ep12. 書架の森と精霊

 大図書館の扉を開けた時、まず感じたのは僅かにピリっとした独特な香りだった。

 辛さと甘さ、それに微かに清涼感のある香りが鼻腔を通り、頭の奥深くに染み渡る。一切の音を失くした静寂の中、その香りが不思議な荘厳さを演出していた。


「教会で焚かれる香ですよ。没薬や乳香、沈香をベースに、数種の香木を混ぜて作られます。この図書館は天空塔のものですから、教会も兼ねているのです」


 物珍しそうに辺りを見回すアルテミシアに、ツァイトがそう小声で説明する。低く沈み込むような彼の声と、大理石の床に響くひとつの足音だけがその場で聞こえる音の全てだ。

 足音を追って、アルテミシアとアルバートは扉から左右に続く回廊を進んだ。白亜の壁には花を象ったアティリアの照明が仄かな明かりを放ち、その花を抱くように微笑む少女の彫刻がぼんやりと浮かび上がる。ツァイトの言ったとおり建物内には教会に関する施設も備えているようで、蔵書室以外も幾つかの部屋が回廊に隣接していた。糸を紡いで布を織る場所。調香室。黒檀の重厚な扉は蔵書室の次に大きな礼拝堂で、僅かに開いた扉から淡い黄金色の光と大勢の人の押し殺した息遣いが漏れる。

 ツァイトは、それらの扉の前を早足で通り過ぎながら非常に簡素な言葉で説明した。ついて行くアルバートはもちろん、彼に掴まっているだけのアルテミシアでさえも、ツァイトの後を追いかけるのが精一杯で質問を挟む余地もない。彼にとって、ここは好ましい場所ではないのだろう。礼拝堂の前では、緊張のせいか僅かに顔を強ばらせていた。

 どのくらいの時が経ったのだろう。不意に、ツァイトがひとつの扉の前で足を止めた。合わせてアルバートも動きを止める。アルテミシアは顔を上げて、目の前に迫る巨大な扉を見た。


「これが、蔵書室の扉……?」


 囁き声が、漆黒の扉に吸い込まれる。両開きの重厚な扉は、背筋の凍るような緊張と威厳に満ちていた。刻まれた文様は樹木の前に佇む女性の後ろ姿。項垂れる彼女の背中に、蔓草と古代文字を使った不思議な紋章が刻まれている。中央には、血のようにとろりと紅い不思議な石。


(これ、アティリアの石……?)


 ツァイトが使っていたアティリアの石とよく似ている気がする。思わずアルテミシアがじっと見つめた時、ツァイトが彼女に唇を寄せて囁いた。白銀の刃の鋭さをそのまま紡いだかのような見事な銀髪がひと房、アルテミシアのすぐ横でさらりと揺れる。


「その石に触れてもらえませんか、アルテミシア?」

「えっ、私が……?」


 甘い囁き声に、アルテミシアはぴくりと肩を震わせてツァイトを見つめた。困惑した表情のまま、扉の石にゆっくりと視線を戻す。

 これは、恐らく蔵書室を守る要の石だ。どういう仕組みなのか詳しくは分からないが、不審な人物を通さないために紅い石で判別しているのだろう。それなのに、天空塔の魔術師であるツァイトではなく、アルテミシアに触れるように言うのはどういうことなのか。

 戸惑い、石に触れることを躊躇うアルテミシアに、ツァイトは優しく微笑んで言った。


「大丈夫。貴女は彼女ですから、どんなものも貴女を阻むことはできませんよ」


 その声は穏やかで、自信に満ちていて、けれど切なげで悲しそうだった。まるでアルテミシアではない、別の誰かに話しかけるように。

 アルテミシアはまだ動けず、紅い石をじっと見つめていた。が、ツァイトに促されてよろよろと手を伸ばした。アルバートもゆっくりと近づく。

 そうして、小さな手が石に触れるか触れないかまで近づいた時だった。


「【その男子も、むごいことをするものよ】」


 どこからか、誰とも知らぬ声が聞こえた。高いようにも、低いようにも、男にも女にも聞こえる声。およそ人のものとは思えぬ声色。

 知らない声。奇妙な言葉。そのはずなのに、言葉にだけは不思議な聞き覚えがあった。首を傾げたアルテミシアが、暫くしてはっと大きく目を見開く。


(この言葉……魔法の呪文で使う言葉と同じ?)


 呪文は、魔法に絶対に必要なものではない。ただ魔法を扱いやすくするためにいつの頃からか伝わる言語だ。その言葉のルーツも、意味すらも完全に理解する者はいない。呪文は「願い」によって発し、「思い」を魔力に伝える手段。意味を完全に理解している必要はないのだ。だから、アルテミシア自身が呪文を使う魔女だとしても、どこからか響くその言葉がはっきりと理解できるはずがない。……そう、思っていた。

 けれど、アルテミシアは言葉を発した「誰か」の意思をはっきりと理解することができた。興味、冷笑、そして教唆と警告。


「【しかし……良いだろう。我らもその子に話したいことがある。残されしひと枝の娘よ、ここに来るがいい】」


 人ならぬ声が朗々と響いた直後、紅い石が眩いまでに緋色に輝いた。やはり、ここまではツァイトが持っていた装置の宝石と一緒。しかし、その光はどこかに何かを映し出すものではない。ただ、石の周囲を取り囲むように刻まれていた文様をなぞるように、強い光が漆黒の扉を包み込んだ。

 眩い閃光に、一番驚いたのはツァイトだった。不審げな表情でアルテミシアを見つめていた彼は、輝く扉を見て零れ落ちそうなほど大きく目を開いて叫ぶ。


「まさか、本当に最深層まで繋がるとは……。貴女はいったい……」


 困惑した声。けれど、戸惑っているのはアルテミシアも同じだ。何が起きているのか、どういった状況なのか、「声」に尋ねようとするけれどもう聞こえない。

 ただ、ゆっくりと開く扉がちらっと見え。それさえも煌々たる光に包まれて、何も見えなくなってしまった。


                   *


 いつの間にか、目を閉じていたらしい。アルテミシアはゆっくりと目を開き、自分が先程よりもずっと薄暗い部屋にいることに気づいた。

 とりあえずアルバートがどこにいるか探す。すぐに、自分が変わらず彼に掴まっていることに安堵した。深々と息をついた時、どこからか変わった香りがした。樟脳のような、それよりも少し重く甘い香りに導かれるように顔を上げる。

 数度瞬いた後、目の前に広がる光景にはっと息を呑んだ。アルバートの胸びれにぎゅっとしがみつき、不安と緊張で掠れた声で呟く。


「ここが、蔵書室なの……?」


 視界を埋め尽くさんとばかりに広がるのは、塔のように無数に聳え立つ書架。そこに収められた書物の数は軽く万を超え、沈黙の中にあってもなお自身に内包する知識を雄弁に語り続ける。蔵書を傷めないように光量を抑えたアティリアの灯火に照らされて、閲覧用の書見台や革張りの椅子が暗闇にぼんやりと浮かび上がる。

 アルテミシアが、一度にこれだけ多くの書物を見たのは初めてだ。けれど、驚いたのはそれだけではなかった。室内には書架とともに、数多くの樹木が生えていたのである。

 それはまさに、「書架の森」とも呼ぶべき光景だった。楡や樫、糸杉に櫟、柳など、生育環境を問わず様々な木々が書架の間を縫うように乱立している。中にはまだ緑の葉を揺らす梢も艶やかな若木もあるが、殆どは太い幹を持ち古びた根を地に下ろした古木だ。

 アルテミシアは、傍に生えている七竈の大木に手を伸ばした。幹に触れずとも、その木が強い魔力を帯びているのはすぐに分かった。むせ返るような濃い魔力。彼らはその力によって陽の当たらない屋内でも成長し、また自ら新たな魔力を取り込んでいるのだ。結果、ウィステリアの森にも匹敵するほどに濃厚で上質な魔力で満ちた場所になった。

 驚嘆すべきことは他にもある。ゆっくりと周囲の木々を見渡し、ひとつ瞬いたアルテミシアは、ぴくっと肩を震わせて囁いた。


「ここ、魔力の瘴気化が薄いみたい」

「え、魔力は濃いのに?」


 囁きに反応したのはアルバートだ。彼も、蔵書室に生えている樹木をまじまじと見つめている。アルテミシアは頷いた。


「ウィステリアにいた時みたいにピリピリしないわ。全体がどっしりとした静けさに包まれていて、何だか怖いくらい」


 沈黙、静観、泰然。魔力全体が、「ただそこにある」という強烈な存在感だけを残して凪いでいる。それが、怒りと絶望に満ちた瘴気とは別の意味で恐ろしかった。

 固まったままのアルテミシアに寄り添うように、アルバートが胸びれをゆっくりと動かす。その時、どこからか声が聞こえてきた。


「【ここは始まりの地。ならば、呪いが薄いのも当然のこと】」


 それは、先程聞こえたものと同じ声。相変わらず男とも女とも区別がつかない不思議な声音だ。


「【全てはここから始まった。……あの男子もいないことだ。調べたいことがあるのなら、好きに調べていくといい。その先で見つかることもあるだろう】」


 その言葉に導かれるように、蔵書室の奥へ、奥へと光が満ちていく。アルテミシアは進もうとして、その前にきょろきょろと辺りを見回した。


「そういえば、ツァイトは? ここにいないの?」


 さっきまで一緒にいたはずなのに、どこに行ったのだろう。心配そうな表情をする彼女に、謎の声が溜め息混じりに呟いた。


「【あの子なら邪魔しそう故入れておらぬ。父と似て頭が固い。義理堅いのはあの者の美徳だが、あまり同情して足を掬われぬよう気を付けよ】」


 呆れた声。相変わらず意味はよく分からない。が、どうやら無事であることは確からしい。

 アルテミシアは、アルバートに掴まり直した。「進んで」と小さな声で囁くと。彼は一度ゆっくりと瞬き、書架と木々の間を縫って泳ぐように進んだ。

 書架の間を進むごとに、むせ返るような緑と古いインクの匂い、僅かに甘い不思議な香りが鼻腔を満たす。雑然とした古書の山から現れた数冊の書物がひとりでに開き、記された物語をアルテミシアに語る。

 それは例えば、古の魔法使いが遺した魔法。作られた数多くの記憶書。父が息子に、母が娘に伝えたそれぞれの魔法の極意。その形跡が失われる前に、形に残すことを願った人々の確かな足跡。

 或いは、新たな魔法の輝かしい歴史。見知らぬ誰かが書いた魔力についての論文。神の御力と称える教典。アティリア発展の歩みとこれからの展望。湖の都市に水中に沈む街があることはアルテミシアの興味をひいたが、銀ティルヤについて書かれた書物はやはり「人形」という表記がされていたので投げ捨てた。

 次々と浮かび上がる書物をアルテミシアが読んでいる間も、謎の声はその言葉を朗々と響かせ続けた。


「【かつてここに辿り着いた者は、この寂れた地に魔力に満ちた森を作ることを夢見てこの蔵書室を作った。それは、。その構築を目指す野心。これだから、人は計り知れぬ。その歩みを見続けることが止められぬ】」


 その言葉は舞い上がる花弁のように高く、地に下ろす根のように低く、ひとつの旋律を伴って歌のように蔵書室を満たす。

 アルテミシアは革張りの小型本に視線を落としたまま、心なしか嬉しげに聞こえる歌声にそっと囁きを重ねた。


「あなたは、誰なの……?」


 数秒の間をおいて、声は静かに答えた。


「【我らは精霊と呼ばれている。始まりの樹の忠実な下僕であり、そのもの。呼びたければそう呼べばいい】」


 言葉とともに飛来した一枚の羊皮紙には、「精霊」と簡素な文字で書かれていた。アルテミシアはその紙を大事に胸元にしまうと、口を真一文字に引き結び、更に奥に進むようにアルバートを促した。

 だが、どこを探してもエリュシオンに関する書物は見つからなかった。天空塔については断片的ではあるが分かったこともあるし、様々な魔法は興味深いものも多い。しかし、いかんせん情報が古すぎる気がする。やはり、エリュシオンについて有益な情報を得るためには天空塔に行く必要があるのだろうか。

 天空塔について、特に気になった資料はふたつ。ひとつはホーラノア大陸中央局というところが発行している『天空塔情報誌』。一番大きく取り上げている研究成果は古いものしか掲載されていないが、塔の構造、組織構成などかなり詳しく書かれていた。いつか役に立つかもしれない。


(アティリアを作る魔技師。その扱いに長けた魔術師というのが、きっとツァイトみたいな人のこと。それらと並んで書かれた「人形師」というのも気になるし……)


 銀ティルヤを使役、調整するための役職。彼女達についても知りたかった。何だか他人事ではないと思うことが気になるのだ。

 もうひとつの資料は、天空塔の教典。多くの人が読み返したのか紙が少しよれているが、大切に扱われているのが分かる。ここには「沈黙の戒律」を含む数多くの戒律と、天空神ティルテリアを称える文言の数々が記載されていた。

 魔力の瘴気化は神の怒りであり、天空塔は敬虔なる信者のための慈愛の船。そういった内容を大仰な言葉で宣った文章を眺めながら、考えていたのは別のことだった。


 ――魔力の瘴気化は、何故起きたのか。


 どうして魔力は人を害するようになったのか。魔力が内包する怒りや恨みの感情は、誰のものなのか。天空塔は神の怒りだと言うが、その神とはどういった存在なのだろうか。……もしかしたら、エリュシオンの家を潰したのは神の力だったのだろうか。

 アルテミシアは、天空神ティルテリアについて何も知らない。だからもし彼女が怒っていて、もしエリュシオンを襲ったドラゴンも怒りの発露だというのなら、その理由を教えてほしかった。アルテミシアはずっと、故郷が襲われた理由について知りたかったのだから。

 けれどそれが教典に書いているはずもなく、アルテミシアは肩を落として本を閉じた。

 後は、大した書物はなかった。魔獣事典に、森林クジラの項目がないことが気になったぐらい。

 幾つもの書物を開き、様々な事実を知りながら、アルテミシアはアルバートと共に最奥に向かって進んでいった。これほど奥まで訪れる人は殆どいないのだろう。人の気配が薄く、古い樹木の濃い緑に時々乾いた墨の香りが混ざる。忘れられた木々は好き勝手に枝を伸ばし、陽光も得られない屋内でありながら華やかに百花を纏う。アティリアの灯火ももはやほぼ無いに等しいにも関わらず、全体が魔力の淡い紅の光に包まれている。光の一部が小さな蝶を象り、アルテミシア達を導くように舞い飛ぶのが幻想的だ。

 紅の燐光を散らす数匹の蝶を追って、ひたすら奥へ。その時、前ばかり見つめていたアルテミシアの視界の端に何かが映った。

 暗赤色の革張りの大型本。四隅を金属で補強し、金の刻印で美麗な装飾が施されている。記された表題は『オズワルドの書』。


「アル、あれ……!」


 アルテミシアが手を伸ばす。アルバートも気づいたようで勢いよく移動し始めた。あれは、ツァイトの父である「時の賢者」が記した記憶書。その回収はツァイトに頼まれたことであるが、エリュシオンの手がかりを得られるかもしれない唯一の可能性だ。是非とも読んでみたかった。

 アルバートが『オズワルドの書』に突撃する。記憶書はアルテミシアよりも大きいが、持ち上げるならともかく書架から引き抜いて広げるくらいなら容易だろう。そう思い、彼女が書物の背表紙に手を掛けようとした時だった。


「……っ?!」


 何か細いものが、アルテミシアの横から本を奪っていった。

 驚いてアルバートから落ちかけたところを、すんでのところで彼に助けられる。何とか掴まって一息ついたアルテミシアは、書物が奪われた方を見た。

 丁度彼女の後ろに一本の樫の木が生えている。『オズワルドの書』は、なんとその枝に絡まっていた。


「【すまぬが、この書物を渡すわけにはいかないのだ】」

「精霊……?」


 樫の木から聞こえたのは精霊の声だった。書物を枝葉の中に仕舞い、ざわざわと揺れる。


「【この書は、人として知るべきことを超えてしまった。このままでは、また世界を滅ぼさなければならなくなる。それだけは、絶対に避けなければならぬのだ】」


 悲しげな声。続いて別の方角から、蔓草のようなものがアルテミシアの方に伸びてきた。小さく丸い葉と実をつけたヤドリギの枝だ。ヤドリギの枝はアルテミシアを撫でるように蠢くと、紅い閃光を纏ってアルバートごと包み込んだ。光の向こうから精霊の厳かな声が聞こえる。


「【残されしひと枝の娘よ、堕ちた魔女の罪そのものよ。よくぞここまでたどり着いた】」


 歌にも似た声音がアルテミシアを包み込む。夜明けにも似た光が強さを増し、何も見えなくなっていく。ただ、精霊の声が福音のように響きわたる。


「【我らは、汝らを認めることはできぬ。だが、汝がいなければもうこの国は立ち行かぬ。娘よ、母を断じ自らの罪を償うため、この先を歩むがいい。反逆の枝でもって、我らも汝を導こう】」


 何も見えず、急激に意識が遠ざかる。響き渡る声も曖昧になっていくなか、けれどアルテミシアは知らず精霊の言葉に首を振っていた。

 違う。そんなことがしたくて天空塔を、エリュシオンを探しているのではない。


(私はただ、私のいるべき場所に帰りたいだけ……)


 しかし、その言葉は声にならず泡沫に消えていったのだった。

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