ep40. 願わくば絶望の先に光を
時は少し遡り、アルバートが図書館に入っていった頃のこと。
大図書館の向こうへと姿を消した彼を見送ったヴァンデは、その足でこの街のどこかにいるはずのツァイトを再び探し始めた。
ティル・ノグの、冬の夜明けは遅い。徐々に空が白むのが見えても、未だ周囲には闇が残っている。薄らと広がる朝靄の中に見え隠れするのは、燃え落ち、すっかり瓦礫になってしまった真っ白な建物の跡。ごみひとつ落ちていなかった静謐な街は長い戦火に晒されて、歩くたびに灰と埃が舞い上がる破壊と混沌の街に姿を変えてしまった。
ここは、天空塔の本拠地。全ての悲劇の始まりの場所。約束を果たし、望みを叶えてもなお、この街を訪れるたびにヴァンデの胸のうちに苦くドロドロとしたものが溢れてくる。が、頭は意外と冷静で穏やかだった。それは、この場所の現状に理由があるのかもしれない。
初めてティル・ノグに来た時、ヴァンデはあまりにも白く綺麗な街に発狂しそうだと思った。
渡りの魔物であるヴァンデは、世界中様々な国の、様々な街を訪れたことがある。
ヴァンデはそれらの街を痛ましいと思ったことはあれど、綺麗だと思ったことは一度もない。誰もが笑顔で、明るい街の方が良いに決まっている。せめて自分が魔女や魔物を殺すことで、少しでも希望のある方向に変わったら。そんなささやかな願いが、殺すことしかできないヴァンデの希望でもあった。
人々が絶望し、暗雲が立ち込める街を見るのは辛く苦しい。だが、それらの街には確かに人々が生きている証があった。それは泣き叫び嘆く声だったり、手足を失い頭蓋の割れた死体に供えられた小さな花だったりするけれど。闇に覆われた街でも、誰かが生きている証がある。それを見つける度、きっと立ち上がることができる、悲しみが笑顔に変わる時がくるだろうと思った。
だが、ティル・ノグは綺麗な代わりに何もない。まるで街を模しただけの何かのレプリカのように、死体も転がっていないが人が生きている証もない。
ここでは、人が泣かない代わりに笑うこともないのだろう。何も、ないのだから。そう肌で感じて、あまりの非現実感に気持ち悪くなってしまったことを覚えている。
だが、今のティル・ノグには人が生きている感じがある。転がった死体に布をかけて弔う老婦人や、辛うじて残った壁にもたれてパンの欠片を分け合う幼い兄弟に「変わらない」と感じるのも変な話ではあるけれど。
(だがこの光景が、いつか絶望の先に繋がる希望になるはずだから)
だからどうか良い方に、人々の笑顔が溢れる明るい街に変わることができたら。
何かを壊すことしかできない魔物は、それでもそう願わずにはいられなかった。
――どのくらいそうして、ティル・ノグの様子を眺めていたのだろう。
ふと、背後に気配。どうやらずっと探していた人物が、あちらから訪れてきたらしかった。
ヴァンデは振り返ることなく、淡々とした声で呟く。
「俺を殺しにきたのか、ツァイト」
絶対に不可能と分かっている問。だがそこに、僅かな期待が混じっていることに苦笑を禁じ得ない。今でもヴァンデは、自分の運命を終わらせたいと思っている。ツァイトに殺されるならば、それもいいかと考えている。
彼は、すぐに自分を襲ってくるだろうと思った。だが全く動こうとしない。訝しく思ったヴァンデはゆっくりとした動作で背後を見た。直後、ぎょっとした表情でその顔が固まった。
ツァイトはまるで迷子の子供みたいな、悲しみと戸惑いの入り交じった表情で全身を震わせていた。
「俺は……ヴァンデを殺したらそれでいいのですか」
掠れた小さな声には覇気がなく、ドンディナンテで再会した時とは明らかに違う。
「俺はお前が憎い。天空塔が、大司教が憎い。でも一番許せないのは、俺自身なんです」
その言葉で、ヴァンデもようやく思い至った。ツァイトは気づいたのだ。天空塔と大司教の正体に。ホーラノアを覆う瘴気が発生した原因に。
「……」
気落ちしたツァイトに、ヴァンデは掛ける言葉が見つからない。何か言おうと探す間も、彼の独白のような、懺悔のような言葉は続く。
「俺はずっと、天空塔に復讐することが課せられた使命なのだと思っていました。大切な人を尽く亡くし、自分だけが生き残ったこの世界で、それだけしか俺にはないのだと」
壊された故郷。殺された尊敬する父。奪われた愛する人。数多の喪失に直面したツァイトは、その憎しみを糧に復讐を誓って生きてきた。それは、彼の立場からしてみれば哀しくも当然の結末。少しも不思議なことではない。
だが、彼と天空塔の関係は通常では考えられないほど複雑だった。
「しかし、俺は何も知らなかった。天空塔を誰がどうして造ったのかも、魔力が人を冒すようになり、ティルテリア様が何故天空塔に行ったのかも、少しも知らなかったのです」
天空塔は憎むべきもの。故郷と大切な人の仇。ツァイトは、ずっとそう信じていた。
だが、天空塔を造ったのはウィステリアの賢者達だった。父ルドヴィンを殺したのは故郷の人達だった。ティルテリアを絶望させ、瘴気によって故郷を人が住めない土地にした原因は、自分の行動だった。
ツァイトは俯いて、己の拳を血が滲むほど強く握った。それでも、殺しきれない嫌悪と憎悪。その矛先は紛れもなく自分に向けられている。
「故郷のために、ティルテリア様のためにと言っていた行動は、何も分かっていない俺が、ただ子供のように喚いて自分のためだけに傲慢に力を振るっているだけに過ぎなかったのです」
天空塔は悪い奴だからと蔑み、奪われたのだから奪わなければと強奪を正当化し、自分にも罪があることに気づかないまま、復讐と称して沢山の人を殺してしまった。
傲慢で、利己的で。これではまるで――。
「俺は、俺がしていたことは、天空塔と何も変わらない」
ユルグとはまた違った立場で、この戦争で誰よりも天空塔を憎んでいたツァイト。だが彼はそれ故に、垣間見えてしまった真実に酷く打ちのめされた。もう、生きる理由はないと。そう思ってしまうほどに。
「もう苦しいんです。俺にはもう、何が正しくて何が間違っているのか分からない。……俺は、もう死んでしまいたい」
ツァイトが顔を上げた。正義感が強く、いつも冷静にまっすぐ生きている彼が、この日ばかりは酷く弱々しく見えた。深い闇を落とした
「ヴァンデ……どうか、貴方が俺を殺してくれませんか」
長い沈黙の幕が降りた。暫しツァイトを見ていたヴァンデが、そのままぽつりと呟いた。
「俺は、お前を殺したくない」
その言葉に、ツァイトは裏切られたような顔をした。ヴァンデは
「俺は、お前を見ているのが好きだった」
ドンディナンデでの、ツァイトの言葉への返礼というわけではないけれど。
「幼い頃から生意気で、負けず嫌いで、何でも対抗してきて……。それでも、いつでもまっすぐな心根を持つお前が羨ましかった」
ティルテリアと同じくらい、ヴァンデが昔からその成長を見守ってきたのがツァイトだった。
ある時は兄のように。ある時は親友か
ヴァンデは何も決められない。けれど、せめてツァイトだけは昔のままであってほしいと思う。自分で選び、決めて進む彼をまだ見ていたい。たとえ、それが間違っていたとしても。
「確かに、今のお前は沢山間違えたかもしれない。取り返しのつかないことばかりで、目の前が真っ暗に見えるかもしれない。――でも、間違った道でも、お前が歩んだ道の先に確かに道が続いているはずなんだ」
ヒトは、誰もが自分で選んで道を歩いていく。その道は、もしかしたら全て正しいものではないのかもしれない。だがヴァンデは、世界を見つめ続ける渡りの魔物は、ヒトのそんなところが愛おしい。間違えながらも、それに気づき、少しずつ何かを変えながら続いていく彼らの歴史が。
ツァイトも自分の間違いに気づいた。もう彼は、以前の彼ではない。ならばその先も、何かを変えることができる道が確かに続いているはずなのだ。
ツァイトが絶望を乗り越え、前に進むことができたならば。
「俺は、お前を殺さない。死にたいなら勝手にすればいい」
繰り返し言い、ヴァンデがツァイトを見る。
決めるのは彼だ。ヴァンデは、それを変える術を持たない。それでも。
「でも俺は、間違いに気づいたお前が、その先をどんな風に歩くのかを見たいと思うよ」
できるならば生きてほしい。彼なら、一度くらい間違えてもより良い方に歩いていける。ヴァンデはそう信じている。
――何故ならツァイトは、ヴァンデのたったひとりの親友なのだから。
口の端に小さく笑みを浮かべ、呆けた様子のツァイトを置いて立ち去る。ふと振り返ると、彼の背後で高く太陽が昇っていた。
(何もかも壊れてしまったとしても、変わったことも変わらないこともある)
ヴァンデは、ホーラノアの全てに報いを受けさせるつもりだった。そうして壊滅した街は、見るも無惨な姿ではあるけれど。
(もしもまだ、この国に明るい未来が残っているのだとしたら)
それはそれで見てみたい。そう思い、彼は街を照らす光に目を細めるのだった。
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