ep20. 天に在す女神の塔

 アルテミシアが白髭の男の言葉について聞き返すよりも先に、彼は天空塔の奥に消えていった。代わりに、別の若い男がアルバートに近づいてくる。

 天空塔に接触するかしないかのところで止まったアルバートに対し、男は当然のようにクジラの頭上を通り過ぎた。合歓の木に近づく彼を警戒して離れても、それを超える速度で近づいてくる。あまりの速さに、アルバートは慌てた。


(だから、僕もヴァンデみたいに速く飛べたらって思ったんだ……!)


 自分の大きくあまり素早く動けない身体を恨んで、思わず奥歯を強く噛み締める。勿論、本当は逃げる必要など全く無いのかもしれない。しかし、見知らぬ男――しかも、アルテミシアについて何か意味ありげなことを言っていた男の仲間をみすみす彼女に近づけさせたくはない。それは良くないことだと、アルバートは本能的な部分で感じていた。

 せめて、アルテミシアは。彼女だけは守らなければ。焦燥のままに叫ぶ。


「ミーシャ!!」


 アルバートの声に、呆けた様子で天空塔を見つめていたアルテミシアはびくりと肩を震わせた。近づいてくる男を見て驚愕に目を見開いたが、もう遅い。彼女が何らかの行動をとるより先に、白く薄い手袋をした手がアルテミシアの胴をはしっと掴んだ。


「……!? 何を……!」

「大司教様のご命令です。少し、大人しくして頂きますよ」


 言葉は丁寧だが、アルテミシアを見る瞳は凍っている。道具でも見ているかのような冷淡な視線をアルテミシアは怯えた。恐怖のまま、力任せに手足を動かしても少しも手から逃れることができない。手袋に細工でもしているのか、魔法を使うこともできない。

 男はアルテミシアを片手で掴んだまま、天空塔内に移動しようとする。


(このままではいけない)


 天空塔には行きたいが、このまま行ってはいけない。アルテミシアはそう思った。このままアルバートと離れて、男に連れ去られる方法では。

 そう考える間にも、男を乗せた機械は移動し続ける。合歓の木を離れ、緑揺らす多くの樹木の上を移動し、クジラの背が遠ざかる。

 天空塔の正門をくぐる直前、アルバートと目が合った。彼の瞳が大きく見開かれるのを見たアルテミシアが思わず叫ぶ。


「アル!」


 だが、既に何をする時間も残されてはいない。一瞬の後、アルテミシアは男と共に、吸い込まれるように天空塔の中に消えていった。


                    *


「ミーシャ!」


 アルテミシアを連れた男の姿が見えなくなっても、アルバートは諦めなかった。必要とあらば、天空塔を壊してでもアルテミシアの元に行くつもりだった。

 しかし、それを止める者がいた。


「止めとけ。お前は外にいた方がいい」


 アルバートを見つめる、鋭い真夜中色ミッドナイトブルーの瞳。いつからいたのか、蒼色の翼を広げたヴァンデが彼の前に佇んでいた。

 人と鳥の姿を併せ持つ男を、アルバートがきっと睨む。


「……何で止める?」

「言ったろ? お前は外にいた方がいい。今、天空塔の奴らを警戒させるのは得策じゃない」


 感情的なアルバートに対し、ヴァンデの声は平坦なまま。


「気になるなら、塔の上の方で待っていたらいい。……恐らく、アルテミシアが連れて行かれたのは中央の塔の頂上だろ」


 白亜の塔を見上げながら、ヴァンデが呟く。アルバートは、そんな彼を半目で睨んだ。


「これから、何が起きるか知っているみたいだな」

「……」


 威嚇するように凄んでも、全くの無言。何を言ったところでヴァンデに何も言う気がないことは、アルバートにもよく分かっていた。仕方なく、彼は動きを止め、中央の尖塔の方を向いた。アルテミシアが連れていかれるであろう場所のすぐ横に陣取る。そしてアルバートは再びヴァンデを見ると、呻くような低い声を出した。


「どのみち、僕はミーシャがいないと中に入ることができない。これが本当にいい選択なのかは分からないけど、少なくとも塔で何かが起こるまではここにいるよ。……でも、もしミーシャに何かあってみろ。僕は絶対にお前を許さないからな」


 そして、アルバートが再び塔に視線を戻す。その目つきは、とても心配そうだった。

 ヴァンデはそんな彼を見つめ、どこか虚ろな視線で呟いた。


「別に、許してもらおうなんて思っていない。ただ、俺はあいつのために……そして、俺自身のために、この約束を果たしたいだけだ」


 漆黒の夜の帳が、二人の表情を覆い隠す。肌を刺すような冷たい風に流され、ヴァンデの言葉はアルバートに届くことなく消え去った。


                 *


 アルバートとヴァンデが天空塔の外で睨み合っていた頃、アルテミシアは若い男に掴まれたまま、中央の尖塔に続く長い回廊を移動していた。

 塔の正面の門は左右で外周に立ち並ぶ大小の塔と繋がっているが、一番背の高い中央の尖塔だけは別になっているらしい。女神にも似た優美な塔に続く道の周囲は中庭になっており、様々な花や木々がその身を美しく輝かせている。丁寧に管理が行き届いた花園は、所々に設えられた噴水や大理石の彫像との調和が取られ、まるで今にも天使か妖精が踊りだしそうなほど見事である。

 神々の楽園と見紛うほどに素晴らしい庭を見ても、アルテミシアの表情が晴れる様子はない。

 彼女は感じていた。美しい庭の向こうに広がる、澱んだ気配を。塔全体を支配する魔力が響かせる、嘆きに満ちた悲鳴を。あまりのおぞましさに、エリュシオンが見つかるかもしれないという期待はとうに薄れていた。不安に駆られ、思わず自分を掴んでいる男に問いかけた。


「ねえ私、エリュシオンを探しに来たのだけど。どこに連れていかれるの……?」


 男は変わらぬ凍った瞳で、機械的に言葉を連ねる。


「大司教様とティルテリア様のところです。何もかも、あの方々に会えば分かりますから」


 あの白髭の男は「大司教」というらしい。結局、話して分かったのはそれくらいだった。

 会話とも言えないやり取りをする間も、男の動きは止まらない。長い中庭の回廊を抜け、彼らはとうとう中央の塔に続く扉を開いた。

 中央の塔は、真ん中が吹き抜けになっていた。周囲に幾つもの部屋が並び、そのすぐ前を円形の吹き抜けに添うように螺旋状の階段が張り巡らされている。だが、あまり使われていないらしい。男も階段には目もくれず、吹き抜けの部分を悠々とアティリアで上昇した。

 塔の内部は、息の詰まるような無音だった。吹き抜けにも螺旋階段にも、不思議なほど人の姿はない。ただ、幾つかの扉の向こうに薄らと人の気配がするだけだ。

 その内の扉のひとつ、塔の中ほどに位置する扉が僅かに開いている。少しだけ残っていた好奇心のままに覗いてみたアルテミシアは、直後に後悔した。

 扉の奥に見えたのは、白い服を着た男女。服装以外共通した特徴のない人々が、皆同じものを取り囲んでいる。黒髪を肩口で揃えた女が身体を少し横に動かした時、彼らが見ていたものがアルテミシアの目にも飛び込んできた。


 ――それは、しどけなく股を開いて横たわる銀ティルヤの姿。


 彼女は、人として他者に見せるべきではない部分まで晒したまま、鈍く光る銀の台の上でぴくりとも動かない。声のひとつも上げようとしない。その表情をアルテミシアが見ることは叶わなかったが、少女の姿をした「彼女」が大勢の人に視姦される姿は生理的な嫌悪感を覚えさせた。

 彼女を無遠慮に照らす白いライトの光。白衣の男が持っている細い針は、一体何に使うというのだろうか。それら全てを何も抵抗することなく受け入れる彼女を見ていられず、アルテミシアは床に視線を落とした。無意識に身体を震わせる。

 同時に彼女は、ある光景を急速に思い出していた。いつのことかは分からない。どこであったのかも分からない。しかし、脳裏にはっきりと蘇る白い光、冷たい寝台、数十の不躾な視線。


(あれは、一体……?)


 今までも、アルテミシアが知らない記憶が蘇ることがあった。でもこれは、今までとは少し違う気がする。無理矢理閉じ込めていたものにうっかり触れてしまったように、激しい恐れと嫌悪感に駆られた。これ以上思い出さないように、目を閉じて思考を追い出す。

 一方、アルテミシアがどんなに顔を引きつらせ震えても、彼女を掴む男の表情はぴくりとも動かなかった。彼は最初から最後まで全く同じ速さで移動し、やがて、吹き抜けの天井にたどり着いた。

 しかし、これが塔の一番上という訳ではないらしい。男は螺旋階段側に移動すると、扉と扉の間に用意された隠し扉から内階段を登った。どうやら、最上階だけ吹き抜けになっていないらしい。

 果たして、暗い階段の先には天井に届きそうなほど大きく重厚な扉が待ち構えていた。

 鈍く赤銅色に輝く両開きの扉。全面に刺の生えた蔓植物がびっしりと刻まれ、左右には杖を持って控える大理石の使徒の像が睨みをきかせている。上部に刻まれた見下ろす天使の彫刻といい、この先が滅多に立ち入ることができない重要な場所であることを如実に示している。

 男は扉の前で立ち止まると、アルテミシアを掴んでいる手を、埋もれるようにひっそりとついているノブに無造作に近づけた。一瞬の後、眩い紅の光が生まれ、ノブを中心に複雑な幾何学模様を作って広がる。やがて、ぎいっと重い音を立てて扉が僅かに開いた。

 一連の現象を、呆然と見つめるアルテミシア。男はそんな彼女を掴んだ手を扉の隙間に押し込むと、無機質な声で呟いた。


「お二人ともここでお待ちです。では」


 そのままアルテミシアをぽいっと放り込むと、再び地響きのような音とともに扉が閉まった。


「……!? 痛っ……」


 突然手を離されて、冷たい床に尻もちをつく。よろよろと立ち上がったアルテミシアは、自分が入れられた場所を確認するようにキョロキョロと周囲を見渡した。

 まず最初に目に入ったのは、全体を厚い藍の布で覆われた壁だった。入ってきた扉以外窓のひとつもなく、天井から床まで垂らされた布は不気味なまでに動かない。採光用の窓に代わり、円形の天井を囲うように無数のアティリアの照明が全体を明るく照らす。

 そして、中央に置かれた謎のガラス容器。これが一番異様だった。

 ガラス容器自体は、そこまで大きなものではない。せいぜい銀ティルヤ達が入れられていた鳥籠をひとまわり、ふたまわり大きくしたくらいだ。しかし、その小さな容器は無数の管で覆われ、仄かに紅く輝いていたのだ。

 管は容器の上部と下部でとぐろを巻き、それぞれ天井と床を貫いてどこかに続いている。その光景は無数の手が容器を包み込んでいるようにも、這い出た蛇が集っているようにも見え、とても不気味だ。


(まさか、あれもアティリアなの……?)


 アルテミシアが慄いてじりじりと後ずさる。その時、彼女はガラス容器をじっと見ている人物に気がついた。

 一人は、天空塔の門前で目が合った大司教だという男。相変わらず裾長の豪奢な衣装に豊かな白髭で、どこか楽しげな瞳で容器を眺めている。

 その背後にもう一人、線の細い女性が控えていた。白いすっきりとしたドレスは引きずるほどに長く、花を象った繊細な刺繍や宝石で美しく彩られている。金の巻き毛は腰の辺りまで豊かに伸び、額をラリエットで飾った顔は同性でもはっとするほど整い、気品に満ちている。

 彼女がティルテリアだろうか。確かに神と祭り上げられるのも頷けるほど神秘的な女性だが、アルテミシアは彼女を見て少し眉を顰めた。正確には、彼女の瞳を見て。深い森を思わせる濃緑の瞳は暗く淀み、何の感情も映していなかったのだ。……まるで、銀ティルヤの瞳のように。

 そのことに少し首を傾げた時、大司教がアルテミシアに視線を向けた。彼はアルテミシアの正面に立つと、じっと見つめる彼女に対し優雅にお辞儀をしてみせた。


「ようこそ、我らが人形の姫よ。貴女の帰りを待っていましたよ」


 嬉しそうな彼に対し、アルテミシアは言われた意味が全く理解できない。戸惑う心のまま口を開く。


「人形? 私は人形なんかじゃないわ。れっきとしたティルヤ族の魔女だもの。それに、『帰りを待っていた』ってどういう意味? 私はただ、ここに来ればエリュシオンを見つける手がかりを得られると思っただけで……」

「まだ、分からないのですか? この部屋を見ても?」


 必死で弁解しようとしても、大司教は呆れたというようにため息をつくだけ。彼は首を振ると、口元に淡い笑みを浮かべた。


「いいでしょう。分からないというのなら、周囲の鏡をご覧なさい。真実を映す鏡を!」


 高らかにそう告げた時、周囲の壁に掛けられていた布が一斉に地に落ちた。

 藍の布の向こうにあったのは、壁面全体をびっしりと覆う魔法陣と、整然と並ぶ大きな黒曜石。……そう、これは鏡。アルテミシアが、ヴァンデにもらった鏡と同じものだ。


(まさか、この部屋の壁全てが……?)


 アルテミシアが驚いて壁面の鏡をまじまじと見つめた時、無機質な女性の声が響いた。


「【貴女は貴女。私は私】」


 ティルテリアが唱えたのは、アルテミシアが鏡を使う時と同じ呪文。俄に壁面全体が真紅に輝き、黒曜石が透き通る。と、同時にアルテミシアの膝が、がくっと崩れ落ちた。


「……?! な、何が……」


 急速に力が抜けていく身体に驚く。四つん這いになりながら再び鏡を見た時、彼女の瞳が更に驚愕に染まった。


 ――その目に映っているのは、自分の背中から突き出す植物の茎。


 アルテミシアが着ているブラウスもケープも突き破って、細い葉と小さな蕾を幾つもつけた植物の茎が伸びていく。その植物の名は、ニガヨモギアルテミシア。アルテミシアの名と同じ、アルテミシアそのものでもある植物。

 そう、疑問に思うべきことは幾つもあった。夏のホーラノア、しかもその最南端に位置するユルグでさえ、ケープを脱ぐことなく過ごせたのは何故か。一度も食事をすることなく、水を飲むだけで旅をすることができたのは何故か。

 全ての答えは、たったひとつ。


……?」


 がくがくと震える声で呟いたアルテミシアに、大司教はいっそ慈悲深くも聞こえる声で言った。


「そう、全てはこの鏡に映っているものが真実。貴女は、植物で作られたお人形なのです。そして、エリュシオンは……」


 大司教が、舞台演説をするような大仰な仕草で振り返る。真っ白な服を揺らし、彼の短い腕が指し示したのは、部屋の中央に置かれたガラス容器。


。エリュシオンは、貴女がこの中で見ていた夢に過ぎないのですから」

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