ep18. 緑と黄金の草原から黒の山脈へ
真っ白に透き通った空が、次第に鮮やかな青に輝いていく。二階の窓を開いたアルテミシアは、そのまま手頃な場所に見えた合歓の木の枝に飛びついた。すぐに葉が揺れるのを察したアルバートが声をかける。
「おおい。ミーシャ、落ないでよ?」
青々と繁る小さな葉と薄桃の花に彩られた枝にしがみついたアルテミシアは、彼の顔がある方向に向かって声を張り上げる。
「おはよう、アル。ちゃんと気をつけてるから大丈夫よ!」
「ならいいけどさー」
呆れ混じりの声。その心配をよそに、アルテミシアは器用に枝を登っていった。寝ぼすけの小鳥と顔を見合わせて笑い、風に舞い上がる赤いケープを抑え、きらきらと輝く朝日に目を細める。それから彼女は、眼下に広がる黄金色の草原を見下ろした。
ユルグを出てはや数日、アルテミシアとアルバートはユルグの隣の街リーワーフの上空を移動していた。
黄金色の向こうには、鮮やかな緑。光を反射して透明に輝く建物や、低木が規則正しく並んでいる場所も見える。どれも、この街ではよく見られる農業地帯だ。
リーワーフは農業の街。北のヴィネッテリアからは豊かな水が、西のドンディナンテから冬の冷たい空気と山に育まれた豊かな土壌が得られる場所であるため、国の頃から農業を主産業としている。
「リーワーフの別名は『緑と黄金に輝く街』。その名の通りの光景だわ」
合歓の木の枝に腰掛け、幹にもたれたアルテミシアが歌うように囁く。その視線の向こうで、大きな機械に満載した作物やその周囲を駆ける人々の姿が過ぎていく。夏の終わりを迎えたリーワーフは美しく豊かな街だった。
この時の彼女は知らないことではあるが、リーワーフの豊かさの一因にはアティリアの普及があった。リーワーフ、ドンディナンテは共に自分達の利益のために自ら天空塔に近づいた街である。リーワーフは農業、ドンディナンテは鉱石の産出や精錬で発展してきた国。故に、彼らは国としての形を失ったとしても、アティリアによって産業を発展させる道を選んだのだ。天空塔としても彼らの産業はなくてはならないものであり、その拡大に協力を惜しまず両者は現在も友好的な関係を築いている。
今日も硝子室の横で、畑に設置された細い金属の棒の上で、或いは縦横無尽に敷かれた道路に置かれた機械で、アティリアは仄かに紅の光を灯す。だが、アルテミシアはそれらには目もくれない。彼女がその翡翠のような瞳を爛々と輝かせて見つめていたのは、やはりというか、畑で育つ植物だ。
「こんなに広い畑初めて見たわ! それに知らない植物もいっぱい!」
「それ、昨日も同じことを言っていたよ?」
始終興奮しっぱなしのアルテミシアに、アルバートも苦笑を禁じ得ない。
「だって、日にちが経つほどに知らない景色が増えていくもの」
得意げに言った彼女は幹から背を離し、両足で枝を跨ぐようにして端まで移動した。両手で枝を掴んで眼下の光景に身を乗り出す。瞬間、アルテミシアの碧玉の瞳が僅かに紅を帯びた。
「【小さき翅よ、私に世界を見せて】」
鈴を振るような声に呼ばれるように現れたのは、紅の翅を持つ小さな蝶。羽ばたく度に仄かに鱗粉を煌めかせる蝶は、アルテミシアの周りを離れ地上付近まで駆けていく。彼らは、アルテミシアが魔法で作り出した自由に動く「瞳」だ。
アルテミシアとて、ユルグを離れた時にヴァンデに言われたことを気にしていない訳ではない。鏡を使えば少しは自分でも飛べるが、極度に目立つのを避けるためにこうして探索機を飛ばすようにしている。これなら人に見られても「変わったアティリア」と見られる可能性が高く、大きな翅を出すよりも魔力消費量を抑えられて一石二鳥だ。
(これも、鏡を使わなければそんなに長く維持できないけど……。何はともあれ、鏡をくれたヴァンデには感謝だわ)
ヴァンデに貰った鏡を、アルテミシアはずっとキュロットのポケットに入れていた。使用頻度は日に一回から二回、ピリピリすると感じた時に使っている。ヴァンデには「しょっちゅう使うと戻れなくなるかもしれない」と言われたが、今の所問題なさそうだった。
(そもそも、「戻れなくなる」ってどういう意味なんだろう? ヴァンデも何も教えてくれなかったし……)
いつも鏡を使う時に映る「緑色の何か」も気になるのだが、一度もはっきり見えたことがない。未だ多い謎に暫く考え込んでいると、アルバートが声を掛けてきた。
「それで、何か面白いものは見えた?」
彼の言葉に、アルテミシアは改めて眼下を見下ろした。畑に植わっているものを指折り数える。
「あっちの緑のは南瓜。もう殆ど収穫は終わっているみたい。後はハーブ園と、果樹園と……他はよく分からないわ。黄金色の植物も見たことがない……」
アルテミシアは黄金の草原をまじまじと見つめた。見れば見るほど不思議。綺麗に区画で分けられた畑の周りに太い水路。けれど畑内の土は固く乾いてしまっている。
ここで誰かが彼女に教えることができたなら、あれは米を育てており、収穫のために水を抜いた水田であると理解できたことだろう。米とはどういうものなのか、地方によって主食が全く違うことも知ったかもしれない。その理由までは……どこでも、未だ気温が高い晩夏にも関わらず厚いケープを着たままでもいられる理由には、気づくことができなくても。しかし実際に彼女が全てを知ることになるのは、もう少し先の話である。
そんな訳で、今のアルテミシアは不思議に思いながらもただ観察することしかできなかった。あちこち蝶を動かして丹念に見て回る彼女に、アルバートは「ふうん」と納得したような、けれどどこか不可解そうな声を出す。彼は少し考えた後、続けて問いかけた。
「エリュシオンは、こことは全然違うのかい?」
アルテミシアは何度も首を縦に振った。
「全然違うわ。エリュシオンは毎日どこでも何も変わらないもの」
故郷を思い出す。花は萎れず、樹木の種類に関わらず枝には常に葉が満ち、果実が毎日同じ時間に実る常春の地。誰もが、それを当たり前だと思っていた場所を。
「一日が終わって朝日が昇っても、昨日と何も変わらない。膨らむ蕾が花開くのを喜ぶことも、種をつけた植物がその生を終えるのを見守ることも知らない。それが常識で、誰もそれを疑問に思っていなかった。……私以外、ね」
アルテミシアだけが不思議に思っていた。彼女だけが、植物が
「初めは何度も失敗したわ。やっとちゃんと育つようになって……でも、きっとまだまだだったのね。こんなに沢山の植物が世界にはあるなんて、私知らなかったもの」
エリュシオンでは森で暮らしていたし、人々は植物を大切にしていたから街にも街路樹や花壇があった。そうして沢山の植物に触れてきたつもりだったけれど、それ以上に見たことのない植物が色々あることをアルテミシアは嬉しく思った。
「それが、本来『森林クジラ』のあるべき姿なのかなあ……」
話を聞いたアルバートが呟く。アルテミシアは彼の合歓の木に咲く花を――綻ぶ蕾や枯れ落ちた花を見て穏やかに目を細めた。
「沢山の人が生活するためには、その方がいいのかもしれないけど……でも、私はこの方が、時が経つごとに違った姿を見せる森林クジラの方が好きだわ。魔法をずっと維持していた大魔女様には怒られるかもしれないけどね」
エリュシオンがずっと同じ状態を保つように管理していたのは大魔女様だ。それはきっと、森林クジラの背中の上という小さな世界で人々が食に困らないための術だったのだろう。変化しない日常を嫌って、自宅の地下に植物園を作っていたアルテミシアでさえ、毎日同じ時間に実る野菜や果実を使用していたのだから。だが、もしそういう制約がなければ大魔女様もエリュシオンの人々もきっと、毎日見る景色が少しずつ変わる方がいいと思うのではないだろうか。
そこまで考えて、アルテミシアはあれっと首を傾げた。
(そういえば私、エリュシオンを出てから何も食べてない……?)
水は飲んでいる。ツァイトにも貰ったし、時折降る雨の他、地に降りて休憩しアルバートの背中の森を世話する時に自分のための水を貯めている。喉は確かに乾くのだ。けれど、空腹を感じたことはない。ものを食べた記憶がまるでない。
(どういうこと? 確かに、エリュシオンでは毎日食事をしていた。時々街に買い物だって行っていたはず。それなのに……?)
その時、遠い記憶の彼方から聞こえる声があった。泉の底から湧き出るように、おぼろげだが確かに知っている少年少女の声。
『それならば、彼らは何かに縛られることは無い……? いや、それでも未だ彼らには時間という制約が残っているじゃないですか! しかも、余りにも短い……』
『それでいいの。それが大事なのよ』
顔の見えない声は、けれど優しい微笑みすら見えそうなほど慈愛に満ちたもので。
『不死なんて、本当に必要ないの。食を必要とせず、この世界のあらゆるものに縛られることなく自由に空を舞う彼ら。そこから時間という縛りまでとってしまったら、本当に彼らは人々が言う人形になってしまう。でも、この子達は人形じゃない。人と比べたら瞬きするほどに短い生だとしても、生まれては死んでいくその
誰ともしれない、浮かんでは消える淡い言葉。その意味を少しでも掴もうと、アルテミシアは必死で手を伸ばした。声にならないまま叫ぶ。
(貴方達は誰? 一体、何の話をしているの……?)
「ミーシャ!」
そのまま記憶の奥底に潜ろうとしていたアルテミシアは、アルバートの声にはっと我に返った。
「ど、どうしたの?」
突然の大声に驚きながら、恐る恐る問いかけるアルテミシア。そんな彼女に、アルバートは僅かに不機嫌な声で答えた。
「どうしたのじゃないよ! 何度も呼んだのに、全然返事がなくて……何かあったのかと思ったじゃないか」
「ごめんなさい。ちょっとぼうっとしてて」
心配させてしまったらしい。平謝りのアルテミシアに、アルバートも少し溜め息をついたが「何もないならいいよ」と微笑んでくれた。打って変わって明るい声で言う。
「それより、そろそろリーワーフを抜けるよ。高い山が続くから、もう少し上を飛ぶかも。風が強くなるから気をつけて!」
アルテミシアは彼の言葉を聞いて、合歓の木の幹の方に移動した。幹にもたれ太い枝にしっかりと捕まり直すと、蝶の魔法を解いて自身の目で正面を見る。
「わあ……!」
思わず感嘆の声を上げた。天に聳えんばかりの連山。巨大な城壁にも見紛う山々が遥か彼方まで連なっている。茶色い岩肌や深緑の影からは、鉱石を精錬しているものと思われる黒い煙が立ち上る。
今まさにリーワーフを抜け、「黒く力強い街」ドンディナンテに入ったのだ。
アルテミシアは故郷には無かった雄大な山脈を目にしても、あまり心が晴れない。その片隅にはずっと、先程思い出した言葉が引っかかっている。
(あれは、ティルヤ族のこと……? 今までも沢山不思議なことがあった。けれどまだ、私が思い出せていないことがあるの?)
エリュシオンから落ちてから、次々と明らかになるホーラノアの人々とティルヤ族の関係。故郷にいた頃は何も知らなかった、少しも考えもしなかった謎。
そのまま再び思考の海に沈もうとしていたアルテミシアは、遠くから聞こえる唸り声のような低い音に眉を顰めた。
「何の音?」
「ミーシャ、あれ! 下っ!」
アルバートの声に促されるまま、アルテミシアは顔を下に向けた。視線のすぐ先で見つけたものに驚き、うっかり飛び上がる。合歓の木から転げ落ちそうになるのを何とか両手で支えた。
「何あれ? 何か、運んでるの?」
それは「機関車」と呼ばれるアティリアを用いた乗り物のひとつだった。魔力が知られる前に発達した蒸気機関車は、今はアティリア式機関車に取って代わっている。蒸気機関が急速に発達していたセルティノでは、その技術をアティリアにも応用して効率を追求し、その進歩は今や大陸横断を望めるほどになった。その足がかりとして、まず鉱石の産出地ドンディナンテからセルティノを繋ぐ機関車の運用を実践している。
そんな事情など今は何ひとつ知らない二人だったが、長く伸びる鉄橋の続く先が、自分達の目的地と同じであることには気づいた。アルバートが嬉しそうな声を出す。
「ミーシャ、これを辿ったら多分セルティノに着くよ。天空塔も後ちょっとだ!」
アルテミシアは、陽光で黒光りする機関車の行く先をただぼうっと見つめた。
この先が、セルティノ。そこにはきっと天空塔が、故郷への手がかりを秘めた白亜の塔がある。
(天空塔に行けば、また何かが分かるのかな……?)
エリュシオンを探せば、数々の謎の全てが解明する時が来るのだろうか。アルテミシアは、そんな僅かな期待と不安を抱いて、凱旋門のごとく前後左右に広がる山脈をみつめるのだった。
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