inter7. いつか、戦争が終わったなら

 ティル・ノグにアルバートとヴァンデが着く少し前、この戦争のもうひとつの主要な舞台であるユルグもまた、かつてないほどピリピリとした緊張感の中にあった。

 最も、ユルグ自体はほとんど戦場にはなっていない。この戦争はユルグの民が起こしたもの。彼らこそ血気盛んに攻め立てているが、天空塔側は基本的に守備に徹し、ユルグ側に攻め入ろうとしないからだ。かつて反逆が起きた時は制裁とばかりに土地と民を蹂躙し、ユルグに恨みと絶望を植え付けてきた。が、天空塔が崩壊するという未曾有の災害が起き、圧倒的な力と支持が無くなって最初の討伐部隊が歴史上初の大敗を喫するという現実。これを受けて大司教はティル・ノグのどこかに引きこもり、彼らの部下もまた消極的な行動しか取れずにいた。

 一方ユルグは、歴史上他に前例のない有利な戦況に浮き足立っていた。搾取を繰り返す天空塔に一矢報い、ユルグを街ではなく揺るぎないひとつの国家として取り戻したいという長年の悲願を思えば当然のことかもしれない。だが自分達の優勢を知るたびに狂喜乱舞し、天空塔の人々を蹂躙して彼らの施設や財産を破壊し尽くすユルグの民の姿は傍から見ても分かるほど異様であった。

 その異様さに眉を顰め、祭りのような騒ぎながら狂気に傾く国の未来を憂う幼い姉弟。ユルグの中核を担う世界樹の神殿。その一室で蹲る多くの人々に励ましの声を掛けながら時折不安げな様子で外の様子を伺う彼らは、アガタの弟妹であるマヤとテオだった。

 かつての戦争で両親を亡くした三人だったが、マヤは神殿に務めていた母の力を少し濃く受け継ぎ、世界樹の力を借りて街を守護する祈りを捧げたり瘴気を防ぐ御守りを作ることに長けていた。テオは父と同じユルグの守護者を目指していた。が、子供であることから戦争での兵役は免除され、神官長のはからいで神殿でユルグの勝利と守護、戦死者の鎮魂を祈るために篭る姉の傍にいさせてもらえることになった。

 世界樹の神殿は、信仰の要である「母なる樹の根」の部屋を中心に幾つかの部屋に別れている。神殿は、祈りと儀式のためだけの場所ではないのだ。迷う人の手をとり、病める人を救い、嘆きのあまり絶望に堕ちそうになる人々の最後の砦となるために、この建物は存在している。そのため簡単な作業部屋の他に、煮炊きをするための部屋や様々な薬を収めた収納庫、数百人くらいなら寝泊まりすることができるような簡素な宿泊設備を備えている。しかし現在、その上限を超えるほどの人がユルグのあちこちから神殿に集まっている。

 いくら土地がほとんど侵略から免れているとはいえ、これは戦争。ユルグだけ犠牲が出ないなんて有り得ない。運悪く戦闘に巻き込まれて傷を負った者、辛うじて帰郷したものの動くことができない兵士。或いは今まさに家族が前線へ出陣しており、消息が掴めないままその無事を祈り続ける人々がささやかな安寧を求めて神殿の扉を叩くのだ。

 幾ら人が訪い続けようと、神官達は出入りを決して拒まない。マヤとテオも忙しく動き回る彼らを手伝いながら、集まる人々が皆不安に顔を曇らせていることを嘆かずにはいられなかった。

 勝敗とか、優勢劣勢という話ではないのだ。勝っている、負けているのに関わらず、戦争が起きたら必ず双方に犠牲が出る。どちらにも、辛く悲しい思いを残してしまう。

 ユルグの人々が天空塔を憎悪し、戦争で血気盛んになる気持ちは分かる。マヤとテオも両親を天空塔との諍いによって亡くしているのだ。かつて無念の内に倒れた父母を慕う気持ちは忘れていないし、もちろん天空塔に対する怒りもある。それでも敵味方問わず破壊の限りを尽くし、多くの命を奪い、日ごと嘆きと絶望を増やす戦争が良いものとはとても思えない。

 しかし争いに向かう時流も、勝利に酔い狂ったように更なる破壊を望むユルグの人々も、マヤとテオに止める術はなかった。


「マヤに、もっとできることがあればいいのに……」


 ぽつりと呟く。いくら世界樹の力を借りられるとはいえ、まだ子供。大人に意見を言うことも許されず、できるのはただ少しでも早く戦争が終わってほしいと祈ることだけ。望みを持ちながら何もできない自分の無力に、マヤは打ちひしがれた。

 俯く彼女の手をとりぎゅっと握ってくれるのは、同じく自分が無力な子供であることを実感しているテオ。少しばかり戦える力があるというだけで、ユルグのために何ができるというのか。前線に出れば誰かを殺すことになる。今までは、どうせ敵なのだからそれでいいと思っていた。が、この異様な狂気に溶け込んでいく自分を想像するだけで背筋が凍るようだった。

 戦争が始まる前は、故郷の人々を怖いと思ったことなど一度もなかった。彼らは厳しくも優しく、常にユルグを思い、故郷に誇りを持って生きてきた人だ。身寄りのなくなった自分達にも優しく、分け隔てなく接してくれる人々にマヤもテオも感謝している。そんな大人たちが繰り返し語る辛酸を舐め続けた故郷の歴史に憤り、彼らの言う通り天空塔とその信者は絶対的な悪なのだと決めつけていた。

 だが戦争が始まり、目に見える光景は少しずつ変わってきた。大怪我で疲れ果てた人も、親を亡くした小さな子供も、ユルグの民ではないからと人々は寄ってたかって罵声を浴びせ、殺そうとする。その光景に、戦争というものを何も知らないということを思い知らされた。天空塔側も自分達と同じ人間で、争いなど何も知らずごく普通に生活している人や幼い子供がいることくらい、少し考えれば分かることだというのに。

 ユルグの人々の憤りは理解できる。それでも戦争というものの重みを知った今、彼らに混じって嬉々として誰かを殺すことも、誰もが納得して争いを終える道を見つけることもできない。これが、マヤとテオの現実だった。

 薄暗い神殿の空気は重い。呻き声や小さく啜り泣く声を耳にするたびどうにか励ましたいと思うのだが、自分も悩み不安を抱えている以上どうしてもそれが相手に伝わってしまう。かといって、役割だからと己の胸中に燻る暗い気持ちを隠して他人と接することができるほどマヤもテオも大人ではない。できることは皆無に等しかった。

 項垂れ、痛いほどに固くテオの手を握り締めるマヤが不意にぽつりと呟いた。


「ここに、お姉ちゃんがいたらなあ……」


 唐突な言葉だったが、特に驚いた様子もなくテオも頷いた。同じ気持ちだったからだ。

 二人の姉であるアガタは、早くに亡くなった両親に代わり幼い頃からずっとマヤとテオを護ってくれた。弟妹に様々なことを教え、その幸せを願いながらも、自分には突出した才もないからと少女としてやりたいことも顧みることなく故郷と家族のために働いた。遠くユルグから離れた、よりにもよって天空塔の関係者たちが集まる街で。

 マヤとテオは二人とも、アガタを心から慕っていた。彼女を親のように、あるいは先生のように憧憬の眼差しで見つめ、唯一無二の存在として信頼していた。アガタはマヤとテオを愛し、その才も含めて誇らしい弟妹であると幾度となく笑った。が、才がないことを嘆く姉こそが二人にとっても誇りだった。

 今も、アガタがいればこの悩みも不安も消えるだろうと当たり前のように信じている。二人にとって姉とはそういう存在なのだ。

 同時に、とても心配だとも思う。何しろアガタは、この戦争において前線となっている場所で働いている。今、何をしているのか。どこかへ逃げることができたのか。戦闘に巻き込まれて、怪我などしていないだろうか。不安の種は尽きないというのに、今すぐその姿を確認できないことがもどかしい。せめて無事であるようにと、マヤとテオは繰り返し「母なる樹」に祈った。

 その時、俄に神殿の外が騒がしくなった。


「何だ……?」

「何か、良くないことじゃないといいけど……」


 そうマヤは言うが、ただでさえ戦時中という異常事態。良くないことの可能性も高い。例えば沢山の怪我人が出たか、不届き者でも現れたとか。そのようなことを考えた二人の顔は、一瞬でさっと青ざめた。


「何とか様子を探ってみる。マヤはじっとしてて」


 マヤの手を離したテオが、いち早く窓際に駆け寄った。窓といっても外にいる人の姿も見えないような、小さな穴の組み合わせでできた飾り窓。しかし、何も見えない代わりに硝子も何も嵌められていないので音はしっかり聞こえる。恐らく敵である可能性を考えて、外から知られず様子を確認するための判断なのだろう。

 聞き耳を立てるテオの後ろに寄り添い、マヤもそっと耳を澄ました。弟は渋い顔をしたが、自分だって状況を知りたい。それに、テオだけに危ないことをさせたくないという思いもあった。

 声の内容を聞き取ろうと耳を傾けてみて、ふと違和感を覚えた。聞こえるものが、とても暗い内容とは思えないのだ。まだ確かとは言えないが、これは人々の負傷や敵の襲来といった話ではない。


(もしかして……何か、戦争が大きく動いた?)


 現在、戦争はユルグが優勢だが、天空塔の実質的な最高権力者である大司教がどこかに隠れてしまっているため膠着状態が長く続いている。今何か吉報があったとするならば、その大司教が見つかったということではないだろうか。

 もしかしたら、戦争が終わるかもしれない。僅かな期待を胸に、再び耳を澄ました。大勢の人が同時に声を発するガヤガヤという騒ぎの中に幾らかはっきりと聞こえる言葉を見つけた。


「よく無事で」「怪我はないかい?」「あなただけでも無事に帰ってくれて良かった」「ティル・ノグの状況が全然聞こえないから心配していたんだ。もちろん、俺達が勝っているとは思っているけどね」「あの、残虐非道な天空塔の奴らが集まっている場所だからねぇ……」


 口々に話しているのは、大司教のことではない。そのことには落胆したが、誰かが「無事に帰ってきた」という話は素直に嬉しいと思った。死者と怪我人ばかり増える戦争において、終結の見立てがつくことと比べても遜色ない吉報だ。マヤの口も思わず緩く弧を描く。

 その時、サラサラという衣擦れの音ともに、聞き慣れた神官長ウルトの珍しい涙の滲んだ声が聞こえてきた。


「おかえりなさい。……本当によく無事に帰ってきましたね、

「……っ!?」


 その名前を聞いた瞬間、マヤとテオは思わず顔を見合わせた。暫しの沈黙の後、競うように神殿の入口に向かって駆けた。不安そうに二人の様子を窺っていた人々が驚きに身を震わせる。

 それにも気づくことなく、息を切らせて全速力で走る。二人の心の中は、早く確かめたいという思いでいっぱいだった。

 長い回廊を駆け抜けた先、大きく開け放った正面扉のすぐ向こうに待ち望んだその人がいた。


「お姉ちゃん!」

「マヤ、テオ! 元気にしてた? 心配かけちゃってごめんね」


 もう随分と会っていなかった気がする。それでも数年ぶりに故郷に帰ってきた姉は、マヤとテオを見ると記憶と変わらない優しい笑顔を見せた。

 しかし、変わったところも多い。特に、以前より痩せたような気がする。着ている枯れ草色の上着も黒いズボンもボロボロになり、所々破けている。その隙間から見える肌は、あちこちに擦り傷や打ち身をこさえ、人の肌とはとても思えないほど赤黒く変化していた。目の下には隈と涙の痕。それらを見るまでもなく、彼女がへとへとに疲れ果てていることは確かだった。

 それでもただ、生きて帰ってきてくれたことが嬉しい。マヤは自分の涙腺が緩むのを感じた。熱くなった目頭を誤魔化すように、アガタの胸にぎゅっと抱きつく。隣を見ると、テオも同じように抱きついていた。

 小さな子供のようにしがみつく二人の頭を、アガタは優しく撫でてくれた。それから、まとめて腕の中に閉じ込める。


「二人が元気そうで、本当に良かった。……こんなことになっちゃってごめんね」


 抱きしめる姉の腕は、僅かに震えていた。声にも涙の気配。そして、悔恨の響き。

 彼女は酷く後悔しているようだった。もしかしたら気づいているのかもしれない。自分が弟妹に贈ったものが、ユルグの民が激怒し戦端を開くきっかけになったことを。他国にいながら、これほど戦争が泥沼化するまで何もできなかったことも拍車をかけているのだろう。今劣勢なのは天空塔の方で、アガタは彼らに両親を殺された恨みがある。それでも姉は優しい人だから、戦争が起きたことそのものに心を痛めるのだ。

 そんな姉を持って、マヤは心から誇らしいと思う。だからこそアガタの懺悔の言葉に、ぶんぶんと大きく首を振って応えた。


「お姉ちゃんは何も悪くないよ。誕生日プレゼント、本当に嬉しかったもん」

 沢山頑張ってくれて、ありがとう。


 顔を上げ、涙声だが精一杯の笑顔で言うと、アガタの顔がくしゃりと歪んだ。嗚咽を堪えるように、抱きしめる力が強くなる。

 そのまま暫く無言で抱き合っていたが、ここが神殿の正面玄関であることを思い出したのだろう。名残惜しそうにアガタが腕の力を緩めた。マヤとテオも離れ、未だ止まらない涙を己の袖で拭う。三人の様子を微笑ましげな様子で見守っていた神官長がアガタに声をかけた。


「帰ったばかりで疲れているでしょう。諸々話は後で聞きますから、今は少し神殿で休んでおきなさい。マヤとテオは、アガタを案内して怪我の手当てをしてあげるように」

「あ、ありがとうございます」


 休ませる必要があるのは勿論のことだが、兄弟に気遣ってくれたのだろう。有難い申し出にマヤとテオは頷き、慌てて礼を言うアガタの腕を引いて神殿内に入った。

 医務室となっている部屋に入り、簡易的な寝台にアガタを座らせる。水盥と布、包帯を傍に並べたマヤは、棚に並べられた薬草瓶を吟味し始めた。

 隅に纏められた大量の空の瓶。隙間無く並べて干され、風に揺れる白い布。細くなった包帯の筒。医務室に残された様々な形跡は、ここに沢山の患者がいたことを示している。アガタがぽつりと呟いた。


「ここでもきっと、沢山の人が亡くなったのね」


 薬草を選別し終えたマヤは、それらを擂り粉木でごりごりと混ぜながら俯いた。

 戦争が始まってから今まで、こうして何度も薬を作った。怪我の手当てをして、苦しむ人の手をとって。訪れる人を皆助けたいと願った。それでも、駄目だった人が沢山いる。

 元々、ユルグの神殿は最後の砦。訪れる人は皆決死の思いで戦場から逃げ、神殿に辿り着く頃には虫の息の者ばかりなのだ。救いたいと思っても、間に合わないまま命を落としていく人々。彼らの死に目を看取る度に胸をぎゅっと締め付けられ、早く戦争が終わってほしいと願わずにはいられなかった。


「お姉ちゃんは、ずっとティル・ノグにいたの?」


 傷を水に浸した布で清め、作り終えた薬を塗布しながら、マヤはアガタに問いかけた。多分後で神官長も色々聞くだろうが、少しでも今の戦場や、姉の身に何が起きたのかを聞きたかった。何より話し続けていないと、どんどん悪い方向に考えてしまいそうだった。

 アガタも妹の心境に気づいているのだろう。すぐに頷いて不器用に微笑みながら言った。


「うん。戦争が始まってすぐにユルグに行きたかったんだけど、働かせてもらっていた教会の神官様に捕まっちゃって……」


 それから語られたあまりにも壮絶な経験に、思わずマヤもテオも背筋を凍らせた。もし横から誰かが助けてくれなかったら、アガタはそのまま死んでいたかも知れなかったのだ。


「お姉ちゃんが無事で、本当に良かった……」


 改めてしみじみと呟く。アガタも「そうね」と頷くと、何処か遠い眼差しで窓の外を眺めた。


「それでね。その助けてくれた人、魔法を使ってたんだ」

「天空塔の人ってこと?」


 ぽつりと呟かれた言葉に、ぎょっとしながら問いかける。天空塔の人がアティリアという道具を使って魔法を使うという話は、ユルグから出たことがないマヤでも知っていた。母なる樹に似たその力に、故郷は何度も苦しめられたのだ。だが、まさか戦争の真っ最中に天空塔の人が敵であるユルグの民を助けるとも思えない。

 マヤの問に、アガタは首を振りながらも眉を顰める。


「それは分からない。あの人、教会のことを嫌っているみたいだったし。……でも、ユルグの人でもないと思う」


 時が経つ程に、この戦争はどんどん複雑になっていった。天空塔を離れてユルグに味方する者も、逆にユルグから飛び出し天空塔に味方する者も僅かだが存在する。傭兵と呼ばれる者たちは特に流動的だ。アガタを助けた人物も、もしかしたらそういう人だったのかもしれない。

 姉自身は、あまりその人がどこに所属していたかは興味がないみたいだった。ただ、夢の中の出来事を思い出すようにぽつり、ぽつりと呟く。


「その人、凄く冷たい瞳をしていたんだけど、同時にとても悲しそうだとも思ったの。怒ってるのに、ずっと辛そうで……。多分、本当はとても優しい人なんだろうなって思った」


 アガタは、たった一度だけ見たその人が忘れられずにいた。研ぎ澄まされた氷の刃のように冷たく、ずっと怒っていて、けれど見知らぬ一介の侍女メイドを助けるような優しい人。とても強いのに、彼が泣いている子供のように見えたこと。


「戦争は、みんなを冷たい目にしちゃう。優しい人が、優しいままではいられなくなってしまう。きっとあの人だけじゃない。沢山の人が悲しい思いをしていて、それを誤魔化すように冷たい目をして怒っているんだと思う」


 ティル・ノグから逃げ出してユルグに辿り着くまで、アガタは沢山の人を見かけた。天空塔の人もユルグの人も、誰もが戦争で何かを失くして、その悲しみを堪えるように相手を恨んでいた。アガタはそれを哀しいと思う。

 一方マヤも、姉の語る言葉に覚えがあった。他ならぬ、ユルグの民と長老のことである。彼らは本当は優しい人なのだ。戦争という状況と、それが引き起こしてきた沢山の悲しみに囚われているだけで。

 深く頷いて同意を示す一方、その現実に対して何もできない自分を悔いるように俯いて唇を噛み締めるマヤ。彼女の頭をぽんぽんと軽く撫でたアガタは、今までとは打って変わって明るい声で話した。


「でも、誰かが少しでもそれを思い出してくれたなら、いつか必ず戦争は終わると思う。そして今度こそ、ユルグと天空塔が争わずに済む本当の平和が来ると思うんだ」


 天から降ってくるような理屈の無い希望の言葉に、ユマは目を見開いてアガタを見た。彼女は何でもなさそうに「だってそうでしょ?」と続ける。


「魔法を使う、ユルグの民ではない人が戦争の真っ只中にあたしみたいなどこにでもいるメイドを助けてくれた。こんな優しさがあるから、戦争が終わることも信じられる。それに外に働きに出てから、天空塔を信じる人も悪い人ばかりじゃないと思ったんだ」


 ずっと、天空塔を恨んでいた。塔の関係者も彼らを信じる人もとても信用できない。冷酷非道な悪人ばかりだと思っていた。

 だがティル・ノグで働くようになって、その考えは少しずつ変わってきた。


「もちろん当たりの強い人もいたけれど。ほとんどの人は、明らかにユルグの人って分かるあたしにも優しかった」


 いつも自分をフォローしてくれたメイド仲間。買い物にいくと商品をおまけしてくれたおばさんに、弟妹の誕生日プレゼントだと話すと色々勧めてくれたおじさん。毎日教会を訪れて、工場で働く息子のためにと祈る老夫婦。

 戦争が始まって、ティル・ノグから逃げている時も優しくしてくれた人は沢山いた。ユルグの民だけではない。少ない食料を分けてくれたり、瓦礫の少ない通れる道を教えてくれたりした人の中には、なんと天空塔の兵士と思しき人もいた。

 彼らと交流するうちに、アガタは長年抱えてきた自分の考えが間違っていたことを知った。信じるものが違うだけで、天空塔側の人々もまた自分のささやかな生活を大切にする同じ人間であると気づいた。


「もちろん、消えない恨みもある。お父さんとお母さんと、沢山の人を殺されたことをあたしはずっと怒っている。多分、一生忘れない」


 あまりにも長い諍いは、恐らく簡単には修復されないだろう。アガタが父母のことを忘れないと思うように、消えない恨みと怒りに身を焦がす人はきっと沢山いる。


「でも、もし戦争が終わって誰もが優しい気持ちでいられるようになったら。今度こそ天空塔もユルグも関係なく、誰もが争わずにいられる世界になったらって思うんだ」


 恨みはある。それでも互いを許して、争うことなく生きられる日はくるのではないかと思う。すぐには無理でも、みんな同じホーラノアという土地で生きる人なのだから。

 アガタは一通り語り終えると、黙って聞いていたマヤとテオを見てにっこりと微笑んだ。


「だから、マヤとテオも覚えていて。この戦争で何が変わって、どういう結末を迎えても絶対に忘れないで。あたしを助けた人がユルグの民ではない、もしかしたら天空塔の人だったかもしれないということを」


 天空塔側の人も同じ人間であることを、アガタはマヤとテオに覚えていて欲しかった。

 何か納得した様子で繰り返し頷く二人を見て、同時に思う。もしかしたら、本当に漠然とした考えだけれど。


(あの人は、ユルグとホーラノアを大きく変えるかもしれない)


 いつか再び、会う時が来るかもしれない。せめてそれまでに終わらない戦争が少しでも収束に向かうようにと、アガタはこの神殿に祀られた母なる樹の根に願うのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る