことをもどかしく思いながら、アルバートはアルテミシアに声をかけた。


「ミーシャ……ッ?!」


 大丈夫、と続けようとした声は、ドンッという腹の底を叩くような鈍い音にかき消された。

 アルバートのすぐ横を、真紅に輝く弾丸が唸りを上げて通り過ぎた。続けて数発、同じ弾丸が彼の身体を掠めて揺れる草花を焦がし、腹の真っ白な柔らかい毛を散らす。


「いったい何を……!」


 慌てて背後に視線を向けたアルバートの瞳に映ったのは、数十の浮遊する機械とそれに跨る目深にフードを被った人々だった。

 機械はアティリアのひとつだろう。楕円形を重ねたような形をしており、背後から真紅の光を零しながら闇を切り裂いて滑空する。それに馬のように跨った人々がアルバートに金属の筒を向けていた。その胸元では豊穣の樹木――天空塔に所属することを示す紋章が鈍く輝いている。

 彼らは、天空塔に所属する「聖騎士」と呼ばれる先鋭部隊。大司教達にのみ従属し、ホーラノア全土において警察のような役割を果たす。……などという情報を今のアルバートが知る由もないが、彼らの狙いが己の背中に乗せているアルテミシアだということには気づいた。

 天空塔は既に落下してしまったのか、闇に沈む空には影も形も見当たらない。しかし、塔を失っても天空塔の奴らはアルテミシアを必要としているのだ。アルバートを墜としてでも彼女を手に入れようとする聖騎士の猛攻から、彼は必死に逃げ回った。


(捕まるわけには……! もう、ミーシャを奪われるわけにはいかないんだ!)


 襲い来る無数の弾丸がアルバートの全身を傷つけても、止まるわけにはいかなかった。樹木の枝が抉られ、胸びれから土が零れても、ただひたすら真っ直ぐに進み続ける。どこでもいい。どこか、落ち着いて休めるところまで。誰も追ってこないところまで逃げなければ。

 己の身にあちこち傷をこしらえながらも急ぐアルバート。そんな彼の背で揺られながら、そっと声を上げる少女がいた。


「アル、どこへ行くの……?」


 まだぼんやりとしたアルテミシアの声に、アルバートは悔しそうに顔を歪めて首を振った。


「……分からない。でも、必ず逃げ切るから」


 会話している間も弾丸は飛び続ける。ちぎれとんだ赤い花弁が鮮血のように夜空に飛び散る。獣の唸り声にも似た轟音は、減るどころかどんどん増えているような気がする。絶え間ない猛攻にもめげずに逃げ回っていたアルバートだったが、僅かに間を空けて発せられたアルテミシアの言葉に思わず耳を疑った。


「アル、お願いだから止まって。逃げなくていいから、これ以上傷つかないで」

「なっ……何を言ってるんだ、ミーシャ?!」


 掠れた声での懇願。それでも、アルバートが止まるはずもなかった。全速力で逃げ続けながら、言葉をぶつけるようにアルテミシアに向かって叫ぶ。


「僕は止まらない! 逃げないとさっきのおっさん達に捕まって、また変な機械に入れられちゃうんだよ? そんなこと、もう絶対にさせない! 大丈夫、絶対に逃げて」

「どこに逃げたって一緒なのよ!」


 アルバートの声を遮るように、アルテミシアが声を重ねた。己の身を切り裂くような、あまりにも切ない叫び声。


「ここに、私の居場所なんてどこにもない。エリュシオンも……帰るべき故郷も、存在しないことが分かってしまった。どこに逃げたところで、もう……」


「――そんなことないっ!」


 あまりにも悲痛な声に耐えかねて、思わずアルバートは大声でアルテミシアの言葉を遮っていた。飛び続けながら、何度も首を横に振る。強く強く、彼女の嘆きを否定し、勇気づけられるように。


「天空塔で何を言われたのかは分からないけど、居場所がないなんてそんなこと絶対にない。あんな奴らに捕まるより良い道が、きっとあるはずだよ」


 アルテミシアが天空塔で何を言われたのかアルバートは知らない。悲嘆にくれた表情をしている理由も、「エリュシオンは存在しない」と言った意味もよく理解できていない。

 だが、アルテミシアを天空塔に連れて行った男や塔の門前で意味深な言葉を告げた奴が彼女にこんな顔をさせて、あまりにも悲しい言葉を言わせたことは分かってる。それだけで、何としてでもアルテミシアを天空塔から逃がす理由は十分だった。

 それに、アルバートには決めていることがある。


「それでも、もし居場所がないと思うなら、僕がミーシャの居場所になるよ」


 それは、絶対にアルテミシアの味方でいるということ。

 ずっと彼女と一緒に旅をする中で芽生え、ユルグから逃げ出す時に気づいた「アルテミシアだから一緒にいたい」という気持ちを、アルバートはずっと大事に抱えてきた。それが召喚されたからでもアルテミシアが魔女だからでもない、どうしようもなく自分の本心であると気づいた時から、彼は決めたのだ。何があっても傍にいる。絶対に味方でいると。


「誰がミーシャを否定しても、どんな事実が君を襲っても、僕が否定しない。絶対に一緒にいる。だから、また一緒に旅をしよう? どこまでも空を渡って、知らない場所に行って、まだ知らない沢山のものを見に行こうよ」


 そう語るアルバートの声はあまりにも優しく、知らずアルテミシアの頬を涙が伝った。


「アル……」


 アルテミシアは嬉しかった。本当に嬉しかったのだ。アルバートが居場所になってくれると言ってくれて。そして、彼女も一緒にいたいと思った。アルバートの背に乗って、彼と一緒にどこまでも旅をすることができたら。そう望んでいた。

 しかし、アルテミシアは同時に思い出していた。鏡に暴かれた真実。彼女がアルテミシアとして生まれた、アルバートと出会った本当の意味を。

 かつて、エリュシオンではない、恐らくもうないであろう本当の故郷で、アルテミシアは大魔女だった。――否、大魔女になるべき存在とでもいうべきか。とにかくそんな存在として生まれた彼女は、故郷の中心にある塔で大事に育てられた。

 小石を積み上げた、粗末だが堅牢な塔。その最上階で、アルテミシアはいつも小瓶を抱いていた。時々夢に見た、合歓の木の種子が入った可愛らしい小瓶を。彼女は昼夜を問わず、繰り返し願う。


『早く、目を覚まして。大きくなってね、


 そうして、毎日魔力を込めることで。自分に従うように。何があっても自分を信じるように。

 かつてアルバートが話したように、森林クジラには必ず主となる魔女がいる。樹木の種子に魔法をかけてクジラを作り出した魔女が。彼女達は、自分たちの住処であり乗り物とするために森林クジラを作った。

 アルバートが探し続けていた魔女がアルテミシアだったことは喜ばしい。しかし、自分の魔女を求めていたことも、アルテミシアと一緒にいてくれたことも、。アルテミシアが、ティルテリアにかけられた魔法によって知らずエリュシオンを求めさせられていたように、アルバートも魔法の命令に従っているだけだとしたら。

 今、アルバートはアルテミシアを想っている。飛び交う紅の散弾で己の身体を傷つけながら天空塔から逃げ、すっかり絶望しきっていたアルテミシアにそれでも「自分が居場所になる」と言ってくれた。それはとても嬉しい。だが、そんな数々の行動すら、アルバートの内に常に潜む魔法が描いたシナリオだとしたら――。

 そこまで考えたアルテミシアは、不意に己の口を両手で覆った。


(何? どうして私、こんなことを考えているの? アルは沢山私を助けてくれたのに、どうしてこんな疑うようなことを……)


 自分が考えていたことが到底信じられない。ずっと一緒に旅をしてきたアルバートを疑う方がどうかしている。アルテミシアはそう心の中で呟き、これ以上考えまいとするように首を大きく左右に振った。

 が、考えてしまう。鏡に暴かれた真実。そこから導き出されること。アルテミシアは否定したいけれど、間違っていると言うことはできない。アルバートの優しさ、与えられる愛情すら本物だと信じられないことに、彼女は全身の震えを押さえつけるように己の身を抱き、俯いて僅かに唇を噛んだ。

 どのくらい時間が経ったのだろう。逃げ続けたアルバートはいつの間にかセルティノを抜け、ドンディナンテに入っていた。未だ夜の闇が晴れる様子はなく、紅の閃光が走る時だけ、降り注ぐアルバートの土や毛とともに山脈に広がる暗い森が薄らと見える。

 アルバートの想いを信じられずとも、彼が傷つくのを悲しもうと、もうアルテミシアに彼を止める術は見つからなかった。ただ、繰り返す嫌な思考を頭の中から追い払い、柔らかい背中に顔を埋めて祈った。


(どうか、アルと一緒に、無事に逃げられますように……)


 今は、それだけ考えたらいい。そうだ、アルバートの魔法とか天空塔で聞いた話とか自分の過去とかは全部、後で二人で話し合えばいい。そうして全部忘れて、再びアルバートと旅をすることができるようになればきっと――。


 その時、けたたましい轟音とともに、目の前に魔力とは違う紅蓮の光が広がった。


 ドンディナンテまで追ってきた聖騎士のひとりが、火炎放射器を使ったのだ。被害が広がりやすく、アルテミシアまで傷つける可能性のある武器に緊張が走る。が、アルテミシアにそんなこと気にする余裕などない。

 彼女は、ただ呆然と正面を見つめていた。形を失ってボロボロと崩れる葉を。桃に似た甘い匂いから焦げた臭いに変わった花を。真っ黒に焼き尽くされ、半ばのところで折れてしまった幹を。


 、アルテミシアが魔法をかけた美しい合歓の木の無残に変わり果てた姿を、動くこともできないままじっと見つめ続けていた。

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