第31話 社会性

 史が不安を覚えていることはわかった。それは小熊にも経験あること。

 小熊が今乗っているカブを手に入れた時も、原付免許を取得し車両を登録するため、日野春の一駅隣にある長坂の駅近辺を駆けずり回った。

 高校生の身でお役所や警察署を相手にすることは、高校入学直後に母親が失踪した時にある程度経験したが、それでも小熊は申請や許認可のような、社会性の求められる行動に対する苦手意識があった。

 母がまだ居た時に、税金や住居の手続きに連れて行かれたことがあったが、自分が将来こんな事を出来るようになるとは思えなかった。何をすればいいのかわからない。なんて言えばいいのかわからない。大人は何もわからない人間なんか相手にしてくれない。

 もしかして小熊が不安を覚えていた原因の一つは、まるで友達に借金か何かの頼み事をしに来たかのように役所にやってきて、自分に都合の悪いことがあるとすぐに担当の役人に食ってかかる母親にも原因があったのかもしれない。当てにならぬ母の替わりに、カブが小熊を育ててくれたようなもの。


 その後の母の失踪で経験した大人たちとの話し合いで、世の中のシステムというものを垣間見ることが出来た小熊は、カブを買った時にはその苦手意識を多少なりとも薄めることが出来た。苦手はやりたくなくてもやらなきゃいけないことはやらないと何も手に入れられないという義務感で、ある程度抑えこみ塗り潰すことが出来る。

 それからカブに乗り続けるために必要となる様々な手続きや、仕事でカブに乗るようになったことで経験した社会との関わりの中で、苦手意識はほぼ希釈された。

 無くなったわけではない。ただ、世の中には人を騙したり誤魔化したりしようとする人間が山ほど居て、それに比べれば規定された物を揃えて公示されている時間に行けば、必要な物を手に入れられる役所関係の用事は、値切りや催促が無いだけまだ気楽なもの。


 少なくとも役所の窓口は、小熊がバイク便の仕事をしている時の客先に居た物書きみたいに、この時間には出来ると言って決めた締め切り時間に原稿を取りに行っても、色々と言い訳や泣き言を垂れて原稿を出さず、しまいには小熊に文章書きとバイクに関する考証を手伝わせるようなマネをする、社会人としての責任感に欠けた大人は居ない。

 礼子はといえば、小熊とは別の意味で役所や警察署が苦手な様子。普段から無法な走行の常習犯でスネに傷持つ身だということは知っていたが、礼子は真面目な顔で言っていた。世の中の車やバイクの動きはトラッキングされていて、何かやらかした履歴が国家のビッグデータに残っている人間がノコノコと警察署に来ると、カモネギ状態でそのまま手錠を打たれると。馬鹿だ。


 史の気持ちをある程度理解できた小熊も、手取り足取り役所に連れてってあげる義理は無い。だいたいそれじゃ自分とその能力以外何も信じない慧海と一緒に居る女としてふさわしくない。小熊は史を放り出しつつ、そのまま振り落とされていくことをどこかで望んでいた。

 一応バイクに乗っている人間の義務だけは果たすべく、カブの後部から一冊の本を取り出した。原付免許の問題集。具体的な取得方法まで書かれている本は、小熊がカブを買った時に中古バイク屋のシノさんが貸してくれたもの。

 無事免許を取得した小熊は、問題集をシノさんに返そうとしたが、シノさんは受け取らなかった。

「こういうものは順繰りだから」


 その時はシノさんが言っていたことの意味がわからなかったけど、事実として今、必要になっている。シノさんが特に先見の明に優れていたわけではなく、バイクに乗る人間の間で受け継がれていく物というのはある。たとえばよく先輩から後輩に譲り渡され、しばしばありもしない伝説が付け加えられるマフラーやピストン等のチューニングパーツ。膨大な走りと調整を記録したセッティングデータ、時にバイクそのもの。大学の自動車部あたりに行けば、一台か二台は歴代の後輩に乗り継がれたボロい原付がある。

 多くの場合はそのバイクを降りた後は用無しになり、買い取り業者も値段を付けないような邪魔物や、手放しても惜しくない物がバイク乗りから若いバイク乗りへと継承される。その筆頭が免許を取ったらいらなくなる試験問題集。


 小熊は史に問題集を渡しながら言った。

「明日までにこれを見て勉強して」

 史は問題集を丁重に押し頂いたが、まるで一塊の部品であるかのように重そうな様子で持つだけで、中身をめくって見ようとしない。原付免許を取るにはどうすればいいかが書かれている本には、どうしなくてはいけないかが書かれている。

 史がどう思おうが、この本を開き、社会との関わりを得るかどうかは史が決めなくてはいけない。そう思った小熊は時計を見て、家に帰るべくカブに跨った。礼子はもうハンターカブのメーターに突っ伏して眠ってしまいそう。


 史は問題集を開くことをしないまま、着ていたカシミアのコートのポケットにしまおうとした。史は自分の中に芽生えた外の世界との繋がりを望む心を、あの周りの光を吸収する黒いコートの中に隠し、この世のものでない幽霊に戻ろうとしているように見えた。

 横から手が伸びてきた。史の黒い世界に無遠慮に突っ込まれた手が、ポケットの中に消えつつあった問題集を掴む。

「原付の免許というものを取るには、こうすればいいのですか」


 慧海が問題集のページをめくっていた。さっきまで中身を読むことを恐れていた史は、肩が触れるほど近くに立った慧海が指差す先に引き寄せられるように、冒頭近くに章を設けられた手続き方法を読み始める。

 慧海が顔を上げ、小熊に言った。

「わたしも免許を取ることにします」

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