ep11. 知識の樹を抱く街
僅かに膨らんだ三日月が、夜闇に沈む街を淡い銀の光で染める。
ツァイトの導きでティル・ノグに入ったアルテミシアとアルバートは、街の中央にあるという大図書館を目指して歩いていた。
星が瞬く音も聞こえそうなほどの静寂。少しの混じり気もない純白の細長い建物が、星々の光を集めるように天に向かって屹立する。アスティリエも家々の白亜の壁が特徴的な街だったが、人々の活気があったせいか、全体的に玩具箱をひっくり返したような雑然とした印象があった。ティル・ノグはもっと純粋で無垢な感じがする。同じ形の建物が幾つも整然と並ぶ姿は、まるで街全体が藍に沈む夜天へと祈りを捧げているようだ。
時折街を歩く人も、張り詰めたような緊張と静けさを纏っていた。皆同じ真っ白なローブを着込み、アスティリエよりもずっと少ない街灯の下、まるでその光を避けるように早足で通り過ぎていく。
話し声も、物音ひとつしない異様な静けさの中、アルテミシアは戸惑ったように小さな声を上げた。
「何だか、怖いぐらい静かな街ね……」
「どこもかしこも真っ白で不気味だよ。歩いている人も俯いて通り過ぎるだけだし」
アルバートも彼女に同意する。二人の不審げな声を聞き取ったツァイトは、真っ直ぐ前を向いたまま抑えた声で囁いた。
「これほど静かなのは、もうすぐ
ツァイト曰く、天空教の信仰の中心地であるこの街は、独自の様々な戒律に縛られているらしい。そのひとつが「沈黙の戒律」。ティアと呼ばれる、深夜から明け方にかけての時間は声を出してはならないというものだ。
「『汝、声を出すことなかれ。音に出さずとも、神は汝の姿を見ている。ただ目を閉じ口をつむり、その願いを天に捧げよ』と戒律には書かれています。その言葉にある通り、ティル・ノグの人々は言葉を発することなく神に祈りを捧げることでひと晩過ごすのです」
「……変わった戒律ね」
ツァイトの言葉を聞いても、アルテミシアは眉を顰めたまま。やはり、不自然に静かなこの街は苦手だ。背中を何か得体のしれないものに撫でられたかのように、ぞわりと肌が粟立つ。悪寒が全身を駆け抜け、彼女は小さな肩を僅かに震わせた。
ツァイトも、アルテミシアがティル・ノグの光景に不快感を表していることに気づいたのだろう。正面に目を向けたままであったが、アルテミシアを宥めるように口元に淡い笑みを浮かべ、穏やかな口調で囁いた。
「俺もいつ、どうしてこのような戒律ができたのかは知りません。けれど今、俺達はこの『沈黙の戒律』に助けられているのですよ。敬虔なる信者は、たとえ俺達を見とがめても言葉を発することができないでしょうから」
ツァイトはそう言って、皮肉げに口の端を上げた。
ティル・ノグはその性質上特に信心深い人が多く、戒律を破るような者は殆どいないという。それでいて、天空塔に勤めるツァイトが全く信仰していないというのも滑稽な話だ。
アルテミシアはそれ以上戒律については触れず、小さな星がぽつぽつと瞬く空を見上げた。
「天空塔は、ないみたいね……」
囁きに落胆の色が混じる。ツァイトは渋い顔で唸るように言った。
「エリュシオンを探すためと言っていましたけど……そんなに帰りたいのですか」
「もちろんよ」
アルテミシアは頬を膨らませて即答した。
「エリュシオンが、私の帰る場所だもの。絶対に帰るわ」
それだけがずっと、アルテミシアの目的なのだ。
ツァイトは何か言いたそうな顔をしていたが、結局何も言わず溜め息をついた。
暫し、無言の時が続いた。革靴が石畳を打つ音だけが、深く沈み込むような夜の空気に響く。アルテミシアはアルバートにしがみつき、じっとその音に耳を澄ました。無機質で冷たい街から目を背けるように瞳を閉じる。瞼の裏で考えるのは、ティル・ノグに来る直前のこと。
彼からオズワルドの書の話を聞いた直後、時計塔にヴァンデが現れた。ヴァンデはアルテミシアとアルバートの方に笑顔を向けた後、ツァイトが置いていったマグに勝手に水差しから水を注ぎ、一息に飲み干した。それからちらっと窓辺を見て僅かに目を細めた後、それをごまかすように「何か食いもんないかな」と呟いて地下への扉に手をかけた。その時、バンっと音を立てて勢い良く扉が開いた。
『来て突然家を漁るのは止めてくれませんかね、ヴァンデ』
現れたツァイトは、開口一番ヴァンデにそう怒鳴った。呆れたように深々と溜め息をつく彼に、ヴァンデは立ち上がりながらにっと口角を上げた。
『悪かったって。それより準備ができたんだろう? そろそろ行こうぜ』
ヴァンデの言葉にツァイトが渋々黙る。そのまま全員で外に出るのかと思ったら、彼は小さな金属の球体を取り出した。中央に紅玉のような宝石が嵌っている。それを見て、ヴァンデがげっと唸った。
『お前、それひとり用だって言ってたじゃないか』
『あんたも連れていけとは聞いていないですよ。昔からどこにでも現れるのですから、来たいのなら勝手に来たらいいじゃないですか』
冷たく言い放ちながら、ツァイトは球体の側面についている歯車を弄っていく。コチコチと軽い音を立てたと思うと、中央の宝石が紅よりも鮮やかな緋色に染まった。その場にいる全員を淡い光で照らし、床板に緻密な文様を浮かび上がらせる。アルテミシアは、その文様を見てはっと目を見開いた。
(これは、魔法陣……?)
召喚魔法陣とは違うが、門のような形をしている。恐らく、喚び出すよりも入るための門。ティル・ノグに移動するための門なのだろうか。
ヴァンデは未だツァイトに何か言っていたが、やがて諦めたように深く溜め息を吐いた。
『本当はティル・ノグまでついて行ってやる予定だったが……まあ、仕方ないか』
へらりと笑いながら、アルテミシアとアルバートをツァイトのローブのポケットの中に押し込んだ。突然のことに目を白黒させたアルテミシアに、魔法のように両手に現れたものを押し付ける。おっかなびっくり受け取った彼女は、渡されたものをまじまじと見つめた。
『鏡と……家?』
呟いた声は驚愕に震えている。それもそのはずだろう。手渡されたのはヴァンデの隠れ家で使った鏡と、アルテミシアのサイズに合わせた小さなドールハウスだったのだから。木片を組み合わせて作った壁に赤い屋根。小さいが作りはしっかりしており、内部には家具も用意されていた。
『前の家は壊れてしまったんだろ? アルバートと移動する時も便利だろうし、持っていくといい』
『ありがとう!』
アルテミシアは喜び、鏡とともにひとまずいそいそと魔法で小さくした。興味深そうに家を見つめるアルバートに微笑む。
『後でアルを大きくした時、合歓の木の下にこの家を置いてもいい?』
アルバートは頷き、だが不思議そうな目でアルテミシアを見つめた。
『いいけど、ティル・ノグでエリュシオンが見つかったらミーシャは帰るんだろう?』
何気ない口調でアルバートは言う。彼はアルテミシアの願いを理解し、当たり前のようにいつか彼女が離れていくのを了承した上で一緒にいると決めているのだった。
それは、勿論アルテミシアも理解していること。けれど、何故か彼の何でもなさそうな口ぶりに寂しさを感じた。
しかし、彼女はそれを顔に出さずうーんと首を傾げる。
『ティル・ノグで見つかったらいいのだけど。天空塔はエリュシオンではないから、まだ探さないといけないかも。もしそうなったら、また手伝ってくれるのでしょう?』
『もちろんだよ』
アルバートは即答した。それが何だかおかしくて、アルテミシアもくすくすと笑う。
その場に、和やかな空気が流れた。ヴァンデも、幼い子供のような二人のやり取りを微笑ましそうな表情で見守っていた。
しかし、一人だけ彼らの会話についていけない人物がいた。
『エリュシオンって、何ですか……?』
球体を操作し続けていたツァイトが困惑した声を上げる。アルテミシアはきょとんとした瞳で彼を見つめた。
『聞いていないの? エリュシオンは私の故郷よ。その場所の手がかりを得るために、私は天空塔に行きたいの』
アルテミシアがそう言って淡く微笑んだ時、何かがぶつかる音が響いた。
――カラン……。
金属がぶつかった時の、軽く軽い音。ツァイトが持っていた装置を落とした音だ。
床に転がる金属の球体。展開していた魔法陣も消えてしまう。が、そのことを気にすることなく、彼は青い顔で呟いた。
『天空塔、に……?』
絞り出すような声は、驚愕にがくがくと震えていた。アルテミシアは、そんな彼の反応を訝しむように眉を顰める。俯くツァイトに、何か言葉をかけようと口を開く。しかし、声に出す前に大きな手がアルテミシアを襲った。
『……っ』
『ミーシャ!』
アルバートが驚いた声を上げる。ツァイトは握りつぶすような勢いでアルテミシアを掴んでいた。あまりにも強い力に小さく呻くが、彼はそれに構うことなく血走った目でまくし立てる。
『何を考えているんですか?! あそこに行くのは危険過ぎます! そもそも、貴女の故郷は……』
『おい、ツァイト。そのくらいにして、いい加減アルテミシアを離してやれ』
そう言って、興奮しているツァイトの肩を叩いたのはヴァンデだった。
ツァイトは、あっさりアルテミシアを離した。床に落ちていくところを、すんでのところで飛び出したアルバートが受け止める。アルテミシアは彼に掴まり、ぜえぜえと荒い息をしながら頭上で睨み合う二人の男を見た。
否、正確には睨みつけているのはツァイトだけだ。彼は厳しい瞳を崩すことなく、無表情のヴァンデに固い声で詰問する。
『アルテミシアに天空塔に行くことを提案したのは、ヴァンデですね』
『ああ』
『何故、そんなことを……!』
怒髪天を衝くツァイトを、ヴァンデは溜め息混じりの声で宥めた。
『いいから落ち着けって。これが、あいつとの約束なんだよ』
二人の会話にじっと耳を澄ましていたアルテミシアは、ヴァンデの言葉にはっと目を見開いた。
(また、「約束」……。あの約束って、結局一体何なのだろう)
幾度となく繰り返した謎。しかし、今日もそれが解決することなく、アルテミシアとアルバートは再びツァイトのローブのポケットに押し込まれた。
ヴァンデがツァイトに装置を渡す。
『どうか頼む。ティル・ノグまででいいから、連れていってやってくれ』
ツァイトは、ヴァンデの言葉に面食らったような顔をして押し黙った。やがて大きく溜め息をつくと、無言のまま装置を発動させた。
再び魔法陣が現れる。刻まれた文様が力を帯び、部屋全体が緋色の光に包まれる。次第に強くなる光に視界が埋め尽くされる前に、アルテミシアが叫んだ。
『ヴァンデ! 貴方の約束って……』
一体、どういうものなの。
そう尋ねる前に、完全に光の中に包まれてしまう。
アルテミシアは落胆した。が、旅立つ彼らを見送るように、一言だけ聞こえてきた。
『すまない。……だが、もうすぐ何もかも分かるはずだ』
低い囁きは、祈るような、何かを悔いるような響きをしていた。
ティル・ノグのとろりと温い夜風を頬に感じながら、アルテミシアはあの時のヴァンデの言葉の意味を考えた。
恐らく、ヴァンデはアルテミシアに何か隠している。ツァイトの反応も加味すると、それは多分天空塔に関わることだ。もしかしたらエリュシオンにも。
気になりはするが、今考えても何も分からない。今できるのは、手伝ってくれる彼らを信じて進むことだけだ。それが間違っていても、エリュシオンには帰らないといけないのだから。
何より、アルテミシアはひとりではない。今しようとしていることが全て間違いでも、ヴァンデやツァイトが嘘つきだったとしても、絶対に信用できるひとがここにいる。
アルテミシアはふっと目を開いた。アルバートにしがみついている腕にぎゅっと力を込める。小さな合歓の木が、瞬く星に囁きかけるように柔らかい音を立てて揺れる。
彼だけは絶対に信用できる。いつも一緒にいてくれるアルバートだけは、真実アルテミシアの味方だ。見知らぬ世界で、それがどんなに得難いことか、アルテミシアは今ひしひしと実感していた。
――ねえ、私にも、貴方のために何かできることはあるかしら?
心の中だけで、そっと囁く。彼の全てでもって全幅の信頼を寄せてくれるアルバートに、アルテミシアも自分にできる限りのことをしてあげたかった。
愛おしむようにそっと頬を寄せた時、アルバートの動きがぴたりと止まった。
顔を上げる。いつの間にか、すぐ前を歩いていたツァイトも立ち止まっていた。どうしたのか声をかけようとして、アルテミシアは口をあんぐり開けたまま固まった。
それは、余りにも白く、余りにも巨大な建物。
純白の染み一つない壁が、端が見えない程遠くまで広がっている。窓はないが、代わりに繊細なレリーフが壁全体を彩っていた。象る文様は、主に様々な植物と古い言葉。中央に巨大な大理石の扉がはめ込まれており、その扉全体に一本の巨大な樹木が刻まれていた。それと、ひとつの言葉。まるで彼らを招き入れるように。
――「
それが、この街の、そして街にあるホーラノア最大の図書館の名前であった。
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