ep39. 精霊は神の如く嘲笑う

 ヴァンデが言った通り、アルバートは何の障害もなく図書館内を歩くことができた。

 人は確かにいるはずなのに、あくまでも自然とアルバートが通る場所には誰もいないというのは不思議な感じがする。これも、精霊に呼ばれているからだろうか。

 人気のない回廊に、アルバートの靴が真っ白な大理石を叩くコツッという音がやけに響いて思わず全身を強ばらせた。だが、やはり誰も気づかない。すぐ横の礼拝堂では複数の人物の気配がしていたが、皆自分達のことに集中しているのか回廊に視線を向ける者はひとりもいなかった。

 回廊と礼拝堂を隔てる黒檀の扉は僅かに隙間があり、そこから漂う独特な香が妙に鼻についた。アルテミシアとツァイトと訪れた時と同じ香り。この扉もあの時と同じかは分からないけれど。誰も気づいていないことをいいことに、アルバートは金色の光が溢れる扉の向こうを視線だけでそっと覗き込んだ。

 深夜ティアではないからか、幾つもの囁き声と鈴のような音が聞こえてくる。正面に、樹木を背に花を纏った女性のレリーフ。彼女は、慈愛を込めた眼差しで礼拝堂に集う人々を見つめている。舞い散る花弁の一枚、女性の全身を飾る雛芥子の花の一輪に至るまで繊細に彫り刻まれ、まるで女神が天上の花園から降りてきたようだ。

 レリーフのすぐ下には、本来は司祭が立つのであろう空っぽの教壇と、音を奏でることを忘れた小さなオルガンがある。それらの周囲を囲むように、数十の樫の長椅子とそれより少し多い数の白と灰色の塊が黄金色の底に沈んでいた。

 灰色の塊のひとつが、緩慢な動作で床を動く。その中から小さな手が縋るように天へ伸びて、アルバートは小さく息を呑んだ。


(まさか、あの全てが……?)


 集まり、離れ、蠢く白と灰色の塊。その全てが礼拝堂に集まったティル・ノグの人々だった。白と灰色は薄汚れボロボロになった修道服だったのだ。以前街を歩いている人が着ていたそれとは似てもつかないほど血や灰で汚れている。中には戦闘に巻き込まれたのか明らかに負傷している者や蹲ったままぴくりとも動かない者、幼い子供だけで集まっている様子も見受けられる。

 ティル・ノグは、元は国ではなく無人の街。強大な権力を誇る大都市の顔をしながら、本当は周囲の街よりもずっと人口が少ない。それでも、天空塔が大陸を統一してから少なくない人数が住み着き、あるいは大図書館や教会を訪れることを目的に往来する人が増えた。そして彼らは戦争によって住居を追われ、こうして礼拝堂に集っている。存在しない神様に縋るために。

 神様のいない礼拝堂。祈ったところで戦争が終わるわけでもないし、願いが叶うこともない。それでも誰もが救われたいと神の姿を幻視し、他者の賛同を集めて新たな宗教ができていく。あるいは神の力を権威として掲げ、その恩恵を自分達だけのものと驕ったり、神の名のもとに違う宗教同士が争ったりする。天空塔とユルグによる大陸全土に広がった戦争も、元はこうして始まった。どちらに原因があるというわけでもない。確かに天空塔によるユルグへの搾取は深刻だったが、ユルグもまた自分達のことしか考えていないことも、アルバートは身をもって知っていたのだから。両者が宗教という形をとり、揃って傲慢だったことから、このような戦争が起きるのは必然のことだったのかもしれない。たとえ、天空塔が堕ちていなかったとしても。

 同じものに縋る人の間に仲間意識めいたものを作り、傲慢にし、他者を排斥することで自分達の力と信仰をより強固にしようとする。宗教にはそういう宿命があるのかもしれない。

 だが、それは大きく発展した後に起きること。今のような限界の状況で神様に縋り、礼拝堂に集う人々を悪いとは思わない。彼らが信仰に頼ることは否定しない。否定しないけれど。


 アルバートは、もう宗教なんてまっぴらだった。


 彼は、神様に頼らない。誰かに頼ることで何かが変わるとは到底思えない。幸運は自分で手に入れるもの。運命を嘆くことはあっても、掴んだ幸せはその人が歩んだ道の結果にあるものだ。いもしない神様に頼っても何も得られない。少なくとも、アルバートはそう思っている。


(だから、俺はここにいる)


 精霊に縋るのではなく、彼らに会うことで道を切り開き、己の幸運を掴むため。アルバートの幸せは、アルテミシアを取り戻す以外有り得ない。そのためなら、たとえ神様でも誰でも対峙する覚悟だった。

 視線を回廊に戻す。毅然とした眼差しで再び黙々と歩き始める。その時、アルバートのすぐ後ろをくすくすと耳に障る笑い声が追いかけてきた。


「誰だっ?!」


 抑えた声で誰何しながら、素早く背後を振り返る。だが、そこには誰もいなかった。ただ、幾つもの笑い声だけが続く。


「【これは何とも。青く幼い魔物の子よ】」

「【威勢こそよいが良いものか。いつかと同じようにならぬものか】」

「【だが、彼の者は抗えぬ。枯れた花を再び咲かせる方法はない故に】」


 笑い声に混じる、男とも女ともつかない不思議な声音。強い決意に燃えるアルバートを嘲笑うように、周囲の魔力に乗せて朗々と声を響かせたのは精霊だ。


「【しかし、この者も知る必要があるでしょう。監視者が些事も伝えられぬ無能というのなら、我らが教えなければ】」


 精霊が嗤う。彼らはいっそ優しくも感じられる口調で、幼子を教え諭すようにアルバートに語りかける。


「【魔女と魔物はヒトと国のために在る。自己の歓びも、選択し我が道を歩む意志も不要のもの】」


 躊躇も、憐憫もそこにはない。悲しいほどに明らかな断言は、彼らが魔女も魔物もひとつの生命として見ていないことの証。


「【お前達は、ヒトではないのだから】」


 そう言われて、アルバートはぎゅっと唇を噛み締めた。ヴァンデが言った通りだった。精霊は本当に意地が悪い。その上、間違ったことを言っているとはこれっぽっちも思っていない。

 それでも、こんな言葉のひとつやふたつで折れるほど脆い意志ではない。すうっと音を立てて息を吸うと、アルバートは周囲に聞こえることに躊躇いを見せることなく大声で叫んだ。


「それでも、俺達は生きている!」


 ヒトでなくとも、自分達はひとつの生命だ。生きている以上、歩んで作られる道はひとつしかない。たとえ誰かに否定されたとしても、その道は自分だけのもの。

 力いっぱい叫んだアルバートは、肩で息をしながら精霊の反応を窺う。その時、不意に視界が大きく歪んだ。強烈な目眩に襲われ、思わず両目を閉じる

 再び目を開いた時、アルバートは回廊にはいなかった。


「へっ?!」


 彼は辺りを見回し、思わず素っ頓狂な声を上げた。無理もない。先ほどまでシンプルだが繊細な装飾が施された白い壁と、黒檀の頑丈な壁に囲まれていたはずだ。だが今視界に映るのは、仄明かりの中にひっそりと並び立つ書架、積み上げられた本、それに様々な樹木。間違いない。かつてアルテミシアと一度だけ訪れた、大図書館最奥の蔵書室だ。

 アルバートはどこにも移動しようとせず、ただ正面を睨みつけた。耳を澄まさずとも、どこからともなく精霊の声が聞こえてくる。蔵書室を満たす潤沢な魔力に乗せ、本の詰まった書架の陰や、さらさらと音を立てる青葉の間からアルバートに話しかけてくる。


「【ここは世界の縮図。ヒトが歩んだ知の探求。その一部】」

「【誰よりも知識に飢えた者達がこの地に集った時、彼らは一番最初にこの部屋を作った。知を集め新たな知を得る、そのための場所を】」


 語られる「彼ら」とは、ウィステリアの賢者達のことだろう。誰よりも魔法の研究に熱心で、貪欲に知識を求め、周りを省みることなく己の探究心を満たそうとした者達。それが世界を巻き込む前に、彼らが夢見た最初の理想郷。それが、この蔵書室だった。

 天空塔が信仰の柱にしていたのは、「世界の全てを知る」女神。それはきっとウィステリアの人々から見た魔女ティルテリアの姿で、賢者達全ての理想だったのだろう。何でも知る魔女に憧れ、より高みを目指して集めたありとあらゆる知識。それを、その積み重ねた努力の結晶を精霊も愛した。

 思えばアルテミシアと初めてこの蔵書室を訪れた時から、精霊はこの場所を気に入っているようだった。今もまた、彼らは母が子に語って聴かせるような愛しげな声で囁く。


「【ヒトの知的好奇心は愛おしい。終わることを知らぬ知の探求は新たな願いを生み、歴史を生み、母なる樹とこの星をより豊かに育てるのだから】」


 柔らかな言葉が伝えるのは、ヒトへの無償の愛。彼らは何よりもヒトを愛している。ヒトがこの世界で広く生を謳歌していることを喜び、明るい未来が長く続くことを切望している。

 しかし、だからこそ。


「【だが、ヒトは間違う。小さな間違いが、やがて大きな破滅へと繋がってしまう。それは悲しく、あまりにも耐え難きこと】」

「【だからこそ、我らは魔女と魔物を遣わした。ヒトを見守り、導き、彼らが正しい道を歩むように】」


「その正しさっていうのは、お前ら基準か」


 アルバートが嘲るような口調で言う。彼は、精霊が「ひとつの土地にひとつの国」という決まりを作っていることを知っている。強い一国が残るなら他の数多の国が崩壊してもいいと思っていることを、その決まりのためにホーラノアで異常なまでに賢者の力が強くなり、多くの人が亡くなったことを。

 アルバートは、あれが「正しい」とは思えない。否応なしに天空塔とユルグに属する人間の考えを知ったから分かる。彼らは、どちらも強固な信念を持って国の維持を望んでいた。それは、どちらが正しいとも言えないこと。いつか争いになるとしても、誰の介入もなく始まったはずだ。それが、ヴァンデの策で天空塔が墜ちたことでさらに泥沼の戦争になってしまった。

 天空塔ができる前の、大陸で覇権を争っていた小さな国々もきっとそうだったのだろう。彼らは彼らだけの理想を持っている。淘汰が起こるなら、それは誰の介入がなくとも必然的に起こること。下手に関われば、より酷い状況になるだけだ。

 アルバートの嘲笑に、精霊は何の反応も示さなかった。彼らにとって、「ひとつの土地にひとつの国」という決まりはそうせざるを得なかった理由がある。幾度となく繰り返した悲劇。何度正そうとしても至る結末。それを、今度こそ止めたいという切なる願いが。

 だが、精霊がそれを語ることはなかった。彼らは、ただ淡々と魔女と魔物に課せられた役割を語る。お前はヒトと違う。考えも願いもいらないのだと繰り返し告げる。


「【魔女と魔物は、ただ定められた宿命に従えば良い。なまじ欲や意思を持つから、この地の前の魔物のようになる】」

「前の魔物……」


 アルバートがぽつりと呟く。彼も、ヴァンデから話だけは聞いたことがあった。アルバートの前に、ティルテリアの創造主である魔女とともにホーラノアに遣わされた魔物。運命を厭い、全てを拒否して自分の世界に引きこもり、最終的にヴァンデに殺された。

 彼は何を大事にしていたのだろう、とアルバートは思う。全てを捨て、運命に抗ってまで叶えたい何か。他人に従わず己の道を進むことを決意しているアルバートは、その先達である自由を愛した魔物のことを知りたいと思った。

 だが精霊は、愚かにも身の程を知らぬ欲を抱いた魔物達を嘲笑う。


「【奴もお前も知らぬのだ。魔女や魔物が生まれた時、既に運命の最中にあることを】」


 アルバートは訝しげに眉根を寄せた。確かに多くの魔物はそうかもしれない。精霊に生み出され、何も持たないうちに魔女と組まれ役割を与えられるのならば、その宿命から逃れたいと思うのも難しいかもしれない。

 だが、アルバートは違う。彼は精霊ではなく、アルテミシアによって魔物になったのだから。大切なものを、好きに望み歩くことを知っている。何よりアルバートの魔物としての生は、彼女の「自由に飛んでほしい」という願いから始まったのだ。精霊の言う役割に縛られる道理はない。

 しかし、精霊は彼も同じだと言う。


「【お前はかつて、あの小さな植物が自分を魔物にしたと思っている】」


 確かに、それも間違いではない。あの時アルテミシアを生かしていた魔力は、全てアルバートの中にあるのだから。だが実際は、


「【だが本当は違う。お前が魔物になったのは、それを我らが求めたから。お前とあの植物を魔物と魔女にするために】」

「何だと……?」


 アルバートがまさか、と声を上げる。それが事実ならば、自由を願った二人は初めから精霊の手の内にあったということ。そんなのあんまりだ。とても信じられないと、彼は首を何度も何度も強く振った。

 だが、そう考えれば辻褄も合うのだ。魔法は基本的に生命を生み出すことができない。ティルテリアを生み出した前の魔女とて、己のクローンを生み出すのに長い歳月を要したのだ。いくらアルテミシアがティルテリアが与えられるだけの魔力を得て生み出された最高のティルヤ族だったとしても、その場の思いつきでアルバートを魔物として甦らせることができるはずがない。

 何ひとつとして反論の言葉が浮かばず項垂れるアルバートに、精霊がいっそ優しげな口調で語りかける。


「【お前達に、そもそも意志が作る道など存在しない】」


 繰り返す断定。それはまるで、アルバートに諦念を覚えさせるように。

 彼は、肯定も否定もしない。夜の森に似た深緑の瞳は、光を失ってただ呆然としている。


「【だが、お前があの小さな花を魔女にしたいと思うことを我らは歓迎しよう。ヒトの更なる想いと歴史のため、それがお前達の宿命さだめなのだから】」


 精霊の声が朗々と響くのと同時に、じっと動かないアルバートの身体を光が包み込む。アルテミシアとの時と同じ、夜明けにも似た緋色の閃光。


「【北の地で、我らであり我らの母である樹が願いを叶える。枯れ落ちた花は魔女に姿を変え、再びお前の前に姿を現すだろう】」


 祝福のように語られるのは、アルバートが何よりも望んだこと。だがそれは一方で枷の呪いでもある。これは、精霊が言った数々の言葉を認めることになるのだ。

 アルバートの願いは、アルテミシアを取り戻すこと。だが、精霊の言動を認めるわけにはいかない。魔女も魔物も己の意志で自由に生きられるのだと、そう信じて彼はここまで歩いてきたのだから。


 ――ならば、どうすればいい?


 その答えは出ないまま、アルバートは図書館の外へと追い出されていった。

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