第47話 黒姫 

 カブの後部に物資を積んだ小熊と礼子は、黒姫駅を出た。

 上下ツナギの防寒服を着ていなければ、ごく普通の原付通学の女子高生が今から学校に行くようにしか見えない姿。

 災害の混乱の中でも、麓の北しなの線沿線の街はいつも通り動いている。小熊と礼子は県道を山に向かって折れ、そのまま終わらない坂を登り始めた。

 道路端に積雪はあるが、まだ凍結していない生活道路を走り、黒姫山の裾野にある開発集落に達した。


 地震の後も開発集落の様子は普段と変わらない様子で、自販機の灯りが煌々と点き、郵便配達のカブが通販の荷物を届けている。浮谷の親友が助けを待つ分校は、ここから数km先。距離はたいしたことないが、標高数百mを登った上にある。

 集落に繋がる唯一の道路は、地元の消防団によって封鎖されていた。地震による雪崩と土砂崩れで複数の箇所が崩壊していることは、黒姫駅で聞いた。ここで今まで小熊の後方を走っていた礼子が、先頭を交代する。そのまま開拓集落の外周道路を少し走った礼子は、途中でハンターカブを道路脇の道か木々の隙間かわからない空間に突っ込ませる。小熊も礼子のハンターカブに続いた。

 礼子が向かったのは、軽トラ一台分あるかないかという感じの細い道だった。徒歩の登山道のように見えるが、鉄鎖の手すりが無い。


 リゾート開発の盛んな地域には、別荘道路と言われる道がある。

 別荘を建てたオーナーや開発業者が私費で敷設した道路で、公的な地図や資料には載っていない。山梨近県の別荘道路をハンターカブで走り回っていた礼子は、偶然黒姫の別荘地帯と道路について知っていた。この別荘道路を使って孤立集落に繋がる県道をバイパス出来れば、災害救援の四輪駆動車にも踏破出来ないほど過酷で、徒歩による輸送をするには遠すぎる道を越えて、集落まで物資を届けられる。

 以前通った時は夏季だったこともあり快適な林道だったらしいが、冬季にどこまで走れるかはわからない。


 坂は開拓集落までの道より更に斜度を増しているが、まだ道路はコンクリートで簡易舗装されていて、前後のタイヤに打ち込まれた金属製のスパイクがバシバシと音を発てている。そう思っていたら、標高が上がってくるに従って路面が凍結し始め、やがて雪に覆われてくる。

 風は刺すように冷たいが体の心が熱い。道路の左右には通行者を保護する物が何もなく、前方の障害物にタイヤを取られれば、このままカブごと斜面を滑り落ちる。

 後部の荷重も加わり、いつもとは挙動の異なるカブが集中力を削いでいく。小熊は礼子と先頭を入れ替わった。普段は我の強さを発揮する礼子も、大人しく小熊の後方につく。

 

 スパイクタイヤが仕事をしてくれているらしく、凍結した雪の山道をカブは何とか走ることが出来た。夏の富士山ブルドーザ登山道とどっちが過酷か小熊は考えた。少なくともブルドーザ道の石礫には摩擦というものがあって、タイヤを乗せてもそのままタイヤが石を噛み、越えられる。凍った石は滑ってタイヤを弾き、重荷を積んでバランスの悪いカブを転ばせようとする。小熊は息を吐いた。口元まで引き上げたウールのネックガードで、呼気が凍っている。ヘルメットの透明シールドの縁が霜に覆われ始めていた。


 今は過去の走りと比べるのをやめよう。そう思いながら走り続け、礼子と何度か先頭を交代しながら山を登る。防寒ツナギやグローブに貼り付いた氷がパリパリと音を発てていた。

 頭が痛くなるほどの冷気と、絶えずタイヤを横滑りさせようとする凍結した道路を除けば、快適とはいえないまでも走れなくはないと思っていたら、進路が倒木で塞がれていた。小熊と礼子はカブに括り付けていたシャベルと斧を手にして、障害物の除去を始めた。


 何度も転び、何度も道を塞がれ、そのたび切り開き、二人は走り続けた。雪と上り坂の走行抵抗で前進できなくなった時は、何とか動けるカブが動けないカブを引っ張り上げ。走る道を作りながら走っていった。

 カブを降りて雪かきや倒木の切り開きで運動すれば温かくなると思いきや、頭が痛くなるような冷気は消えない。小熊はこの別荘道路に交差点が無くて良かったと思った。もう指先はカブのウインカースイッチを操作することも出来ないくらい自由が利かない。

 先行していた礼子が片手を上げたので、小熊はもともと歩くより少しましな速度しか出せていなかったカブを減速させた。冷たい風を避けられる雪庇の陰に二台のカブを駐める。

「ごはん」


 礼子に言われても、小熊は食欲など無かった。礼子も空腹そうには見えなかったが、ウールの手袋をはめた手を擦っている。小熊の手と指も感覚が無い、雪山で最も恐ろしい物とされる凍傷が始まりつつあった。

 地面に座り込んだらそのまま体が凍って貼り付いてしまいそうなので、二人ともカブに座ったまま、ちょうどいい位置にあった切り株にコールマンのガソリンコンロを乗せ、礼子の丸飯盒で米を炊き始める。

 零下十度を下回る気温に、コンロの炎はなかなか安定しなかったが、何とか米を炊くことが出来た。飯盒で炊かれる米より、周りに漏れる炎と熱のほうがご馳走な気がする。ご飯を炊いている間、二人はずっとコンロに手をかざし続けた。赤く腫れたようになった初期凍傷は何とか落ち着き、指先が動くようになった。

 礼子は飯盒で、小熊は自分のメスティン飯盒でレトルトのエビチリ丼と麻婆豆腐丼を食べる。辛さがありがたい。普段は幸せな満腹感を覚えるメスティン一杯のご飯が胸につかえそうだったが、無理に押し込み、お茶を沸かして飲んだ。ペットボトルのお茶はとっくに凍っている。  


 食事を終え、小熊と礼子は走行を再開した。細い別荘道路は集落に繋がる県道と合流したが、道は楽になるどころか過酷さを増す。横からの土砂崩れで道じゃなくただの斜面となった道路で、凍った土をシャベルで掘って走路を拓き、ロープで体を固定しながら越えた時には、自分がここで死んだら私物を誰に譲るか書き残しておかなかったことを後悔した。

 終わらない山道に意識が朦朧としてきたところで、急激に景色が開かれた。地面が平坦になったことで速度を増したカブに転びそうになる。コンクリートの高台が見えた。横の坂道を登って高台の上に出ようとしたが、夢の中のように足がうまく動かない。今は自分の足ではなくカブで走っているということを思い出す。


 高台の横の坂を二台のカブで登った。今まで道なき道を走ってきたのに、整地された坂が果てしなく長くい苦行のように感じる。前方の進路ではなく、カブのメーターが視界を支配する。やがて地面がよく見えるようになった。もうダメかも、小熊の目に地面を流れていく土や石ころがはっきりと見えた。走っているカブのタイヤやチェーンの動き、エンジン内部のピストンが動いてる様までよく見える気がする。それに乗っている自分は、まだ心臓が動いているらしい。


 メーターの上に覆いかぶさるような格好でカブに乗っていた小熊は、背を伸ばし前方を見る。坂道だけど路面は平坦で、斜度はそんなにきつくない。路面状態はスパイクタイヤなら何とか踏破できる。坂を登りきったあたりの急カーブだけが曲者だと思った。一度カブを降りて押したほうがいいかもしれない。後方から坂を上がってくるハンターカブが、小熊を追い越していった。そのまま片足を地面につき、タイヤを滑らせながら坂上のカーブを通過する。ギアを落としトルクをかけて、カーブの立ち上がりを加速していく。

 追い越されざまに小熊は見た。礼子はもうカブに乗りながら意識をほとんど失っている。目で見たものを、今まで自分のハンターカブで経験した数え切れないくらいの走りが染み込んだ脊髄だけで情報処理し、手足に命令を実行させている。


 とりあえず小熊も礼子に倣い、片足をついてカブをコーナリングさせた。そのまま高台の上にある広い敷地にカブで滑り込む。

 目の前には、分校の校門と、校名が書かれた銘板。

 小熊は礼子の胸を拳で叩いた。今まで何か美味しい物を食べる夢を見ていたような顔をしていた礼子は目を見開く。校門を見て、小熊を見て、それから小熊と礼子は拳をぶつけ合った。


 そのまま校庭を二台のカブで突っ切り、昇降口前に乗り付ける。普段通っている高校ではそんな反社会的な真似はしたことない。

 停電しているらしく常夜灯の灯りの点いていない分校。雪による吸音効果で、二人が来たことに気づいていない様子。とりあえず人の気配のある体育館まで行ってみた。

 体育館の鉄扉を小熊が開けようとしたところ、同時に向こうから扉が開かれた。姿を現したのは若い女性。不安そうに小熊を見ている。

「あなたがてっちゃんと呼ばれている方ですか?浮谷東うきやあずまからのお届け物をお預かりしています」

 女性はその場に崩れ落ち、涙を流した。

「わたしたち、助かったんですね」


 体育館の中は避難所になっていて、その若い女性と十数人の子供たち、学校周辺の集落から来たらしき住人が灯油のストーブを囲み、シートの上で毛布と教室から外したらしきカーテンに包まっていた。

 照明は消えていて中は薄暗い。昼間はまだ互いの顔が見えるくらいの明るさが保たれているが、深夜に発生した地震。暗闇の中でどれだけ心細かったことか。

 礼子がアウトドアブーツのまま体育館の中に入っていく。全身凍りついた姿で、救援しに来たのか助けを求めに来たのか見分けのつかない姿の礼子と小熊を、生徒たちは不安そうに見ている。小学校低学年らしき女の子が「てっちゃん先生……」と言いながら、小熊と応対した若い女性の裾を掴んでいる。


 礼子は子供たちに向かって言った。

「みんな元気かな?」

 青白い顔をした子供たちの反応は薄い。その中で、一番年上らしき小学校高学年の女子が、礼子に向かって言った。

「おねえさんはわたしたちを助けにきてくれたんですか」

 小熊は不器用ながら、笑顔らしきものを浮かべながら言った。

「あれ?みんな知らないのかな?」

 礼子が満面の笑みを浮かべて言った。

「いつだって正義の味方はね、バイクに乗ってやってくるって決まってるのよ!」

 子供たちの目に生気が蘇る、釣られたのか大人たちの間にも高揚の感情が拡がっていく。一瞬の後、体育館に歓声が響き渡った。

 小熊と礼子がカブで登山している間ずっと曇っていた空の隙間から、太陽が姿を現す。てっちゃんと呼ばれた女性は体育館の窓から差す陽光に照らされながら、跪いて神への感謝を祈っていた。


 その後、小熊と礼子がカブに積んできた救援物資が下ろされた。当座の食料と水。医薬品。一部の山間部では使えないが、黒姫一体では通話可能な状態が確認、保証されている衛星携帯電話。ガソリンエンジンの発電機とガソリンコンロ。中に入れるガソリンについては、集落に何台かあった車のタンクから抜き取る方法を小熊がその場でレクチャーした。

 万一発電機が使えなくなった時のために、車のエンジンから電源が取れるインバーターも持ってきている。


 衛星電話を使い、麓で待つ自治体と連絡を取ったてっちゃんは、あと三日すれば県の災害救難チームが、断絶した道路を復旧させてここまで到着することが伝えられる。発電機やコンロ等も問題なく動く様子。ガソリンは車から抜き取らなくとも学校に三日くらい何とかなる程度の備蓄があった。

 集落の各家庭から持ち寄った食料とガソリンコンロで豚汁が作られ、発電機に繋がれた炊飯器で米が炊かれる中、持って来たすべての物資を動作確認した小熊と礼子は、空荷となったカブへと向かう。


 てっちゃんはせめて豚汁と温かい握り飯を食べていってほしいと言ったが、小熊と礼子はまだ充分ではない米と食材を使ったもてなしを断る。

「まだ不足している物があります。これから麓まで降りて、第二便をお届けにうかがいます」

 礼子は子供たちにまとわりつかれながら言った。

「みんな!次は三時のおやつを持ってくるわよ!」

 小熊は礼子の襟首を引っ張りながら、自分のカブに跨った。礼子の言う通り、明るいうちに下山するなら、第二便のタイムリミットは三時頃だろう。遅刻したら礼子のせいとでも言っておけばいい。


 走り去る小熊と礼子を見ながら、小学校低学年の男の子が、横に居る集落住人の男性に言った。

「おじいちゃん、あの乗り物は何?」

 老人は、自分が若い頃に乗っていた頃と何も変わらぬ姿で、未だに逆境における最も高性能な移動手段として走り続けるカブの後姿を見ながら言った。

「あれはな、スーパーカブというバイクだ」

 少年は山道の奥へと消える、二つの赤いテールランプを見つめながら、それが自分に望む力を与えてくれる魔法の呪文のように繰り返した。

「……スーパーカブ……」


 その後、救援活動が本格化するまでの二日間を黒姫で過ごした小熊と礼子は、四百五十kgの物資を三つの孤立集落へと運び上げ、二人の急病人を麓まで搬送した。

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